平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「雪椿」と「へんろ椿」
七子峠から37番岩本寺へ向かう途中、峠から6キロほど行った影野に雪椿という椿の老木がある。前回のお遍路で、この雪椿のことを書いた。
影野の地頭職の池内嘉左衛門の娘お雪は影野西本寺の若僧順安と恋仲になり、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職を譲り嘉左衛門の名を継がせた。夫婦は至って仲むつまじく里人達をも愛した。二人には子供が恵まれなかったので、彼らの死後、里人達はお雪が生前好んだ椿を墓所に植え二人の供養を毎年行ってきた。この椿が風雨星霜300余年の今も毎年美しい花を咲かせ、二人の霊を慰めているという案内板を読んで、八百屋お七のような悲恋物語の期待は裏切られた。理解のある親とやさしい里人の間で、天寿を全うした幸せな夫婦の話では少し盛り上りに欠ける、と書いた。
お遍路休憩所「雪椿」を再び訪れて、テーブルに雪椿の伝説を記したファイルを見つけた。雨に濡れてよれよれになっていたが、内容は読めた。案内板には言い伝えの内、重要な部分が割愛されていた。
村内に入り婿を狙う6人の若者が居て、ある夜、順庵を含めて7人が争い、全員亡くなったとされ、葬られた。お雪は悲しみに暮れ、病の床についてしまった。ところが、7人の内、順安だけは瀕死の状態でかくまわれ、何とか一命は取り止めたけれども、その土地には居られず、密かに諸国修行の旅へ出ていた。何年か経ち、噂にお雪の病を聞いて、一目会いたいと乞食坊主の風体でお雪の家を訪れた。
晴れて結婚するまでに、このような話が伝わっていたのである。なるほどと納得して、念のためファイルを写真に撮って、お遍路休憩所「雪椿」を後にした。そばの雪椿の木はこの3年の間にひどく弱り、枯れた枝が切られ養生されているらしいが、枯れてしまわないかと心配であった。
今、じっくり読んで思うに、自分と同じように、実話では余りに盛り上がりに欠けると思った土地の人がいて、上記のような話をでっち上げ、付け加えたのではないかと、ふと思った。案内板に載せるときに、町から委託を受けた郷土史家が不確かな伝説は省いて記したのではないのかと考えた。
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(へんろ椿)
椿と言えば、柏坂を下って来たところに、「へんろ椿」という椿の古木の看板があった。遍路道を少しそれて行ってみた。樹齢300年、目通り幹周2.26メートル、樹高12メートル、津島町の天然記念物に指定されている椿であった。
案内板に、へんろ椿の伝説が記されていた。ある雪の降る年の瀬に、遍路道で坊さんが行き倒れていた。家に連れて帰り、手厚く看病するも、年を越して新年に用意した雑煮を口にすることもなく亡くなった。葬るべくふとんを取ると坊さんの亡骸は金銀になっていた。埋めた場所に椿の木が生え、現在の大椿となった。
昔の話には、様々な伝説が付加されて伝わっていることが多い。死体が金銀になったと聞いて、そんな馬鹿なと否定することはたやすい。しかし、そういう話を付加してきたのは名も知らない庶民である。伝説の中には、人々の様々な思いや、その当時の旅人から聞いた物語りなどが、色々形を変えて織り込まれている。それらにじっくり耳を傾け分析してみると、庶民の暮らしの一端が見えてくる。だから古くから伝わる伝説は、歴史の表舞台には出てこない庶民史の一部だと考えている。
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