カンボジアの食材 2 ホテイアオイの花

カンボジアから   金森正臣(2005.12.20.)

カンボジアの食材 2 ホテイアオイの花

写真:中央薄紫が、市場で売られているホテイアオイの花。その左下の篭の茶色い鞘は、タマリンド(マメ科の種子:種子と鞘の間の部分をスープなどの酸味料に使う)。その奥の篭の緑色のものは、タマリンドの若い鞘。潰して酸味料として使う。手前右手の赤い桶に入っているのは「カニ」。でもこのカニは淡水産で、生の塩漬けだから、味は良いがいろいろ問題がある。更に右手にはアジが見える。ホテイアオイの右手は、ユウガオの仲間。その下の白いピンポン球様は、生で食べるナス。奧に向かって、青いマンゴー、白いキノコ、ヘチマなどが見られる。値段は交渉次第。

 カンボジアでは、野菜としてホテイアオイの花が市場で売られている。主にスープに具として使われる。魚のぶつ切りか豚肉が入っていることが多い。しかしホテイアオイの花は、煮てしまうとほとんど気が付かない。まだ咲く前の蕾状態のものを、花茎と共に柔らかいところから摘み取り、綺麗に束ねてある。それほど多い食材ではないが、何時もどこかで見かける。

 熱帯では普通の浮遊生の植物で、大きな池では大群落を造る。トンレサップ湖で見たものは、草丈が1メートルを超えており、日本のホテイアオイとは別物かと思うほどである。カンボジアでは、どこの湿地や池にも見られるもので、子ども達が小遣い稼ぎに取っている。あまり草が茂りすぎると、花は咲かない様だ。
 草の柔らかいところは、水牛が食べているのを見たことがあるが、あまり好んではいない様だった。

 日本でも富栄養化した池に繁茂する。或いは富栄養化した水質の改善のために、ホテイアオイを使っている。大府の池では、鳥の好きだった小川先生と市民団体が、この試みをしている。温度さえ十分であれば、非常に旺盛に成長する。しかし水分が多く、重くなるので引き上げて、水の循環から栄養分を外に出すのは容易ではない。知多半島の先の方のウの繁殖地付近の池で、非常に繁茂しているのを見たことがある。しかし日本では11月になると温度が足りなくなり、枯れて元の水の循環に栄養分は戻って行く。
 一般には、金魚鉢の観賞用などとして売られている。春先などは1株30円もしているが、ほとんど手数料であろう。
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カンボジアの食材 1 カボチャ

カンボジアから   金森正臣(2005.12.19.)

カンボジアの食材 1 カボチャ

写真:手前にあるのがカボチャで、市場の風景である。この様に中が稔っていることを切って見せている。その奥の黒っぽいボール状のものはサトイモである。カンボジアのサトイモは、ほとんど粘りがない。丁度日本のキョウイモ(京芋)と呼ばれているものに近い。各種のスープに入れたり、そのまま茹でただけで塩などを付けて食べたりする。茹でたものは、良く女性が笊に入れて頭の上に載せ、売り歩いている。1ー2個100リエル(3円弱)ぐらいで、子ども達のおやつになっている。右手中央のやや黄土色は、野菜としての青パパイヤで先日書いたものである。この写真は、昨年撮ったものなので、やはり青パパイヤは見ていたのだが、記憶に残っていなかった。気が付いていないと、見ていても見えていないのだ。右手の奥の緑色の大きなボールは、パンノキの実で、薄切りにしてスープなどの具にする。

 カンボジアの語源はカボチャであると言われている。カンボジア人もそうだと言うから、多分そうであろう。カンボジアでは驚くほど多様な食材を利用している。しかしながら、食材を紹介するに当たって、まずは国名に因んだカボチャに敬意を払って、カボチャから紹介しよう。カボチャはどこの国でも珍しくもない。あまり一般的な食材は紹介しないが、カボチャだけ特別扱いである。

 カンボジアのカボチャは、ご覧の様に円形で比較的扁平であるものが多い。日本の球形で、硬いクリカボチャと呼ばれるタイプは、あまり見ない。西洋カボチャと呼んでいたものに形が似ている。幾つかの溝があり、小さなでこぼこがあり、日本ではチリメンと呼んでいたタイプである。
 味の方は日本人からすれば、イマイチ締まりが無く水っぽい。日本人に好まれる、ほくほくと甘い感じではない。私は小さい時、このほくほくと甘いカボチャが苦手で、食べると胸焼けがするので、なるべく食べない様にしていた。どちらかというと末成りの水っぽい方が好きであったが、いつの間にか好みが変わって、ほくほくの甘味の強いものが好きになっている。女房が、カボチャの甘い煮付けが好きだった影響の様な気がする。
 アフリカにもカボチャが栽培されている。日本のクリカボチャに近い形で、大小は様々である。山の中の集落で貰ったものは、一抱えもある大きさで、どれも硬くて割るのに一苦労した。包丁では歯が立たず、山刀(パンガと呼ばれる刃渡り45センチ、幅10センチぐらいの青竜刀の様な形の刃物)でたたき割ったこともあるし、斧で割ってから山刀で切ったこともある。味は日本のクリカボチャ様で、水分が少なくホクホクと甘かった。塩味だけで煮て、食事の代わりにしたこともある。
 日本やアフリカのものと比較するとカンボジアのカボチャは、何とも甘味が少ない。最も料理法も、カボチャを単独で煮る様な料理はなく、スープの具にしている場合が多い。またデザートとして、やや小さめなカボチャの中をくり抜き、プリン状の甘味を詰めて蒸し、カボチャプリンとして人気がある。今勤めている教員養成学校の片隅の食堂でも、カボチャプリンは学生達に人気がある様だ。
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カンボジアの子ども達 3 子どもの成長 市場での皿洗いに見られる工夫

カンボジアから   金森正臣(2005.12.18.)

