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はまつゝ羅抄 安倍紀行 3 手越、手児の呼坂

(手児の呼坂)

江戸時代になって、東海道五十三次が整備される以前、まだ、あづま路と呼ばれていた頃、丸子から手越へ抜けるには、東海道より北の「手児の呼坂」と呼ばれた峠を越えて行くコースが取られた。「はまつゝ羅抄 安倍紀行」は「手児の呼坂」を、藤泰さんとしては珍しく、一つの艶笑話をもって紹介している。

・金山の西麓に、東林寺といえる洞家の小院あり。敷地村に隷せり。寺僧の談に、当寺門前山端に沿いて、南に廻り、町家側といえる地名に石地蔵あり。この処より西の田野に細き畷道あり。この際に子捨橋とて、いさゝかの石橋あり。むかしこの辺り、藁科川の流れにて、大なる橋かゝれりとかや。この橋名についてあやしき伝あり。
※ 畷道(なわてみち)- 田の間の道。あぜ道。

上代に、この西の内屋(宇津ノ谷)郷に郡領某あり。朝参に都へ上りけりとて、家子に命じて、家室の邪淫を防ぎ守らしむ。命を守りて側を離れず、衛護し室家の掩(おお)ふ処の寝衣の上より、前陰を己が手を以て、これを押へて終夜熟睡せず、郡領、家に帰るの処、家室孕みたり。家子を攻めて不義ありとし、既に誅せんとす。家子深く歎きて、小身誤りなし。出産の後、一命をめさるべしと申す故、助命しける。
※ 朝参(ちょうさん)- 参朝。朝廷に出仕すること。参内。
※ 家室(かしつ)- 室家。他人の妻を敬っていう語。閨室(けいしつ)。


程なく家室泰産す。出生のもの、児ならずして、手を産む。郡領疑いを散じ、産衣所の怪物を、この橋上より河流に捨てけるといえる。その本縁によりて、後世、越えする坂を、手児の呼坂と云う。かの橋を子捨橋と呼ぶなり。呼坂は今云う盗人坂の古名なり。この坂昔は間道なりとかや。
※ 泰産(たいざん)- やすらかな出産。安産。
※ 間道(かんどう)- 主な道から外れた道。脇道。抜け道。


野説信用しがたしといえども、伝えしまゝに物語るとて、笑ひ止みぬ。名勝志には、富士郡原田村に坂あり。その名と書きたり。古き伝なれば記しぬ。

万葉
   あづま路の 手児の呼坂 越えかねて 山にかも寝む 宿りはなしに
 
家集
 大和田浦にて海人を見て
   あはれなり いかにするがの 田児の浦 海士のしわざと 見るもはかなや
                             参議雅経

万葉
   東路の 手児の呼坂 越へていなば 吾れは恋なむ のちは逢いぬとも

松紫(松葉)集
   ましらもを 遠方人の 聲かはせ 我こしわふる たごの呼坂


歌枕としての「手児の呼坂」の場所については諸説ある。「呼ぶ」の連想で「声」から「越える」の掛詞になっている。手児(てこ、てご)というのは、辞書では、「父母の手に抱かれる子。赤子。転じて、愛らしいおとめ。」とある。赤子から乙女に転じたのは、彼女を「ベイビー!」と呼ぶ感覚であろうか。

「てご」は今でも東北の方では使われている場所もあるという。「てご」に「手児」の漢字が当てはめられて、字面だけを見て創られた艶笑話である。

「手児の呼坂」に登ってみた。何度も蜘蛛の巣に掛かりながら、人跡の途絶えた峠道は、別名の「盗人坂」の方が似合うと思った。
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