著書を頂く 2

著書を頂く 2 2011.5.30. 金森正臣

 タンザニアの首都ダルエスサラームに在住の根元利通さんから「タンザニアに生きるー内側から照らす国家と民衆の記録」(昭和堂)を送って頂いた。アフリカで調査をしていた頃に、良くお世話になった。車を預かってもらったり、首都に居る時にはアパートをお借りしたり、お宅でご馳走になったり。特に調査が終わって首都に出た時に、奥様の手料理の日本食は有難かった。根本さんは、多くの日本人の霊長類や文化人類学調査をサポートしておられて、思わぬ方と食事をご一緒したこともある。

 タンザニアに関わって35年になる彼は、タンザニアと日本を繋ぐことを考えておられ、タンザニアの音楽家ザウセを日本に呼んでコンサートを開くなどの交流活動も行っている。奥さまの金山麻美さんも、チビテ(親指ピアノ)を練習され、積極的にアフリカの文化の紹介をしておられる。また、ジャタツアーを言う旅行会社を運営し、タンザニアの田舎に滞在し生活を体験するプログラムなどを始め、若者たちが貴重な体験をしている。毎年、ジョージ・リランガ(マコンデ彫刻の作家で、版画も傑作が多い。故人になってしまった)の版画によるユニークなカレンダーを送って頂いている。この様にタンザニアの芸術家を育てる活動も行っておられ、真の支援とはこの様なものであろうと敬服している。

 根本さんの視点は、外部から見るのではなく、住民としての目線で書かれており、従来のアフリカ観とはかなり異なった印象を受ける。既にタンザニア生活35年を超える人ならではの、タンザニアの紹介である。我々は他国を理解する時に、時間が経つに従って異なった側面が見えてくる。歴史と深く関わっている事情については、理解に時間がかかることが多い。私もカンボジアの場合、数年が過ぎてからようやく分かり始めた感じが有った。

 自然環境と生活の関係も、簡単そうで意外に理解が難しい。文化あるいは生活のどの部分が、どこと関連して居るのか。また長期間における自然現象の変化は、捉えること自体に時間がかかる。菅平に暮らしていた13年間で、一度だけ遅い雪が有り、それが年輪に現れた。また志賀高原において、一度だけ林の中で猛烈な台風に直面した。ねじれても倒れないコメツガ、直ぐに折れるトドマツなど、樹種による違いを体験できた。風に対抗して幹がねじれても倒れなかったコメツガも、次に年には枯れてきた。皮と幹が離れてしまった様だ。タンザニアでも、年間降水量が倍にも半分にもなる年変化の大きさに驚くばかりであった。大陸では、普通のことであるらしい。
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著書を頂く1

著書を頂く1 2011.5.19. 金森正臣

 最近、いろいろ著書を頂いた。そのうちから2冊ほど紹介。今日はその1冊目。

 京都大学東南アジア研究所の小林知氏から、「カンボジア村落世界の再生」を頂いた。これは彼の学位論文の成果であろう。2001年ごろだったと思うが、カンボジアでカウンターパートの家を訪れた。かなり田舎で、当時そこに日本人が、居ようとは思っていなかった。カウンターパートのお父さんが、日本人がこの村に住んでいるから呼んで来て、一緒に昼飯を食おうと言って出かけて行った。その時には、中国人を連れてくるのではないかと思っていたが、なんと現れたのは日本人、小林知さんであった。当時京都大学の大学院の学生さんで、2年ほどこの村に調査のために住んでおり、後2週間ぐらいで帰国するとのことであったと記憶している。その時に、カンボジアの上座部仏教との特徴として、お寺に入門した時から、4―5歳の僧であっても、直ぐに仏様側に立ち、在家者には仏の代理として接すると伺ったことが印象的であった。日本の大乗仏教では、いかほど高僧になっても仏様側に立つことは無く、庶民の側に立って仏様の意向を伝えるのと大きな違いを感じた。

 あれから10年ほどの月日が経ち、3月にプノンペンで行われた「カンボジア研究会」(カンボジアに関心を持つ研究者の集まり)で偶然再会した。京都大学東南アジア研究所の助教になっておられて、いろいろ懐かしい話に花が咲いた。その後帰国されてから、上記の本を送って頂いた。小林さんの学位論文の集大成であると思われるが、学術振興会の成果刊行費を受けた立派な本である(出版は、京都大学学術出版会)。