カンボジアの子ども達 3 子どもの成長 市場での皿洗いに見られる熟達

仕事の熟達

写真:この写真は市場の食堂、お粥屋さんの洗い場である。洗っているのは小学校4年生ぐらいの女の子。でも今日の話は、先回の写真の中央でお粥を食べている小学校就学前の女の子の話。洗い場は狭く、洗い桶は3つ。

 カンボジアでは、小さな子どもでも働く場合が多い。その仕事は様々で、親が無くて働かなければ食べられない子ども達は、貧しい方ではゴミ箱あさりから空き缶拾い、物乞い、靴磨き、体重測定、酒場での各種摘み売り、花売りなど様々である。この様な仕事をしている子どもが、全て親が居ないわけではない。
 親があっても、当然家族の一員として働いている子どもも多い。例えば家が商売をしていると、店番や配達をしているのをよく見かける。また食堂などでは、食材の調理をよく手伝っている。一昨年、カンボジアの北の方の町シソポンから、更に田舎に2時間ほどの地方に、授業見学に行ったことがある。小さな村の食堂で、朝食にクイティウ(米で造った細麺に肉のスープをかけ、牛肉・豚肉、それらの内臓、魚の団子、野菜など各種の具を入れる)を食べた。この食堂で見たのは、小学校就学前の4-5才ぐらいの子どもが、クイティウに入れる野菜を、細かく裂く作業をしていた。材料は、クウシンサイ(最近日本でも売っているのを見たことがある。水の上に蔓状に伸びるアサガオの仲間の野菜。畑でも作っている)の茎を、爪楊枝を使って器用に裂いていた。この作業などは、彼女はほとんど大人に劣らぬ作業ぶりであった。

 先日(2005.12.15.カンボジアの子ども 1 子どもの成長)、に報告した市場の子どもの仕事ぶりも見事であった。先回の報告では、周囲の状況把握能力とそれに関連して形成される子どもの自身の自己存在認識について述べた。今回は、その仕事の工夫ぶりを紹介する。

 写真の通りに、職場は狭く水廻りも十分ではない。この写真の女の子は、小学校4年生ぐらいであるが、先回写っていたのは、その下の小学校就学前の女の子である。もうこのお姉さんと同じ仕事が出来る。1つのバケツと3つの洗い桶に水がためられている。バケツは洗い始める前に、残飯を入れるものである。きちんとナイロン袋がかけてある。
 お客さんの食事が終わると、まず丼とお皿を下げてくる。素早く残飯をバケツに入れ、丼とお皿についている汚れを手で拭き取る様に落とす。その後に一番手前の洗い桶で洗剤を付けて、汚れを落とす。更に一度手前の水ですすいでから、真ん中の洗い桶ですすぐ。よく濯ぐと一番奥の洗い桶の水で、更に濯いで終わり。良く水を切ってテーブルの上に載せ、布巾で拭いて他の丼やお皿に重ねる。各洗い桶の水が、最も汚れない作業ぶりである。これだけの作業であるが、ほとんど無駄がない。流れる様に動作が続く。4-5才の年齢で、単純とは言え既にひとつの仕事が完全に出来る。

 以前に同じ様な光景を、タンザニアの奥地の食堂で観察し、何かに書いた覚えがある。この時には小学校3―4年生ぐらいの少年であった様に記憶しているが、その一連の動作に驚いた。この場合には、水環境は更に厳しく洗い桶も2つしかなかった。水はかなり遠くから運ばなければならない。また、食堂で出す料理にはヤギや牛の油が付いていて、なかなか大変であった。お皿に僅かに取った水に洗剤を入れ、手で拭う様に油を落とし、その後に水を手でかけながら、綺麗に洗剤を落とし、水で濯いでいた。この工夫された行程が、スムーズに行われているところから、彼の熟練ぶりが伺えた。

 この子ども達の様に、工夫した行程が無駄なくスムーズに行われることは、その根底には、彼らの仕事に対する高い意欲が読み取れる。他からさせられているのではなく、自ら仕事に取り組んでいる。その事に寄って、自分の存在意義についてもしっかりと認識が出来ている。それを形成する基本は、意欲であろうがそれはまた後ほど報告する。

 日本の子どもの現状はどうであろうか。この子ども達の様に、ひとつの仕事を完全にマスターするところまで行っているであろうか。中学生や高校生、大学生を見ていてもおぼつかない。一つの仕事について、様々な工夫をして、改良を重ね、無駄が無くスムーズに行える様になることは、仕事の基本である。この工程が省かれると、どの仕事をしても完成には至らない。簡単な仕事から難しい仕事へと発展し、初めて本当の職人と呼ばれる仕事人が完成する。簡単な仕事の行程を省略して、いきなり困難な仕事は出来ない。
 日本では、大人になっても、きちんとした仕事が出来ない人が増えているが、この辺りに問題があるのでは無かろうか。チンパンジーの道具使用などから考えると、成長して大きくなると、様々なことに気が付く様になるから、いろいろと気が散って一つのことを完成することはだんだん難しくなると考えられる。
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メコンのナマズ 2 メコンオオナマズ?

