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映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(2016年)

2018-07-16 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 アメリカ・ボストン郊外でアパートの便利屋として働くリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)。ある日、一本の電話で、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーにいる兄のジョー(カイル・チャンドラー)が倒れたことを知る。

 リーは車を飛ばして病院に到着するが、ジョーは1時間前に息を引き取っていた。冷たくなった兄の遺体を抱き締めお別れをしたリーは、医師や友人ジョージと共に今後の相談をする。ジョーの16歳の息子で、リーの甥にあたるパトリック(ルーカス・ヘッジズ)にも父親の死を知らせるため、ホッケーの練習をしている彼を迎えに行く。見知った街並みを横目に車を走らせながら、リーの脳裏に仲間や家族と笑い合って過ごした日々や、美しい思い出の数々が浮かび上がる。

 リーは兄の遺言を聞くため、パトリックを連れて弁護士の元を訪れる。ジョーがパトリックの後見人にリーを指名していたことを知ったリーは絶句する。弁護士は遺言の内容をリーが知らなかったことに驚きつつ、この町に移り住んでほしいと告げる。弁護士の言葉でこの町で過ごした記憶が鮮明によみがえり、リーは過去の悲劇と向き合わなくてはならなくなる。

 なぜリーはこの町を出ていったのか? なぜ誰にも心を開かずに孤独に生きるのか? リーはこの町で、パトリックと共に新たな一歩を踏み出すことができるのだろうか?

=====ここまで。

 ケイシー・アフレックが本作でオスカーを受賞したけれど、セクハラで訴えられてケチがついたのが話題に、、、。


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 ブログ更新がだんだん緩慢になっていて、この間、映画を全く見ていないわけではなく、ただただ怠慢なだけで、今月は色々書きたいことも溜まっており、またちゃんと更新しよー、と思っていた矢先、先週の西日本豪雨、、、。遠く離れた東京にいる身でもショックが大きく(正直なところ、311と同じくらい精神的に堪えた感じさえある)、PCに向かう気持ちになかなかなれず、、、。私が唯一コメントを書込みさせていただいているたけ子さんのブログ「まつたけ秘帖」の更新も4日からない今、気が気でないのだけれど、とにかく、自分の気持ちを建て直す取っ掛かりが欲しくて、また更新することにしました。

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 これも公開時に見に行きそびれたのであった、、、。


◆粗暴な男になったリー。

 マンチェスター、というから、てっきりイギリスのお話かと思っていたら、アメリカの話でビックリ。画面も全体に灰色がかっていて、いかにもイギリスみたいな風情だったのに、ボストン郊外の港町だと、、、。

 とにかく、ケイシー・アフレックが終始、暗い。現在と過去が入り交じって描かれているけど、過去のシーンも、対比にしてはあまり“陽気なリー”という感じでもない。確かに、友人達と遊んだり、酔っ払って妻にムリヤリ覆い被さったりしているけれども、ちょっと屈折している感がある。

 どうやら、亡くなった兄のジョーは、いわゆる優等生タイプだったらしく、リーとしてはどことなく劣等感を抱いていたんだろう、という過去のシーンの描写だったように思う。二人の両親の話があまり出てこなかったように思うが(見逃しただけかもだけど)、リーが屈折していたんだとしたら、恐らく両親の兄弟への接し方に遠因があったのだろうという気がする。でも、ジョー自身はイイ奴だったから、リーは救われていたのかな。……そんな印象を受ける、過去の兄弟の描写と、リーの雰囲気だった。

 しかし、現在パートのリーは、もう100%真っ暗で、屈折とかそういうもんじゃない。何なの、この人、、、と思って見ていると、中盤でその理由が明かされる。

 つまり、自分の不注意で家を全焼させてしまい、娘2人と生まれたばかりの息子1人を焼死させてしまったってこと。不注意ってのも、酔っ払って、夜中にさらに飲もうと、暖炉の火が危ないと分かりつつ放置してビールを買いに行った、、、という、もう言い訳のしようもないレベル。この一件が、リーをここまで暗く、人を寄せ付けない男にした、ということらしい。それで、妻とは離婚し、マンチェスターの街からも去ったのだ。

 否応なく、その忌まわしい記憶の消えない街に戻ってきたリーは、喧嘩っ早く、人に因縁付けては殴り掛かるという、割と分かりやすい荒れ方の描写で、なんだかなぁ、、、という気もするが、まあ、自分が逃げ出した街に嫌々戻ってきて、昔みたいに友人知人と接することなど出来るわけはないのは、当然と言えば当然だろう。

 甥っ子の行く末を決める過程で、リーも、自分の過去と強制的に向き合わされることとなり、リーの人間としての変化が、終盤にかけて描かれていく。


◆哀しみを抱えて生きること。

 ある映画評で、リーは、結局、甥っ子を知り合いの養子にして、マンチェスターに残らず、元の生活に戻るという決断をしたことについて、“結局、彼は何も成長しなかった、逃げるだけの人生を選んだ”みたいなことを書いているものがあった。

