goo

第二十九番 国分寺 ~ 第三十番 善楽寺


(第二十九番札所 国分寺 本堂・大師堂)

いよいよ今回の遍路最終日の5月19日である。この日のこともすでに書き込んである。

民宿きらくで一緒だったおじさんは自分より幾つか歳が上のように見えた。階下の喫茶店で夕食時に少し話をした。いがぐり頭と無精ひげに6割ほど白髪が混じり、げっそりと痩せて草臥れきった顔つきであった。歩く姿を見たわけではないが、遍路道を力なくとぼとぼと歩くといった印象だった。友人と二人で歩いてきたのだが、相手が疲れて昨日お遍路から脱落して行った。今日初めて一人で歩いたと話す。二人で歩くとペースを合わせるために二人とも疲れてしまう。お遍路は一人で歩くものである。同行二人は、金剛杖に姿を変えたお大師さんと二人で歩くということで、つまりは一人なのだ。朝食を断わっていたから、朝早くに自分のペースで歩いて行ったのだろう。


(「地蔵渡し」のお地蔵さん)

第二十九番札所 摩尼山 国分寺までは9.2キロメートルであった。国府寺の手前で国分川を渡る。渡った側の土手に屋根の掛かったお地蔵さんがあった。案内板によると、明治30年(1897)に国分橋が架けられるまで、国分と南方の交通は、国分川の「地蔵渡し」を徒渉するしか無かった。「地蔵渡し」はすぐ北側にある国分寺に通じる遍路道でもあった。堤防上には文化7年(1810)の刻のある、花崗岩の地蔵菩薩像がある。このお地蔵さんが渡しの名の由来となり、お遍路さんの道しるべにもなっていた。

国分寺は天平十三年聖武天皇勅願により全国に創建された官寺で、土佐は現在の国分寺の寺域にあった。今でも創建当時の土塁が残っていて、国の史跡に指定されている。鎌倉時代から戦国時代にかけ幾度も戦禍や災害に遭い荒廃した。

現在の本堂(金堂)は長曾我部元親が永禄元年(1558)によって再建されたもので、国の重要文化財となっている。大師堂は文化二年(1804)に第十代藩主の山内豊策により再建されたものである。国分寺は緑に包まれた静かなお寺であった。


(第三十番札所 善楽寺 本堂・大師堂)

第三十番札所 百々山 善楽寺までは6.9キロメートルある。善楽寺の手前で高知市に入って最初の札所である。古くは桓武天皇の頃に弘法大師が土佐一の宮の別当寺として善楽寺を建立したとあるが、明治初期の神仏分離で廃寺となった。30番札所は一時高知駅の西1キロメートルにある安楽寺に移された。昭和になって善楽寺が再興されて、札所が2ヶ所並立となり、その正統性が争われた。平成5年、安楽寺を善楽寺の奥の院とすることで決着して札所が2ヶ所ある状況は解消された。
※「別当寺」… 神社に付属して置かれた神宮寺の一つ。別当が住した。


(土佐一宮の土佐神社)

比較的新しい善楽寺には建物などに見るべきものはない。成り立ちで判るように、隣りに土佐一宮の土佐神社があり、こちらの方は歴史のある神社である。地元では「しなねさま」と呼び親しまれている。「しなねさま」の意味は不明。


(国の重要文化財、土佐神社の太鼓楼 - 慶安二年(1649)年、二代藩主山内忠義の建立)

次回のお遍路は、高知駅に近いという30番札所奥の院安楽寺からスタートしようかと考えている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 第二十七番 神... 13日30ヶ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。