カンボジアから   金森正臣(2005.12.18.)

メコンのナマズ 2 メコンオオナマズ?

写真:水揚げされたメコンオオナマズ?これでも子どもサイズ。大きなものも解体されて、全て食用にされている。このサイズでいくらかは不明。
 
 今までに、メコンオオナマズ(Pangasianodon gigas 英名 Mekong giant catfish)の写真は、2回手に入れた。いずれもコンポンチャムであったので、メコンの上流にしかいないのかと思っていた。一匹は、体長2メートルを超す大物で、重さは250kg程度のものだった。このナマズは、ワイヤーで釣り上げたと聞いている。仕掛けがどの様なものであったかは、明らかではない。
最近ではメコンの中国流域で(メコン川は、海から上流に向かって、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ中国になる)、大きな土木工事が行われ、爆破などをしたためにメコンオオナマズは著しく減ったと言う新聞記事を読んだ覚えがある。

 今回、12月14日の朝の散歩の折りに、メコンの川岸に揚がってくる魚を見物していたら、メコンオオナマズらしいのが混じっていた。種名がはっきりしないが、いずれ鹿児島大の本村浩之さんにでも、写真を見て同定して貰おう。彼は、金沢大学の塚脇先生のメコンとトンレサップの生物多様性を研究するグループで、魚を担当している若手の魚類分類学者である。オーストラリアの博物館にいた経験もある。写真のナマズは、まだ幼魚と思われるが、それでも目測で、体長130cm、重さ十数キロはあるだろう。メコンオオナマズとすれば、まだ子どもサイズである。生きており、時折動いていたから、この付近で捕れたものであろう。

 どの様にして捕獲したのかは明らかではない。この付近では流し針はあまりされていない様なので、巻き網、流し網、建網、投網などが使われているが、いずれにしても網で持ち上げるのはかなりの経験と工夫が要る。最も丈夫に出来ているのが投網であろうと思われるが、この大きさを単純に引き上げるとほとんど網が破れる。何枚かを重ねて巻き込み、動けなくして抱え上げる方法を取ったのであろうか。尾ひれの付け根に、太いロープが巻き付けてあるから、網で包みこんでからロープを巻いたのかも知れない。いずれにしても、捕獲の時の興奮が伝わってくる様な魚だった。

 東アフリカのタンザニアでのナマズ漁は、ほとんどが流し針或いは仕掛け針である。タンガニーカ湖では、独自の漁法が発達しており、ナマズ専用の漁法がある。木の小枝を束ねた浮きを作り、その下に長い道糸を付けた仕掛け針である。一般の川では流し針が主体で、見回りを頻繁にしないとワニやカワウソに盗られることもある。また増水期には、梁漁も一部で行われている。この方法は元々タンザニアには少なく、主にザイール(現コンゴ)難民が持ち込んだものと思われる。私が見た川では、仕掛け針の方法で、3種類ほどのナマズが捕獲されていた。いずれも60-70cmであるが、2-6kg程度の成体であった。

 カンボジアのプノンペン付近の場合には、先日のナマズの写真のサイズからもお分かりの様に、網漁が主体のために、かなり小型のものまで捕獲される。これで資源の枯渇を招かないか、やや心配である。特にナイロン製の網になってからまだ日が浅く、その影響は十分に検証されていないであろう。漁網がナイロン製になって、資源が枯渇し始めている地域は多い。
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カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成

カンボジアから   金森正臣(2005.12.17.)

カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成

写真:トンレサップ川で遊ぶ子ども達。横にいる老人は、他人らしく全く干渉しない。しかし何か事故が発生した時にはきっと助けてくれるであろう。子ども達は、自由に、伸び伸びと自分の好きなことが出来る。この様にして自分の要求が何であるのかを体験して行く。

 私はなぜ途上国援助に来ているか。
 第一の目的は、勿論途上国の教育の質の改善であるが、第二の目的とほとんど同じ重さである。第二の目的は、日本の子どもとの相違を見ること。即ち、途上国の子ども達から学ぶことである。日本の日常の中では、感覚が麻痺して十分に認識できない本来のヒトのあり方が端的に表れている。
 
