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島田市博物館から川越し遺跡へ

                    (大井川川越し遺跡の町並)
(前半から続く)
旧国道1号線を横断し、土手の上の道を進んで、島田市博物館に立ち寄る。日本画の所蔵品展が催されていた。前庭には芭蕉の句碑2面があった。

     たはみては 雪まつ竹の けしきかな   芭蕉

     ちさはまだ 青ばながらに なすび汁   芭蕉

「ちさ」は野菜のチシャで、今はレタスという。ただ自分の中ではチシャとレタスは違う野菜である。ご馳走になった相手への挨拶句である。

博物館の南東側の「朝顔の松」の近辺は広く公園として整備され、お堂も新しくなり、松も植え替えられていた。

川越し遺跡を久しぶりに歩いてみた。川会所、札場、番宿、仲間の宿、荷縄屋、口取宿などが並ぶ中に、「関川(かんせん)庵」の標識に気づいた。八百屋お七の相手の吉三郎のお墓があるという。横丁を200mほど入った住宅地に関川庵はあった。入った所に小ぶりの案内石碑があり、小さな石仏と墓石があった。

僧となった吉三郎が諸国を行脚するうちに島田宿で亡くなったという。どうも物語化された人物の墓と言われると疑いたくなる。以下は想像だが、旅の途中で亡くなった僧の墓があり、俗名が吉三郎に似ていたりして、それが物語りと結びついたといったところであろう。実際、八百屋お七の相手が吉三郎といったのかどうかさえ、諸説がある話なのである。

川越し遺跡に戻ったところに、「そば玄」という手打蕎麦屋があった。昼を回ったので入ってみる。4年前から営業しているという。客は自分ひとりで、今、お墓を見てきたばかりなので、「吉三(きちざ)そば(冷)790円」を頼んだ。これは大きな油揚げの入ったそばであった。油揚げは汁より少し味を濃い目にするが、これは自分には濃過ぎた。そばは歯ごたえもあって美味しいだけに、普通の盛りそばを頼めば良かったと思った。でもどうして吉三が油揚げなのだろう。

もう一つ気付いたものに「島田大堤」の案内板であった。両側に桜が植わった道路が川上方向へ続いている。これが昔の堤防だと言うのである。天正の瀬替の結果、島田側に川筋が変わり、慶長年間の大洪水でそれまでの川除堤が決壊し、建設間もない島田宿もすべて流されてしまった。その後に造られたのがこの「島田大堤」である。今日歩いてきた中に大木の植わっていた堤らしき場所が何ヶ所かあったが、その大堤の遺構だと思われる。(さらに続く)
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