katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじらさん教室とシドさんのテーブル

2015-06-03 06:51:29 | モザイク教室
今日はくじらさん教室だったんだけれど、初めて自宅で作品を1人で作って見た・・・・それがこれ。


それが前回持って帰ってすぐにやったらしいのね・・・・その意気込みは良いのね。何しろ初めての事。完成しただけで、何も問題は無いのね。
良く頑張った・・・って話なんだけれど、今後ももっとやる・・・・って話になると、もっと上手く・・・って話になると、何が良くて何が是正なのか?

って話になる。そこでまず何を作ったか?になる。これがもし単なるクラッシュなら最高です・・・おしまい。って話だけれど、魚を2匹を4面に入れたと言うのだけれど、4面共に魚の形が違っていて、最後の面に至っては尻尾がハートっぽくなっていて・・・・1面だけ上手くなっている。

そもそもペキクラって言うぺきぺきがクラッシュになっている袋入りのタイルで作ったものなんだけれど、それを踏まえて作る時に、そうね・・・、
例えばカレーを作ろう・・・って思ったとするじゃない?・・・その時に、カレーの材料は・・・と材料を揃えるでしょ?

そうじゃないのね。今回のような作り方はね・・・。冷蔵庫を開けて何を作るかな?って感じなのね。つまりカレーを作るのにご飯が無いのなら、ナンにすれば良い・・・みたいな考え方は、確かにあってはいるが、それはナンを作れる材料がある・・・って事の上に成り立つ訳で。

もっと言えば、カレーが無くてはカレーは作れない・・・。つまりこの材料で作れるものは何?ってスタイルで楽しむのがペキクラのスタイルなのね。
それを踏まえて考えると、例えば魚を作りたい・・・と決めたのなら、では魚を何色にするか?って考え方がある。

全部統一するのか?1面ずつ変えて行くのか?全部統一ならとても簡単。例えば1色の金魚ならバックは水で水色・・・なんて単純に決まる。
これを複雑にするのが4面全部変える。そうなると、金魚だけですでに4色の色を使う事になる。

更にその4色の金魚にかぶらないバックを考えないとならない・・・・これが最初から水色前提であれば、魚の色をかぶらないように選ぶって言う考え方もある。ほら、さっきのカレーなんて話に似てるでしょ?ねっ。

つまり作る前にきちんと作りたいものや色が決まっている場合、これは何色、これは何色となれば、使う色を買う・・・って事が出来る。
例えば赤い金魚なんで・・・となれば、上絵の赤を1枚で足りるかな?・・・って感じでね。

こう言うスタイルなら、自分の好きに作れる事になる。これがカレーが作りたいの作り方。けれど、ノープランでごちゃまぜのペキクラ。しかも、買ったペキクラは施釉って言う種類で、赤とか青とかオレンジとかのビビットな色は無いのね・・・つまり紅白ってものは作れない・・・。

そんな中、魚を色んな色でやれば、赤が無くても大丈夫・・・って考えたんだろうね・・・きっと。それは正解。けれどね、それを選択した瞬間、絶対に・・・と意識しないとならない事がある。つまり形でしっかりした魚に見えないと、見る人が何だか判りづらくなる。

つまり魚の形をちゃんと確立させて、もっと言えばきちんと3つ韻を踏んで、1つだけ違う・・・って言うのであれば、より効果的になるが、3面共に何と無く微妙に変わっていて、最後に上手くなっちゃって、尻尾はハートで丹頂って言う、頭が赤い金魚をエンジでやってあったのね。

ただそのエンジが赤では無いから、丹頂って金魚の良さの紅白が出せ切れない・・・赤なら完璧なのに。
そんな中、実はもう1つあるんです・・・・って言うのね。それがこれ。


まっ口がバッテンになれば、あのうさぎなんだけれど、旦那さんに何これ?・・・って目地を入れる前に言われたらしく、恐る恐るの提出となったのだけれど、実はこっちの出来栄えの方が見る人には判りやすいのね。

そもそもクラッシュのバックはカラフルでうさぎは白。メインはのうさぎもクラッシュなのに、白くても目立つ。つまり魚も白だったらこの結果になったろうね。ただ大きく違うのは目がある事。それによって存在感は大きくなる。

この2つの違いは、魚の方はデザインが自分、うさぎは他人って事。それ位、デザインするって言うのは難しいし、色1つでこんなにも変わるって事。
更にもう1つあって、俳句を習っているくじらさんならではの話なら、更にここにまだ考えられる事があったりする。

それに気が付いたのは良かった・・・それが4面を春夏秋冬にする・・・なんて情緒を出したい・・・なんて事だったのだけれど、何せやっている途中でそんな事に気が付いてしまったら、余計ハードルを上げる事になる。

例えば春と言ったら?・・・って考えないとならないのね。しかも色はそれしか無い・・・・折角、冷蔵庫の中の材料でやれそうな事を見つけたのに。
すると、そんなにきっちり見えなくても・・・って言うのね。違いますぅ。そこはきっちり見えないと駄目なのね。

何故なら何処でも良いんです・・・入れれば・・・こんなセリフって頭の良い子の親は言わないでしょ?それはかなりレベルが低い。
要するに春夏秋冬なんて口にしたのだから、ある程度の名のある学校名を言った事になるでしょ?しかも誰でも知っている事なのだから・・・。

つまり判って貰えないとやった意味が無い。そこにたどり着こうとしないとたどり着ける所か、労力を掛けて見えない・・・では報われない。
それがオリジナルの辛さであり、大変さであり、乗り越えた時の結果が楽しさや喜びに繋がるのね。

それが他人のデザインの場合、似ている・・・って所にたどり着けば良いだけなので、有名なものであれば、似てるぅぅとか、これってあれ?みたいな曖昧な表現だったり、けれど何と無くは判って貰える・・・ただ切るだけでね。そこに考える必要は何も無いのね。

オリジナルって言うのは考えないとならない・・・・そこが大きな違い。こんな中、本題の作品となると・・・


目地の後に2文字半終わったんだけれど、硬くて上手く切れない・・・とか、進まない・・・とか、随分と泣き言が多かったのね。
それも判るのね。これがもしこの1cmタイルの作品を自宅でやっていたとしてぺきぺき作品を作ったのなら、あぁ柔らかいぃぃって感じだが、

ずっと自宅でぺきぺきをやっていたのだから、1cmタイルは硬く感じても仕方無いのね。ただそれも最初だけで、段々と慣れて来る。
ただ良い事と悪い事は背中合わせ。当然疲れて来る・・・・上手い人って言うのは、久しぶりでもそれを思い出す事が早いのね。

それには反復練習しかないのね。けれどね、本来のぺきぺきで楽しむ・・・って言うのを作っている人を久しぶりに見たんで、それはそれで何より。
きっと楽しかっただろうし。けれどお金を貰って指導する側だとね、続く人ならこうすると良いよ・・・こんな所は気を付けて・・・って言う、

老婆心は付き物なのね。いずれにせよ、遊びの作品を指導して、文字にはほとんど口出しはしなかったのね・・・これだけきちんと進んでいる人に言う事は無しなのね。実に綺麗に張ってある。お見事なのね。

そんな中、シドさんがやって来て、中心のオーキッドは大人っぽいから却下となったのね。ただ他は良いと言う事で進める事になる。


まっ、やりながら次の展開を考えるかな・・・。




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