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話がいろいろと繋がって面白い

(善通寺御影堂[大師堂])

昨日午後、何とか観音寺まで時間内に行ける見通しが立って、大喜多といううどん屋に寄った。店内で色々指図しているおばあさんが、話しかけてきた。その最後に、あんまり無理をしないように歩きなよ、身体を壊しては元も子もないと、心配してくれる。後から考えると、そのときはよっぽど酷い顔をしていたのだろう。

夜、若松屋別館の女将さんも無理しないようにと心配してくれ、海抜900メートルの山登りも含めて、30数キロ歩いたことを言っているのだろうと思ったが、それもやはり顔に出ていたのではないかと思う。

若松屋別館の女将さんは娘が戻ってきたこともあって、旅館を半年ほど休んで、建て替えを考えているという。個人のお遍路さん相手の宿に特化して、いずれ娘にあとをやらせたい考えのようである。その時にはまた客になって来たいと話した。

今朝、財田川の土手を歩いていた。葦の河原からコヨシキリの一生懸命にして賑やかなさえずりが聞こえていた。昨日の雲辺寺に至る道ではカッコウが泣き、下ってきたところではサンコウチョウの目立つ声も聞こえた。

本山寺の納経所で、枯木地蔵の話を聞いた。本山寺の建設で山から木を運ぶ途中、天邪鬼がいたずらして、一本材木を途中で落としてしまった。それが現在の地で、木の上にお地蔵さんを祀っていたところ、材木はお守りにでもするためか、だんだん削られて小さくなってしまった。現在は格子の中に入って取り出せないようになっている。

枯木地蔵は奥の院ではなく、奥の院はこの先の妙音寺というお寺である。息子を別格の仙龍寺へ婿に出してしまい、妙音寺は住職がなくなってからは、おばあちゃん一人である。檀家も居るので息子が仙龍寺から通って勤めている。仙龍寺は檀家はいないで、信者だけで持っている。狭い世界で色々と関係があるのですね。婿が長続きせず、3度も離縁した寺もあるが、人のことは言えない、この寺の息子もまだ嫁さんを貰っていない。

その妙音寺に寄って見た。一人暮らしのあばあちゃんは、話し相手に飢えているのか、次々に話がとぶために、中々理解がついて行けない。この当りの一郭は寺の所有だったが、かつて安く分けてあげた人が、その10倍ぐらいで土地を売っている。このあたりも宅地化が進んで、そういう時代だからねえ。お寺の敷地から古い瓦が色々発掘されて、本山寺よりもはるかに古いお寺であることが解かっている。それらの発掘品は皆んな持っていってしまったが、どうなっているのかもう解からない。博物館などで保管されているのでしょう。窯場も敷地内にあるらしいがまだ発掘はされていない。そんな話が延々と続いた。

ところで、仙龍寺で甘茶を頂いた体型の丸い若い女性がお孫さんなのですね。音大を出てソプラノの声楽家だけれども、あんな体型でないと良い声が出ないらしい。妹も音大に在学中で、女ばかりで婿取りになるのだけれども。妙音寺のお孫さんが声楽家になるのは附合している。

話のわずかな切れ目をつかんで、お寺を出て来た。黙っておれば、お寺らしからぬ言葉が次々に出て来そうで、早く退散する方が得策と思った。

弥谷寺の門前の暗くて雰囲気のある茶店に寄り、冷たいものはと聞くと、中にトコロテンがあった。酢しょうゆか黒蜜かと聞くから、歩いているときは甘いものが良いから黒蜜を頼む。何日か前、NHKの取材で、モデル出身のタレントがやはり黒蜜をかけたトコロテンを食べて行った。前に八十場の水でも食べたというと、あそこはマーケットなどにも卸していて、量産だから機械で作っているだろう。家は手作りのトコロテンだという。何が違うのか、いまいち解からない。

天霧峠が越えられるか聞きたかったのだが、最近7寺参りのイベントがあって、手を入れたはずだから、通れると思うよ。お寺に聞くと駄目というけれども。若松屋別館の女将さんの言った通りだったので、納経所には内緒で通ってみた。峠から下る道はかなり荒れていて、山歩きをしたことのないお遍路ならちょっと困るかもしれない。もう夏の虫が出て歩く環境も良くない。草も生えてきているから真夏にはきつくなるかもしれない。だめという前に、少し手をかけることをしないと、遍路道はどんどん狭まっていき、面白味のない道をベルトコンベヤのように運ばれる歩き遍路になってしまう。

天霧峠から下って、海岸寺奥の院に行く。待ち構えるように住職が居て、時間が許せば本堂へ上がらないかという。時間が押しているので、遠慮した。奥の院は弘法大師が生まれた産屋のあったところに建っているという。苗字が出てこないが母親の実家の屋敷内であった。というよりこの辺り一体が実家の土地だった。当時は男性が女性のところに通ってくる通い婚の風習で、ここで大師は生まれることになる。善通寺はお父さんの実家のあとである。

七寺参りはうちの住職が主になって行い、ボランティアを引き連れて天霧峠からの下り道を整備した。そう聞いて、あんまりしっかりした整備でもなかったという言葉は呑み込んだ。お接待にお供えの中から甘夏を一個取って、宿で食べなさいと渡された。甘かったが、もう我が家のもぎたて甘夏のような瑞々しさは無くなっていた。

別格18番海岸寺を打ち、仏母院へ回る。仏母院はお母さんの実家があった所。えな塚があり、隣りで保育園を経営しているのも似つかわしい。用があれば、保育園へ来るように書いてあったが、呼び出しに応じないことを確認して、納経印は断念した。

善通寺の手前に仙遊寺は大師が幼いときに勉強したところであったし、明朝登る捨身ヶ嶽禅定なども、幼い頃の大師ゆかりの地であり、いっぱいそういう地が残っているようである。

今夜は大師信仰の真っ只中、善通寺の宿坊に泊まっている。明日は捨身ヶ嶽禅定、満濃池、金比羅さんと、脈絡のない番外地を巡って、明後日に再び88ヶ所の遍路道に戻る予定である。そろそろゴールが見えてきた。今夜食事の向かいの人はあと3泊で結願だと話していた。
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