映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

『キャンディ・キャンディ』に思う[1]

2021-11-06 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』がもたらしたもの

 


 少し前に、少女マンガ『キャンディ・キャンディ』の愛蔵版(中公新社刊)を5年ぶりくらいにじっくり読みました。連載時(70年代後半・小学生でした)にリアルタイムで何度も何度も読んでいたし、その後も何度も何度も読んでいるので、愛蔵版を入手してからは、じっくり読むのは5年に一度くらいのペースになりました。読まずとも絵もセリフも脳裏に浮かぶので、、、。

 読む度に、あれこれと思うことがあるのですが、今回、それらをちょっと文字にしておこうという気になりました。

 ただ、マンガ『キャンディ・キャンディ』について書くには避けて通れない本があり、それは2010年に上梓された『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』です。これは、ざっくり言うと、マンガの後日談を含めた原作者によるリライト小説ですが、なぜ避けて通れないかというと、マンガ『キャンディ・キャンディ』にまで影響を及ぼしかねない後日談が新たに展開されていたからです。

 ちなみに、私が読んだのは、マンガ『キャンディ・キャンディ』(原作 水木杏子 作画 いがらしゆみこ/単行本全9巻&愛蔵版全2巻)と、『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』(名木田恵子(=水木杏子)著/上下巻)のみです。小説版は『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』以外にもいくつかある様ですが全て未読、アニメは全く見ていません。

 私の手元にあるのは愛蔵版のみで、単行本は持っていません。愛蔵版を買ったのは、確か94年頃で、原作者VS作画者の泥沼裁判はその直後から始まり、裁判の結果(原作者の全面勝訴)、キャンディの絵に関するものは一切封印されることになったので、当然、マンガも絶版。よくぞ愛蔵版を買っておいたものだと、後になって思いました。

 『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』も今は絶版となっており、図書館で借りて読みました(読んだのは2度)。

 マンガを好きだった者にとってみれば、この裁判は最悪な出来事であり、判決も(原作者の権利が認められたことは良かったのですが)キャンディ関連の絵は一切お蔵入りという最悪の結果です。仕方のないこととはいえ、これについては思うところもあるので、追々触れることになると思います。

 なお、以下、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記します。

 これから書くことは、正編をご存知ない方には??な内容になります。


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◆終わらない“あのひと”論争

 小説Fは、正編終了から長い年月(「アンソニーの死から20年以上がたった今でさえ」《上巻p.218》とある。一方あとがきで、「第二次大戦を目前にした頃のキャンディ」が原作者に語りかけた《下巻p.335》とか書いてある)が経った現在のキャンディ(35歳前後か。1899年生まれのキャンディなので、1939年だと40歳)の回想という形で書かれたもの。

 で、現在のキャンディには、一緒に暮らす“あのひと”がいる。あのひとは「愛するひと」《上巻p.232》なのだ。小説Fのラストシーンはこう締めくくられている。

そのとき、突然、部屋の灯りがともった。/「灯りもつけずに、どうしたんだい? キャンディ」/わたしを、いつもときめかすやさしいその声――。/あのひとが扉の前でわたしを見てほほ笑んでいる。/わたしの大好きな微笑。/あのひとが帰って来る車の音が聞こえなかったなんて。/「おかえりなさい!」/わたしはこの言葉が言える幸せに声をつまらせながら椅子から立ち上がると、あのひとが広げた腕の中に飛びこんでいった。《下巻p.331》

 でも、この“あのひと”がハッキリ名指しされていないがために、ネット上では論争(?)となり、小説Fが絶版になった今も現在進行形。

 もちろん、“あのひと”の候補はアルバートさんテリィの2人に絞られるんだが、小説F中に、現在描写として散りばめられた材料が、どちらにも取れるようになっているわけです。これは、原作者自身が意図したもので、小説Fの「あとがき」で以下のように書いている。

みなさまに、おことわりしなくてはなりませんね……。/それは“あのひと”のこと――。/はじめから曖昧にしようと決めていました。/(中略)/そう、“あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。/それに、“あのひと”を明かしてしまうと、長年の読者たちの夢を奪うことになるかもしれない、とも思いました。(きっと、賛否両論でしょうが)謎は謎のまま、想像の世界を楽しんでもらえたら、と(ちょっと、いたずらっぽく)願っています。《下巻p.336》