 写真の子ども達は、親の監督もなく無心に遊んでいる。そこでは子ども自身が自由であり、自分の判断で遊びを選択している。つまらなければ遊びは自由に変えることができる。自然に変わって行く。そしてその自由こそが、夢中になるための源である。
 日本の様に、もし親がついていたならばどうであろうか。多分子どもは自由には遊べなくなっている。その事を考える場合には、幾つかの動物の社会学的観察の経験が必要である。

 動物は、個体が1個体だけでいる場合と複数居る場合とは、行動が異なってくる。例えば、サルでは、単独の場合にはほとんど鳴くことをしない。しかし複数いると、音声を頻繁に出す。人間の場合を考えてみよう。貴方が、1人で自分の部屋にいる場合とそこに誰かが入ってきた場合とでは、明らかに思考や行動に変化が起こる。この変化は社会的関係によって引き起こされる現象と考えられる。社会を持った動物は、多かれ少なかれ他の個体の影響を受けて行動が決定される。

 話を戻すと、子どもは親がいる場合に、居ることを意識しているだけで行動や思考に変化が起こる。そこで出生以来受けてきた親との関係が、影響する。子どもの小さい時ほどその影響は、大きくストレートである。やがて親の影響に対処する方法を開発しながら、次第に自分の要求を満たそうとする。
 少し成長すると子どもは、自分の要求を実現するために巧みに方法を探る。例えば、まだ歩けない子どもが、親の足音を聞いて微笑みかけたり、遠ざかる足音に泣き声を上げたりするのは、明らかに相手をして貰うことを実現するための手段である。人の気配がない場合には、泣き真似をしたり微笑んだりはほとんどしない。このことは、動物行動学を学んだ者にとっては、簡単な観察から導き出せる。

 子どもが遊んでいる場合に、親の気配を感じると、親の意向に沿わないことは避ける様になる。親から子どもへの見えない影響は、親の態度が子どもに対して不寛容であるほど大きい。親の影響が大きいほど、子どもは自分自身の興味によって遊びを選択することが出来なくなる。以前に行っていた「野外塾」(不登校の子ども達の野外活動。1泊2日で5回を1サイクルとして行っていた。子どもと共に誰か保護者が参加することにしていた)でも、小学校3年生ぐらいの子どもで、数回の宿泊の後に、初めて子どもが親の影響から自由になった例があった。この野外塾では、親には子どもに注意しないこと、親は自分で自分の興味に沿って独自にすることを要求していた。即ち、子どもに干渉しないことを練習した。
 この様な練習を通して、子どもは親の影響からやや自由になり、親も子どもを自由にすることの必要性が感じられる様になった。日常から遮断された自然の中で、1泊2日が数回必要なことは、日常的な簡単な努力程度では、なかなか回復が困難であると思われる。

 常に一緒に生活している親から子どもへの影響は、我々が日常考えて居る以上にあると思われる。このことが子どもの自由を縛り、自分の要求が何であるか、自分の存在がどの様なものであるかを追求することを阻害している場合は多い。これは子どもの自己形成の阻害である。

 人類は太古以来、数百年前までは親の子どもに対する成長の阻害は非常に低かったものと思われる。もし現在の様に影響が大きかったとしたら、多分子どもの発達阻害によって、人類が自然の中で生き残ってくることは困難であったろう。社会の形態が変化し、相互支援が強まってきたため、生き残っている様に思われる。しかし、個人としては、自己の発達が十分でないことによって、大きなストレスを抱え込むことになってきている。
 この様な問題が極端に外部に向かうと、粗暴程度から、子殺し、家庭内暴力、親殺し、動機の不明な殺人、自殺などに発展して行くことになると思われる。
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クメールの食事 1

カンボジアから   金森正臣(2005.12.16.)

クメールの食事 1 塩辛い惣菜

写真:中央右手が問題の魚。4切れも乗ってきたが半分しか食べられなかった。カンボジアでは、プラホックの料理には中央左手の皿の様な生野菜を添えて食べる。

 クメール飯屋に昼食に出かけた。肉類よりも魚が好きなので、この日も写真の魚の一品を頼んだ。一口食べて、その塩辛さに脳天まで塩漬けになったような感じがした。皆さんはこの様な経験がおありだろうか。日本でも最近では塩辛いものは、健康上からの理由などで遠慮され、あまり塩辛いものは存在しなくなった。昔は、鮭の塩辛いものやカツオの腹身など塩辛いものがあった。
 この日の魚は、カンボジア名物プラホックの端切れだった様だ。プラホックには2種類有り、小魚を塩漬けしたものと大きな魚を3枚に下ろして塩漬けしたものがある。前者は主に魚醤を取り、後者はそのまま料理に使う。魚醤を取ったあとも料理に使うが、魚醤を取らない方が高級品である。また貧しい家庭では、魚醤を取ったあとのものをそのままご飯に乗せて食べていると言う。
 この日の魚は、塩漬け物を中心部分は他の高級料理に使われ、残りの腹身に近い部分と鰭などの骨のある部分が切り出されてものを、煮付けたものであろう。一切れあれば十分に、ご飯が食べられてしまうほどの塩辛さであった。隣に見えるのは、生野菜で生の茄子(白色に見える半球形)、キュウリ、ヒレのある豆の鞘などと一緒に食べる。味はよいのだが、久し振りに緊張するほどの塩辛さだった。

