河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1539- マーラー、悲劇的、エリアフ・インバル、都響2013.11.3

2013-11-03 23:01:00 | インポート

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2013-2014シーズン
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2013年11月3日(日)2:00pm 東京芸術劇場
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マーラー 交響曲第6番 悲劇的
 24′13′14′28′
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エリアフ・インバル 指揮
東京都交響楽団
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インバルが原点回帰しつつあるのだろうか。もともと粘着質ではなく、日本の聴衆に少しずつ迎合してきた積み重ねの結果を取り除きにかかってきているように思える。
シャープで、リズムをよく刻み、メリハリが効き、整理整頓がされている。リズミックで随所にモダーンな響きが織り込まれているあたりを絶妙に強調。
昔、当時の現代音楽を頻繁に演奏していた頃が妙に懐かしい。本当はこの6番とか7番あたりが似合っている。もちろん10番なんかは、本当はもっと頻繁に振りたいような気がする。この日の演奏はシンフォニックで、引き締まったいい演奏でした。
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この6番は第1楽章の展開部に行き着くまでに、この日の様に提示部のリピートがあれば、約10分かかります。相応の長さの全体バランスが必要。
同じく、第4楽章の提示部前の序奏だけで5分かかります。序奏の長さを全く考慮した全体長のバランス感覚が素晴らしい。
どっちしろ、長すぎるお化けシンフォニーですけれど、これだけ古典的形式とバランス感覚に優れた曲であれば、当然ながらジョージ・セルといえども振るしかなかった、という話になるわけです。
昔はプロオケでもまともに演奏できない代物と言われておりましたけれど、現代の機能的なオーケストラは技術的な側面は軽々とこなすわけで、その先の、形式の造型を整えるのは指揮者の役目。
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インバルはこれまで自身にどんどん付いてきた解釈のぜい肉を、そぎ落そうとしているかのように鋭さが増していた。つまり彼流の原点回帰的な演奏ではなかったかと思われました。飽くまでもそのオン・ザ・ウェイの演奏ではあると思いますが。ただ、原点回帰するとき演奏解釈は枯れていくと思います。枯れて芯だけ残る。
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都響の音はでかい。気張ったデカさではなく、力入れなくてもハーモニーの調和があり響きが充実。揃うと音は前に出てくる。録音向きと言えるかもしれない。高スキルレベルな演奏、ブラス、ウィンドなど名物的な特色がでてくるとさらに面白くなるのではないかと思います。
インバルはそうとうな力の入れ具合で、例えば第1楽章、提示部第2主題へのヴァイオリンの入りのところでは、シュシュシュとインバルの無声音、気合いはいりまくり、結構大きく響いていました。
再現部のあたりで比較的大きな地震があり、続行かストップか怪しい空気が少しありましたが、無事通過。
第2楽章終わったところで、一旦ステージ奥へ引きあげ。ポーズがあって第3楽章へ、自然な流れです。やっぱりスケルツォは第2楽章のほうがいいですね。第1楽章の圧倒的な力をアンダンテで押しとどめることは出来ない。圧力が次の楽章にまで押し出ている。自然な流れだと思います。
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インバルはこれからさらにぜい肉をそぎ落としいけば、彗星のような流線型の見事な演奏で私の耳は再度洗われる。
おわり


1538- 未完成、運命、新世界より、レオシュ・スワロフスキー、チェコ国立ブルノ・フィル2013.11.2

2013-11-02 19:47:39 | インポート

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2013-2014シーズン
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2013年11月2日(土)3:00pm 東京オペラシティ コンサートホール
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未完成  13′9′
運命  7′9′5′9′
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新世界より 9′10′7′12′
(encore)スラブ舞曲第15番 4′
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レオシュ・スワロフスキー 指揮
チェコ国立ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団
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名曲三昧のコンサートです。
スワロフスキーはつい先だって(2013.10.23)、都響を振ったドヴォルザークのスターバト・マーテルを聴いたばかり。今度は自国のブルノ・フィルを振った名曲三昧演奏会です。
この日はこのオーケストラの2013年日本ツアー12回公演の初日。
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この指揮者は何度か聴いています。会場入り口で配っているパンフレットの写真の写り具合で損をしている部分が大きような気がしますが、こうやってシンフォニックな曲をたてつづけに聴くとその有能な様がよくわかります。
速め、すっきりさっぱり型、ストレートで、スクリュー巻き込み型のような演奏。耽溺型ではないので妙に救われる。オーケストラサウンドは濃いブラウン。
全く力まず、素直な音が音楽を形作っている。気張っていなくて聴きやすい。うるさくならず落ち着いた演奏だ。劇的なところは曲まかせとも言える。
オーケストラの魅力で聴かせるというより、日常的な演奏会の雰囲気があり、これはこれで肩肘張らず聴くことが出来てよかった。
名曲三昧の客層はいつもと違っていたが、五月蠅くなくみんな静かに聴いている。妙に静かな演奏会だった。
家路の最後の2音が学校のチャイムのように聞こえた。
おわり


1537- ブラームス3番1番、小林研一郎、日フィル2013.11.1

2013-11-01 22:49:57 | インポート

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2013-2014シーズン
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2013年11月1日(金)7:00pm サントリー
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ブラームス 交響曲第3番
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ブラームス 交響曲第1番
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小林研一郎 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
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この指揮者はコンサートでたまに近くの席に座っているのを見かけます。棒を見るのはかなり久しぶり。
曲の演奏に角(かど)が無い。滑らかなのとは違う。不揃いでブサーと鳴っている感じ。一言で言うと粗末な演奏。的確な練習とかスキル意識の高揚といったあたり忘れ去られているのかな。残念な演奏でした。
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指揮姿を見ていると、上半身が頻繁に大げさに動くので、それに追い付いていっていない腕の動きが余っているように見える。一小節の中で、腕の動きが手持無沙汰の様に見える時間が長い。これだとプレイヤーのほうが音を揃えにくいのではないか。あうんの呼吸とか、練習を沢山している、といった特殊要因があれば別だが。特に理由がなければ不要な体の運動をやめて音楽表現の正確性を要求することのほうが、優先度が高いと思う。これは日本人の他の踊り系の指揮者たちも同じ。
フリッツ・ライナーの真似をしろとは言わないが、最近の、外国の有能な若手指揮者たちを見てみたらいいと思う。ドゥダメル、ハーディング、他、有能な誰でも。棒さばきが、まるっきり違う。
自身の感情表現の前に正確な音楽表現を実現することのほうが先だと思います。
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それともうひとつこの指揮者で非常に気になったのが、演奏後の各プレイヤーに対する異常に手厚すぎるスタンディング要求。何故、指揮者があすこまで平身低頭、頭を下げきって一人ずつプレイヤーに立っていただけなければならないのか。あれじゃまるでプレイヤーが金を払っているような錯覚に陥る。この指揮者にとってのお客様は演奏者であるのだろう。聴衆はどこに行ったのか。別に金が全てとは言わないけれど、あれじゃぁ、作曲家の音楽、表現者、聴衆、この三者の愛の共同体は、フルトヴェングラーが何十年も昔言った事の意味合いを改めて認識させるに十分すぎる反証的な欠落具合であり、ものの見事に瓦解している風景のようにしか見えない。あのスタンスだと、あまい演奏の音しか出てこないのは当然の帰結。音楽に対する非常に残念な風景でした。
オーケストラは自ら、次のステップに前進するしかない。
おわり