 ……なんとじれったい。

 まあ、正編のラストシーン(ポニーの丘で待つアルバートさんに向かってキャンディが笑顔で駆け寄る)を見て、アルバートさんとキャンディが結ばれることを予感した読者たち(これらの人びとを、便宜上「アルバート派」と呼ぶことにします。ネット上でもそう言われているしね)にとっては、この小説Fはそれをダメ押しするものになったのでしょう、、、多分。

 しかし、私のように、あの正編のラストシーンを見ても、“キャンディはアルバートさんと結ばれる”とは全く受けとれず(ウィリアム大おじさまと丘の上の王子さまの正体が明かされただけと受けとめた)、かつテリィLoveだった読者たち(こちらは便宜上ネットの呼称に倣って「テリィ派」とします)にとっては、むむっ??っとなったこと必定。

 なぜなら、小説Fでは、初めて明かされた新展開があったから。それは、スザナの死と、その後のテリィから届いた手紙の存在(詳細は後述)。

 これで、長年、キャンディとテリィの絶望的な別離に心を痛めていた大勢のテリィ派(もちろん私も)は色めきたったわけですヨ。テリィとキャンディの間の、最大の障害であったスザナが死んだ!! しかも、その後テリィからあんなストレートな思いを伝える手紙がキャンディの下に届いていた!!!

 そら、論争になるわね。論争になるってことは、アルバート派の方々も、これはもしや、、、という一抹の懸念がある証拠でしょう。

 ……というような前提があった上で、揺るぎないテリィ派である私には、“あのひと”はテリィに決まっているんだけど、でも、アルバートさんでも別に良い。正直なところ、どっちだって良いのだ。原作者がわざわざ「曖昧にした」と明かしているんだから、原作者の真意など分かりようがない。

 絶対的に分からないことで思い悩むのは虚しいし、原作者も言っているように「想像の世界を楽しんで」しまえば良いではないか。ネット上には、“あのひと”について微に入り細を穿った検証がなされたサイトや、小説Fの内容を基にした二次小説が書かれたサイトがたっくさんあります。私もその一部を興味深く拝読しました。

 

◆テリィ派は小説Fを喜んで読んだのか。

 しかしですね、、、正直言うと、私は小説Fに好意的になれない

 テリィ派が驚喜する新展開の2つの要素が含まれていて、多少報われた思いがしたのは確かだけれど、小説Fを好意的に受け止められない理由も、まさに、この2つの新展開要素。スザナの死と、テリィからの手紙。

 スザナ殺しちゃうのかーーー、ってね。邪魔者は消しちゃえ……ってか?? テリィからの手紙もだけど、雑な展開というか。いわゆる、ご都合主義的だよね、、、と。テリィ派の長年のやり切れない思いをなだめるためにはどうしても欠かせない要素であることは十分承知だけど、こう来たかぁ、、、と。

 ちなみに、スザナの死後届いた、テリィからの手紙の文面はこちら。

キャンディ/変わりはないか?/……あれから一年たった。/一年たったらきみに連絡しようと心に決めていたが、迷いながら、さらに半年がすぎてしまった。/思い切って投函する。/――ぼくは何も変わっていない。/この手紙が届くかどうかわからないが、どうしてもそれだけは伝えておきたかった。/T・G 《下巻p.283》

 ……ううむ。原作者も相当慎重に言葉を選んでこの文面をひねり出したんだろうなぁ、、、と思う。テリィのキャラを壊さないようにという苦心の跡がうかがえる。

 でも、どうだろう。

 テリィを愛する者からすると、この手紙で、、、というよりは、小説Fによってテリィのキャラは十分壊された気がするんだよね。これが小説Fを歓迎できない決定的な理由です(多分)。

 小説Fを読んで、私が強く感じたことが2つあり、次回はそれらについて書きます。

 


>>>>[2]に続く

コメント (2)
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