 金銭的に貧しいと、食事にかける金額も自然と制限される。日本の戦後もそうであったが、何をどの様に食べるかは、腹一杯になることが第一の課題になる。この様な場合に、私の経験では2つの道が存在する。その一つは、塩辛い総菜によって沢山のデンプン質を食べる。即ち少量のおかずでご飯を沢山食べる。もう一つの選択肢は、辛みで沢山のデンプン質を食べる。

 以前、1980年頃に韓国を訪れた時に、まだ国防費の予算を37%もとり、国民は重い税金と貧しい生活にあえいでいた。この時よく食べたのは、青トウガラシにコチジャン(トウガラシと麹を混ぜて発酵させた韓国独自の調味料)を付けてご飯を食べるというものだった。辛さと塩味で確かに食は進むが、腹一杯になるだけの食事であったが、皆それほど不満は持っていなかった。空腹が切実であったから、満腹に食べることによって十分に満足であったのだろう。
 日本でも戦後の貧しい時には、味噌でご飯を食べたり、野沢菜やタクワンなどの漬け物だけでご飯を食べたりするのは、当たり前であった。刻みネギにトウガラシを混ぜ醤油味などで食べることも、普通に行われていた。小学校の家庭科の時間に、如何にして脂肪やタンパク質を、必要なだけ取るかが課題になっていた。動物性タンパク質などは、お祭りのご馳走や晦日の塩のこぼれるほどに入った塩鮭、脂肪と言えばお盆の天ぷらぐらいしか思い浮かばない時代であった。
 功成り名を遂げた宇野重吉が、晩年に何を食べたいかと聞かれて「タクワンを千切りにして油で炒めて煮た物」と言った話があったが、多分小さい時に貧しくてこの様なものを食べていたのであろう。年を取ると昔の味が懐かしくなる。「メザシの土光さん」と字名(渾名:アダナ)された経団連会長、土光敏夫さんもメザシをこの上なく好んでいた。

 現在の日本は、食事を制限しなければならないほどに栄養過剰になっている。食材も豊富で、何でも手に入る。戦後の食事に比べて皆さんは、十分すぎるほど満足して感謝しているだろうか。子ども達は満足して感謝の心に満ち溢れているだろうか。日本にいると、しばしば子どもの食欲がない話を聞く。もしそうだとするならば、どこかで基本を踏み外していないだろうか。
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カンボジアの子ども達 1 子どもの成長

カンボジアから   金森正臣(2005.12.15.)

カンボジアの子ども達 子どもの成長1

市場のレストランにて

写真:良く朝食のお粥を食べに行く、市場の食堂。3*3m程度のお店で、お粥だけである。おばあさんと孫達でやっている。子ども達はそれぞれに役割を担っている。

 カンボジアや途上国では、幼い子どもがよく働いている。その能力は、日本の大学生でもなかなか間に合わない程度だ。

 今回は、子ども達の周囲の状況を把握する能力の成長について触れよう。

 良く行く小さな市場に有るレストランは、おばあさんと孫達が働いているらしい。孫達は見かけただけで兄弟姉妹と分かる特徴がある。写真のお兄ちゃんの上にもお姉さんがいて、下に3人の妹と弟がいるようだ。最低でも6人はいる。この食事をしている写真の左側の女の子は多分一番下の妹で、まだ明らかに小学校に入っていない。店に来ていると、この右側の就学年齢ぐらいの男の子と2人で、このレストランの片付けを、一手に引き受けている。写真は、お客さんのいない時を狙って、朝食にお粥を食べているところである。店にいる時には、例え食べていても、少しも油断はしていない。近づいてくる人の様子を、片目で伺いながら、食事をしている。お客さんが来ると直ぐに席を空けて、隣の空いている店の一角に移動する。店のお客さんの食事が済むと、下の女の子は直ぐに空いた丼や皿を片付け、男の子はテーブルを拭いて次のお客さんに具える。例え食事中でも何回もこの動作が繰り返される。この年齢でそれが出来る。

 日本の子ども達の現状はどうであろうか。大学生であっても、ここまで気を配れる学生は少ない。周囲の情報を把握できない。この差は何であろうか。多分訓練による差であろう。日本の子ども達は、周囲の情報を把握して、自分で判断する訓練がなされていない。親や先生から指示されて、それを実行するのがやっとである。即ち、感受する感覚が成長していないのであろう。これは人間としての一部分とは言え、成長が十分ではない、成長遅滞が起こっていることを示している。

 この様な感覚については、目に見えないから、大人になっても感知できない人も多い。親或いは教育者が、感知出来ないと子どもの成長は止まったまま放置される。或いは遅れている様だと感知出来ても、その原因が何によるかが、分析・理解できないと手の施しようがない。

 小さなことの様であるが、実は人生にとって大きな支えの始まりである。この子どもは、明らかに自分の存在感を自分の中に持っている。即ち、自分がこの店の役割を担っていることを認識している。その役割の範囲も、出来ることの範囲もきちんと認識出来ている。

