平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
水木金土、四日間の奮闘


木曜日 掛川図書館古文書講座へ出席、受講。
金曜日 静岡、駿河古文書会の当番、発表。
「遠州相良引渡一件」本多越中守から板倉佐渡守への所替の一件書類
ブログを一週間休んだら

駿河古文書会に出席



まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座、今日より始める

明けましておめでとうございます

山椒の実るころ
山椒の佃煮
もう50年以上前、故郷でこの季節になると、山家の叔母さんから毎年のように、山椒の佃煮が送られてきた。今ほど食べ物が豊富でない時代、刺激の強い山椒を、子供の自分たちも平気で食べていた。
20年以前、その味を思い出して、自分で作って食べてみたいと思い、近くの山でたくさんの山椒の実を採ってきた。女房に見せると、もっと早く、やわらかい内に採ってこないと、ここまで堅くなると佃煮にも出来ないと言われた。確か、7月か8月くらいになっていたのではなかったか。やむなく、すべて裏の畑に捨てた。
ところが、気付くと、捨てた山椒の実から、幾つも芽をだしていた。当時は、とげのあるものを残すわけにはいかないと、芽が小さい内に抜き取っていたのだが、それをすり抜けて、柿の木の下に山椒の木が大きくなり、季節には香りのよい新芽を出し、実を付けるようになった。こうなっては、切ってしまうのも、もったいない気がして、今では随分立派な雑木になった。
ここまで来れば、季節を待って実を収穫し、念願の山椒の佃煮を作ってみようと思ったけれど、何年か、気付いた時には収穫時期を逸していて、今に至った。一週間ほど前、女房がもう実っていたから採ってきたと、ボールの中の山椒の実を見せた。指先で潰してみると、中の種まで潰れる。これなら出来そうだ。
作り方はネットで調べ、意外と簡単に写真のように山椒の佃煮が出来た。一つまみ口に入れると、女房は「からい!」と言った。「からい」には、塩からいと、トウガラシの辛いの二種類があって、自分の故郷ではどちらも「からい」と言い、区別しなかった。ところが静岡では、「からい」は唐辛子の辛さで、塩は「塩からい」と区別して表現するようだ。つまり、女房は山椒の味を、唐辛子の辛さの表現で言葉にした。
唐辛子の辛味は「カプサイシン」に代表される辛味成分による。しかし、山椒の実には「カプサイシン」は唐辛子の1/200しか含まれていない。明らかに「からい」は違うと思う。山椒の実にはサンショオールやキサントキシンがたくさん含まれていて、一種の麻酔のようなもので、痺れるように感じるのだという。したがって、自分はその味の表現する言葉を知らない。いずれにしても、大量に採れば身体に良くないが、山椒の佃煮を食べるくらいなら、返って身体によい成分も多いと聞く。
今日午後、駿河古文書会に出掛けた。今日は発表担当に当り、講義に入る前の枕にそんな話を簡単にした。自分の50数年を、こんな短く話したわけである。
実際には、山椒の実だけではきつすぎるので、この後、ちりめんじゃこを買ってきて、加えて煮直した。お茶漬けに載せてわさわさと食べると、しびれもそれほど残らずに、最高に旨い。
読書:「金貸し権兵衛 鶴亀横丁の風来坊 2」 鳥羽亮 著
新年あけましておめでとうございます
新年あけましておめでとうございます。
「かさぶた日録」ご覧いただき、ありがとうございます。
年の初めの三寅参りです。
島田市大代、ジャンボ干支の寅
老舗のジャンボ干支は風格さえ感じられる。何といっても島田市民遺産だから。
掛川市倉真のVサインの寅
今年初めて参加、末っ子には茶目っ気がある。
粟ヶ岳山頂の太っちょの寅
こちらは世界農業遺産の茶草場農法の真っ只中の粟ヶ岳。造形がぎこちないのは、他の二つが柔らかい稲わらを使っているのに対して、茶草場のカヤで造られているからである。
去年はいずれもコロナで出来なかったから、今年は皆んな力が入っている。
菜の花と、「彙軌本紀」と

新年あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
「かさぶた日録」ごらんいただき、ありがとうございます。
コロナ禍を早期に克服し、今年も良い年になりますように、お祈りします。
今年も、よろしくお願いします。
ステイホームが続き、古文書解読に明け暮れる日が続いています。江戸時代は色々と面白く、退屈はしませんが、もっと外で活動できる日々に、早く戻りたいと思います。
今年は「大代の干支」もコロナ禍のためか、中止になり、写真もありません。掲げた写真は、暮に撮ってきた静岡浅間神社の正月のパネルです。
愛犬ムサシ逝く

今朝11時15分、愛犬ムサシが死んだ。享年16歳と10ヶ月。
昨年後半から段々に弱って、散歩にも出かけられなくなり、その内、自分では起きられなくなり、頑張って生きて来たが、17歳に2ヶ月残して、力尽きた。体重は9キロほどあったものが、4キロを切るまでに減っていた。毛皮で目立たなかったが、触るとあばら骨や背骨の存在が判った。人間の年齢では80代半ばから90近い年齢で、最後は食事も喉を通らなくなっていた。
今朝、女房に起されて、ムサシが痙攣しているという。もう長くはないと思った。掛川の娘(元の飼い主)を呼び、娘が来るまでは、細いながら息をしていた。小康状態と見えて、娘が一度掛川に帰った。そして、まだ家に着かないうちに、逝ってしまった。少し目を離したすきに静かに逝った。周りで声が聞こえる間は頑張っていたが、静かになって、まあ、この辺りで良いかと感じたのかもしれない。大往生であった。
女房がムサシが息をしていないというので、見に行くと、確かにすでに息はなく、全身弛緩の体で、尿と宿便をわずかに漏らしていた。汚れを奇麗にするなど、女房が調える内にも、硬直化が進み、一時間ほどで身体がすっかり硬直してしまった。
呆然とする女房に代わり、再度駆け付けた、掛川の娘があちこちに電話して、段取りを整えてくれた。夕方には動物病院から花束が届いた。火葬を頼んだ業者が夜になって来たので、掛川の娘と孫三人、息子と我等夫婦で見送った。
といっても、車に火葬設備があって、一時間余で、自宅駐車場で火葬が済んでしまった。煙など、全く出ないのだと聞く。今は、小さな骨壺に入って、ムサシの最晩年の生活の場であった、ダイニングキッチンの隅に納まっている。あわただしくも、あっけない一日であった。願わくば、ずっと外出もままならず面倒を見てきた女房が、ペットロスにならないことを祈るばかりである。

(こんなに小さくなった)
********************
午后に、駿遠の考古学と歴史講座に出席した。
読書:「お伊勢まいり 新・御宿かわせみ6」 平岩弓枝 著
« 前ページ | 次ページ » |