 果たしてそうだろうか。確かに、彼はマンチェスターに残ることはできなかった。だからといって、それを、成長しない、逃げている、と断じて良いのか。

 人間、そんなに強い生き物だろうか。強い人もいるだろうけど、そこまで強くない人がいたっていいだろう、と思う。リーは、そこまで強くなかったのだ、ということ。そして、それは非難されることではない。

 いつまで引きずってんだよ、いい大人がしっかりしろよ、……そんな上っ面な言葉は、ここでは意味がない。哀しみとは、その人にしか、その哀しみの深さは分からないし、それが一生続く哀しみであったとしても、一生哀しみを持ち続けたとしても、それを他者が、“愚かだ”“逃げてばかりだ”“現実を見ろ”と言うのはお門違いも甚だしい。その人にとって、その哀しみに浸ることが哀しみを和らげることだって、あってもいいでしょ。そういう哀しみの癒やし方があったっていいでしょ。

 前出の映画評はプロの評論家が書いていたものだけど、本作を見終わって改めて、ずいぶんと浅いモノの見方で呆れてしまった。というか、その評論家氏には、哀しみは乗り越えるべきものでしかないのだろうね、きっと。乗り越えられない、乗り越えたくない哀しみもあるんだ、ってことを、肌感覚で分からないなんて、それこそ可哀想な人だと思う。

 本作は、味わい深い良い映画だと思う。特に、終盤、元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)と偶然会ったときのシーンが、胸が詰まった。事故直後、ランディはリーを激しく責め詰ったけれども、今はとてもそれを後悔していると涙ながらに打ち明け、ほとんど号泣しながら「今もあなたを愛している」と告白するのだ。今、こうしてそのシーンを思い出すだけでも涙が浮かんでしまうが、ここでも、リーは涙を流すことはなく「その一言で救われた」とだけ言い残し、立ち去る。

 リーにとって、あの一件は、生涯背負っていきたいことなのだ。忘れられない、のではなく、忘れたくないのだと、私はそのシーンを見て強く感じた。それでいいじゃないの。その生き方は、間違っていないと思う。


◆セクハラ騒動雑感。

 それにしても。折角の良い作品なのに、主演のケイシーにセクハラ騒動なんて、とんだミソが着いたもんである。本作とは関係ないが、セクハラについて少し。

 ケイシーと被害者の間で示談が成立した、ということは、恐らく、セクハラと認定される事実はあったのだろう。それを、ケイシー自身がセクハラと認識した上での示談成立かどうかは分からないが。ただ、今年のアカデミー賞授賞式で、プレゼンターを辞退したときの「セクハラ騒動で注目が自分に集まるのは不利益になると考えた」とのコメントを読むと、まあ、セクハラと認定されたことを不満に思っている、あるいは、否定しているのだろう。

 事実はどうなのか分からないが、恐らく、世間の男性の多くは、「女たちが騒ぎすぎ」と感じているのではないか。そして、女性の中にも同様に感じている人たちは少なくないだろう。

 セクハラは、受け手の主観で決まるので、訴えられた方にしてみれば、こっちこそ被害者、と言いたくなるのは、まあ、分からないではない。

 が。

 少なくとも、相手が「明らかなOKの意思表示」をしていないのにもかかわらず、「勝手に」相手の言動を自分に対する「好意」と脳内変換し、そこまでならまだ良いとして、挙げ句に、一気に飛躍して、性的な発言をしたり、相手の身体に許可なく触れたりするのは、これは、もう客観的に見てもセクハラなんですよ。「明らかなOKの意思表示」って何だよ? と思うかも知れないが、それは、相手が「あなたのことを好きです」「スキンシップorキスorセックスしてもOK」と、ハッキリ言葉にして伝えてくれることである。この、互いの意思確認をすっ飛ばして、「多分……だろう」という手前勝手な勘違いで、いきなり行動に移す人たちが多いのなんの。

 「イヤよイヤよも好きのうち」なんてのは、根拠のない伝説なのよ。「イヤよイヤよはホントにイヤなの」ってこと。

 とにかく、セクハラは、パワハラの一種で、自分より“重い存在”の人間には絶対に起きない現象。相手をナメているから生じる言動なわけだ。被害者は女とは限らないし、加害者が男とは限らない。皆が、他者に対し尊重する気持ちを持てば防げることなんだけどねぇ。簡単そうだけど、、、、まあ、なくならないだろうね、多分。人間は、それだけ、自分を相対化して生きているってことだわね。一種のマウンティングってヤツでしょう。

 そんなつもりはなくとも、自分も陥る可能性はあるのだから、気をつけねば。

  






人生は、哀しみでできている。




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コメント (2)
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