 中学生になる上のお姉さんになると、盛りつけや会計を担当することが出来る。盛りつけは簡単な様であるが、実はなかなか熟練の技である。300食は入っているのであろう大きなお粥の鍋をかき回し、最後まで均一に盛れる様に注意しながら底に溜まりがちな米粒を適量盛る。大きなお玉で、2回ぐらいで1つの丼を盛るが、かなりの注意を払っているのが伺える。惣菜は、干魚の焼いたもの、干し牛肉の焼いたもの、小魚の煮付けがメインで、漬け物の刻んだもの、茹で野菜の千切りなどを付け合わせる。この量や盛りつけ具合もきちんと基準が出来ている。しばしば祖母のいないことがあるが、このお姉さんになるとしっかり代理が出来る。もう立派に店を切り盛りするノウハウを、身につけている。
 前に並べてある丼の数も、伊達ではない。お客さんの好みによって熱さが違うから、いつでも様々な熱さが選べる様に準備されている。時によると冷めた丼は鍋に返されて、盛り直しをする。

 自分に対する自分の存在の認識は、社会(初期には家族であり、次いで遊びや職場へと展開して行く)での役割を通してしか出来上がらない。この点が日本の子ども達に欠ける点である。子どもどころかカンボジアで見る日本人の多くも、自分に対する肯定感が低い人が多い。自分が自分を認められないとどの様なことが起こるか。常に周囲からの評価が気になり、ストレスが高くなる。これは生育過程における、親の養育態度と深く関係している。即ち親が子どもに任せる(信用する)ことが出来ずに、あれこれ口出しすると(口出しはしないが、自分の意向になるまで、子どもの意志を無視する、親がヒステリックに騒ぎ立てる等様々な状態を観察することがある)子どもは自分の存在意義が分からなくなり、親の意向を気にする様になる。この延長線上に、周囲の評価を気にする人格が存在する。親からは離れても、精神的状態は同じで、自己の肯定について何時も周囲の評価に依存する状態は変わらない。子どもが成長してからの暴力や親殺し、自殺などがしばしば起こっているが、原因はこの問題の延長線上にある。
 周囲の状況を正確にしっかりと把握するには、精神的に安定の状況が必要である。精神的に不安定であると、周囲の状況は精神の状況に左右されて、正確に把握出来ない。注意がそれてしまう。また精神の状況によって、極端に歪曲されて認識されることもしばしばである。精神的の安定の基本が、自分の存在の肯定である。

 この様に見てくると、如何に日本の子ども達の状況が大変であるか理解頂けるであろう。今の日本の子ども達には、自由を得て自己の判断で働く場所が存在しない。この人生の基礎になる問題は、生涯抱えて生きて行かなくてはならない。
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レストラン事情 3 クメール飯屋

カンボジアから   金森正臣(2005.12.14.)

レストラン事情 3

 クメール飯屋

写真:街角のクメール飯屋を中から見たところ。右手の棚に各種の惣菜が並べてある。客は来るとこのショーケーるをのぞき、好きな物を盛って貰う。中央の大きな鍋には、スープが2-3種類有り、好みのものを選ぶ。店の外の歩道上にも、テーブルが並べられている。雨になると急いで逃げ込んだりする。
 
 私がクメール飯屋と呼んでいるレストランは、入り口に惣菜やスープの鍋を並べ、一目で見えるようにして有る。メニューなどはない。客は好みの惣菜を指定して、席に着くと注文の品とご飯が届けられる。店によって品数に多少の差はあるが、大きな店だと肉、魚、野菜など20種以上もある。スープも2-3種は置いてある。だいたい一皿が、1000-2000リエルで(1ドル4000リエル)同行者の人数分くらいの品数を頼めば、丁度良いくらいである。1人で行き2-3品頼むと、どうしても惣菜の量が多くなりすぎる。貧しい人達は、塩辛い1品を頼んで多量の飯を食べる。飯はだいたい一皿500リエルで、半盛りもある。若者などは、2-3皿も食べている。1人で2-3品頼んでもだいたい一食3000-3500リエルである。数人で来ると、たっぷり食べて1ドル以下である。
 日本でも関西には、店頭のショウケースに、各種の惣菜を1人前ずつ盛り並べてある飯屋がある。客は好きな物を取ってご飯やみそ汁を盛って貰って、精算し食べるシステムである。好きな物が好きなだけ食べられて、私は結構好きであった。今住んでいる刈谷にも1軒有ったが、最近見かけなくなってしまった。大阪市大の医学部時代には、キャンパスの直ぐ裏手が、あいりん地区と呼ばれているドヤ街あった。ドヤ街には、飯屋が何軒か有り、それぞれ特徴のある品々を揃えていた。昼食などは、早くて安くて美味いので良くそこの飯屋に食べに行った。鯖のみそ煮などを食べていると、向かいにご飯だけを持った兄ちゃんが座り込み、こちらの終わった頃を見計らって残った汁と骨をご飯にかけて食べていた。
クメール飯屋には、路上生活者のような若者が出入りしている店がある。乞食も良く来るが、店の主人は特に客が邪魔にしない限り追い払わない。私の良く行く街角の店は、昼食だけで300食ぐらいは売っている人気のある店である。持ち帰る人も多いから(カンボジアでは、スープ、ご飯、お総菜など全てをナイロン袋に入れ持ち帰る。お茶やコーヒーなども同じである)その数は定かではない。大きな鍋で何回もご飯を炊き足す。このご飯を炊くカンボジアの鍋は、アルミ製で1度に5升は炊けそうな大きさである。その度に鍋の底にお焦げが出来る。それを洗い場(外で水をくんできて洗っている)に出す前に、この路上生活者達が(複数いることが多い)手ではがして、折りたたんで食べている。テーブルの上に客の残した惣菜なども、手つかみで一緒に食べている。彼らはその後、お皿や鍋を洗い場に運んで、それなりの役割を果たしている。
以前にコロンビアで調査していた時に、食事の時に残った物を同行した政府の役人が集めて、乞食に渡していた。乞食は堂々とレストランの中で食べた後、出て行った。レストランの人々も特にクレームも付けなかった。この乞食は数回来た。コロンビアの食事も量が多く、日本人としては大食漢であった私でも、食べきれないほど量があった。コロンビアでは、乞食も同格に扱われていて、何となく安心した。以前にカンボジアでパーティーの時に、路上生活の子ども達が、ビールの空き缶を集めに走り回っていたことがあった。パーティーで散乱するゴミを片付ける役割を担っていた。パーティーに参加した人々は、あまり気にせずに彼らを容認していた。カンボジアの路上生活者は、コロンビアの乞食よりも、社会的に役割を担っているように思われる。
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ナキトカゲが鳴いた!

