平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
市野村出入の一件(2) - 古文書に親しむ(経験者)
いよいよ夏本番、我が故郷、兵庫県豊岡市は今日は最高気温が37℃、日本一の高温だったという。子供の頃の暑い夏、夜は行水のあと、縁台を出して、遅くまで近所の子供たちと遊んでいたような記憶がある。そして、何とか涼しくなったころ、蚊帳に入って休んだ。60年以上昔の話である。
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「市野村出入の一件」を続ける。
一 去る辰、二月六日、中嶋嘉七殿儀、宗安寺止宿先へ、大勢罷り越し、同人を内匠方へ引っ立て、禁錮致し置き、同月十日、私宅へ村役人集会仕り居り候処、右嘉七殿より紙面を以って、内匠方まで出張り致しくれ候様、申し越し候えども、余儀なく集会差し抜け難く、急な用事に候わば、当方へ参るべき様、返書差なし申し候処、
右京之進始め、松庵、羽鳥村源次郎、笠井村貞三郎、門内外に大勢立廻り居り、品々強談に申し掛け、高声にて「高六拾三石余、市野惣太夫より先年買い受け候地所、字大林は、筑後守知行に相違これ無き」など、口々に申す。
※ 羽鳥村(はとりむら)現、浜松市東区豊西町。市野より東、天竜川添い。
※ 笠井村(かさいむら)- 現、浜松市東区笠井町。市野より北東へ2キロ余り。
※ 強談(ごうだん)- 強い態度や調子で談判すること。強 (こわ) 談判。
源次郎儀は御直百姓と申し居り、左候わば、羽鳥村庄屋方へも、右の段、掛け合いにも及び難く、よんどころなき内、十二日、浜松藩へ御届け申し上げ奉り候処、御手当御座候えて、右両人何れへ逃げ去り、見当り申さず候。
※ 御直百姓(おじきびゃくしょう)- 領主直接支配の百姓。庄屋の支配下ではない。
一 二月十三日、浜松藩へ天朝より御達し御用に付、筑後守役人、早々、罷り出るべき
御沙汰に付、私儀は浜松へ出張り、留守中へ、安間村筑後守詰所へ、右京之進、差し添え、松庵、吉兵衛より、別紙の通り、願い書差し出し候に付、同勤ども頼み置き、取り調べ、利解致しくれ候様申し、並び村役人どもも、去る弘化三午年三月御分郷相成り候、名寄帳、絵図面、殊に先ず内匠相認め候検見帳などもこれ有り、相見させ、能々(よくよく)談判致しくれ候様、相頼み、差し遣わし候処、
同月十五日頃、右内匠へ尾州殿より、中泉御陣屋御守衛の由、仰せ付けられ候趣にて、右京之進、かの地へ出張り致し候に付、同勤の者も調べ中、橋本殿様、柳原殿様、御両卿、安間村御通陣前に相成り、殊に同勤久右衛門方、御小休仰せ付けられ、安間村警衛旁(かたがた)混雑仕り候内、浜松藩より別紙の通り、御輜重(しちょう)人足ども、受書弐通差し出し申すべき様に仰せ付けられ、村方へも能々(よくよく)申し聞けざる候上は、足軽人足御座なく、誠に以って当惑仕り居り候処、
※ 橋本殿様 - 橋本実梁(はしもとさねやな)。攘夷派の公卿。慶応四年(一八六八年)の戊辰戦争では、東海道鎮撫総督となる。後に伯爵。
※ 柳原殿様 - 柳原前光(やなぎわらさきみつ)。幕末から明治時代にかけての公家、華族。後に伯爵。戊辰戦争では十八歳で東海道鎮撫副総督となる。
※ 久右衛門 - 八代目金原久右衛門。後の金原明善。
※ 安間村 - 現、浜松市東区安間町。旧東海道筋、天竜川西岸、金原明善の出身地。
※ 輜重(しちょう)- 軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき 軍需品の総称。
内匠方より別紙手紙を以って申し越し候えども、右御通行旁(かたがた)にて、同勤どもも、捨て置き候次第には御座なく、人少なきにて取調べ方延引きの段、安間村百姓代伊七と申す者、中泉内匠出役先へ、口上にて申し会い、右伊七差し遣わし候処、押し置き、差し戻し申さず、何様の返答もこれ無し。
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