カンボジアから   金森正臣(2005.12.13.)

ナキトカゲが鳴いた!

写真:今年6月20日にコンポンチャムの宿で間近にナキトカゲを見た。ベッドの脇の洋服ダンスの裏と壁の間に潜んでいて、チョットだけ顔を出したので気が付いた。急いで写真を撮った。次の日覗いてみたら、何と上下に頭があってビックリした。2匹住んでいたのだ。またこの部屋に泊まりに行きたいと思っているが、まだ果たしていない。

 ナキトカゲが鳴いた!ナキトカゲだから鳴くのは当たり前だろう。そう当たり前だが、鳴くところを直接見られる機会は少ない。何と部屋の前の学習デスクと壁の隙間で鳴いているところを見てしまったのだ。

 ナキトカゲを御存知か?学名は、 Eublepharis macularius で、英名は、 Leopard geckoである。東南アジアには普通の動物で、木の上で鳴いているのを良く聞く。しかし姿を見られることは少ない。保護色で分かりにくい上に、上手に隠れていることが多い。鳴き声は「トッケー・トッケー・・・」或いは「ゲッコー・ゲッコー」と聞こえる。昆虫など小動物を餌としている。
 ヒョウの姿は、テレビではよく見られるが、実際の原野ではほとんど見ることはない。用心深い上に、相手の方が先に気付くから姿を隠してしまう。私のいたタンザニアのフィールドでも、何時もヒョウは近くに住んでいた。多くのテント場で水場は共用だったし、足跡、爪痕、食べ残し(しばしば取り上げて食べていたが)、糞等はいつでも見られたし、夜に近くで鳴き声・唸り声を聞くことも多かった。しかし姿を見ることは、ほとんど無かった。
 ナキトカゲも同じである。鳴き声は常に聞くが、姿はなかなか見られない。なかなか敏感な動物で、僅かな音や動きに反応する。プノンペンのワットプノン(ペン婦人の寺:プノンペンの町の名の起こりと言われている寺)に行くと、よく見られる。しかし昼間は静かにしているので、カンボジア人もほとんど知らない。ワットプノンの丘に上がり、本堂の北側に回ると、1段下にもう一つのやや小さなお堂がある。その脇に、数本の巨木があり、その一本に何時もいるのだ。大小取り混ぜて何時も数匹はいる。しかし、よほど知っていて目を凝らして見ないと分からない。知っていてもしばらく見ていないと分からないことがあるくらい、保護色だ。写真のナキトカゲは、灰青色で、やや派手なオレンジに近い斑点があり極めて目立つ。レオパード(ヒョウ)と言われる所以であろう。しかしこれは物陰に隠れていて、安心してしまった時の色らしい。私が最初に見たのは、数年前でポンロックというクメール料理のレストランの壁である。この時も、ワットプノンで見かけるのと同じ暗褐色をしていた。

 我が家のナキトカゲも、この写真のカラーに近い。但し派手な斑点は目立たず、基調の色の灰青色に近かった。彼らはカメレオンと同じで、体色をその場所の色に合わせて変化させるので、多分物陰で安心した時の色が、本来の色と思われる。数日前に、一度姿を現し、小さなのが来たナーと思っていたら、消えてしまってしばらく姿が見えなかった。だいたい20cmぐらいで、何時も見ている30cmを超す様な大きさに比べるとかなり小さい。写真のナキトカゲは、25cmぐらいで、2夜この部屋で過ごしたが、鳴かなかったのでまだ小さくて鳴かないのかと思っていた。一昨日夜に家に帰ったら、突然部屋の入り口で鳴き出したので、急いで隙間を覗いて見ると、一心に鳴いていた。前後の脚の間の腹の部分を持ち上げ、鳴く時にはその腹を壁に付ける様にして空気を押し出す。カエルの様に膨らます空気袋は無いらしい。体全体でかなり激しい運動である。カンボジアでは、ナキトカゲは7回鳴くと言われているが、実際には様々である。夕方通りで涼んでいる人達も、トッケーが鳴き始めると、回数を数えて遊んでいる。
 私も鳴き声の回数を良く数えているが、多い時には11回、少ない時には4回ぐらいで止めてしまう。田舎に行った時、聞いた話では、年を取って大きくなると沢山鳴くという。因みに我が家のトッケ-は5回ぐらいで止めてしまった。

 話は異なるが、カンボジアではチンチョと呼ばれている「ヤモリ」も良く鳴く。また先日地方に行った時、池の脇の倒木の下から、虫かネズミの様な鳴き声が聞こえた。何かと聞いたら土地の人は、ヘビだと言う。太さは腕くらいで、長さは50cm位だという。それではまるで「ツチノコ」ではないか。ツチノコはイビキをかくと言うが、この声は明らかに鳴いている。カンボジアではヘビもトカゲも良く鳴くのであろうか。
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プノンペンにムササビ君

カンボジアから   金森正臣(2005.12.12.)

エッ!! プノンペンにムササビ君

写真:ムササビ君の証拠。ココナッツをかじった痕。この穴から中まで入って、綺麗に内側のコプラを食べてある。多分日本とは種が違うだろう。

 プノンペンの町の中心部にムササビ(Petaurista sp.)が住んでいるなんて。ここはカンボジア随一の都会で、小さいとは言え100万人都市である。加えて周囲はほとんど市街地で森林にはほど遠い。
 昨日の日曜日に、朝8時頃に仕事場に出かけた。教員養成大学の自然科学センターの庭に、ぽつんと若い椰子の実が落ちていた。ソフトボールよりやや大きめに成長したところで、まだ落ちるのには早い(本当は椰子:ココナッツの実は、完熟しても落ちない)。拾って見ると、写真の様に柄の近くに大きな穴が空いており、何かに食われた痕と思われる。
 今朝になって、スタッフにいろいろ聞いてみるが、ネズミという意見が多く、鳥という意見もあった。田舎では大きなネズミが木に登り、よく食べるという。また、鳥がつついて穴を開けるという。確かに熱帯雨林では、樹上生活のネズミが発達しているであろう。以前にスンダ列島(東南アジアのマレー諸島のうち、インドネシアに属する島群)を調査していた阿部久(北大名誉教授:小哺乳類の分類学)さんから、ラットの仲間がすごく分化しており、樹上生の仲間がいると聞いたことがある。樹上生活の仲間は、ほとんど地上に降りることが無く、捕獲するのに苦労すると聞いていた。また、亡くなってしまったが、同じ齧歯類を研究していた小林恒明(京都大学:齧歯類の染色体の研究)さんは、タイで樹上生の齧歯類を採集するのに、ピストルに散弾を入れて、樹上の動いたところを撃つと話していた。また私がエジプトで調査していた時も、現在森は全くない砂漠の中で、森林生のネズミを捕獲したことがあり、以前は森林だったのだと感激したことがある。6000-8000年以前は、ナイル川流域は熱帯林であったと言われている。エジプトの文明は、この森林のエネルギーで造られたのであろう。その証拠が残っていたのだ。そのネズミは、木の上で稔りだしたオレンジを食べ、皮などはそのまま木にぶら下がっていた。この様に熱帯林では、樹上生のネズミは珍しいことではない。

 でもなんかこの穴から想像すると、ちょっと違う様な気がする。

 やや遅くに出てきた、我が生物のリーダーのブンナ君に聞いてみた。彼は見るなりチョット変な絵を描いて、空を飛ぶネズミだという。いろいろ話してみると夜行性で、両腕に膜があって、大木の穴に住んでいる。学長の部屋の前の大木に穴があり、夕方になると空を飛ぶことがあるという。
 そうか!ムササビだと納得。椰子の実に残っている歯形の大きさも納得。きっと門歯の形にぴったり。それにしても中まで潜り込んで、コプラ(種子の中側に貯まる胚乳:脂肪分に富んで栄養価が高い。ココナッツミルクはここから取る)を削って綺麗に食べている。あっぱれ。
 考えてみると、プノンペンは木が多い。街路樹、屋敷の植え込みなどを伝われば、ムササビならどこまでも行ける。むしろ町並みが無くなると木が少ない。また、空洞を持てる様な大きな樹木も多い。ワットプノン(約1kmぐらいは離れている)まで行けば、そこにはまた大木の生い茂った森になっていて、カニクイザルと思われる群れも住んでいる。そんなこんなで、どうやらプノンペンには、ムササビが種を維持できる、環境が残されていると思われる。食料としての実は、どこでも豊富にあるから(屋敷林はほとんど食べられる果実がなるものが植えられている)、ムササビもサルも生活できるのだ。

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