 昔のことを思い出してみると、小林さんはポルポト時代に崩れたカンボジアの村落が、どの様に再生して来ているかを調査中で、その中心的役割を仏教に見出していて様に思われる。カンボジアでは、如何に貧しい村であっても、まずお寺が作られたりする。お金が無いので数年の年月を費やして、通る人々に寄付をお願いして、集まった分からお寺を作って行く。日本では気の遠くなる様な方式であるが、一般に普通に行われている。また多くの人々がこれに協力して、支えるのもカンボジアの特徴である。今後カンボジアの村々が、どの様に再生して行くか見守りたい。



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大泣き

大泣き  2011.5.12.  金森正臣

 調査に出かけた時に、休んだ所で、子どもが大泣きしていた。よほど悲しかったのであろうか、カメラを向けても大泣きの続き。この年齢になると、多少は周囲を気にするが、よほど悲しかったのだろう。

 付近の子どもは知らん顔。きっとお母さんにでも怒られた理由が、周囲の子どもも納得していたのであろう。普通カンボジアの子どもは、誰かが泣き出すと、おせっかいなくらい世話を焼くのだが。
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カンボジアの豚

カンボジアの豚 2011.5.10. 金森正臣

 バッタンバンに柑橘類の調査に出かけた。この調査は、バッタンバン名物であった柑橘類(主にオレンジとザボンの仲間)の病害の状況を視察に行ったものである。かつては数十軒の店が街道筋に並び、トラックで運び込まれたミカン類が、地面にゴザを敷いて、山積みされていた。しかしここ数年は減少の一途で、以前の十分の一も見られない。教育大臣や内務大臣にお会いした折に、病虫害駆除の支援を強く要請されたために、視察に行った。

 柑橘類の栽培に関しては素人の私でも、柑橘類の栽培技術が不足しているのは明らかである。愛知県でサルの調査をしていた十数年間は、良くミカン畑を歩いた。そのころを思い出してみると、カンボジアのミカン畑は、剪定も不十分であるし、下の管理も不十分である。下草が多く、病原菌の保存場所になりやすい。また、病害で枯れたミカンの後には、キャッサバやマンゴー、バナナなどが植えられているが、これは病害にとっては無害であるだろうかと疑問に思える。状況から推察すると、稲作技術が不十分なように、柑橘類栽培技術も十分とは言えないように思われる。

 ミカンの畑の一角で、大きな豚が2頭飼われていた。雌豚で、繁殖させて子どもを育てる目的の様に思われる。市場で売るには、やや大きくなり過ぎている。カンボジアで取引されている体重は、主に100kg以下、80kg程度が多い。畑に居た豚は優に150キロくらいは有り、小学校の子どもたちと一緒に飼った豚が、130キロくらいになったのを思い出した。散歩に連れ出すと喜んで飛び上がるので、子どもたちが楽しみにしていた。でもここの豚は、狭いトン舎に入れられて、身動きもあまりできず寝そべっていた。その設備を見ると、明らかにいろいろの問題を抱えている。例えば、水飲み用の箱も餌箱も、ともにコンクリート製で、きれいに洗って流すことが出来ない。日本ではこの様な場合には、底に栓を付けてあり、きれいに洗い流せるようになっている。この様な所に、カンボジアではほとんど菌類に対する知識が無く、不衛生に関する概念が教えられていないことが問題になる。

 菌類は、肉眼で見えるものではなく、顕微鏡を使ったことの無い教育ではほとんど認識できない。また湿度や温度が、菌類の増殖に深く関係していることもほとんど理解されていない。日本で考えると、小学校の先生でも、冷蔵庫に物を保管する意味は、低温にして菌の増殖を抑えることぐらいは理解している。また、カルキなどの消毒剤を使って、滅菌する方法も知っている。カンボジアでは大学の先生でも、菌の増殖を抑える方法を理解している人は少ない。やはり基礎教育の重要さを痛感する。まだまだ道は遠いけれども、出来る所までするより仕方が無い。

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カンボジアの道の駅

カンボジアの道の駅 2011.5.9.  金森正臣

 先週の末に、カンボジアの北西部の町バッタンバンに、柑橘類の調査に行った。その途中の町プルサットに、日本が作った「道の駅」が出来上がっていた。一応開業していたが、まだいろいろな物は揃っておらず、開店休業状態。ただしカンボジアとしては珍しく、綺麗なトイレを提供する休息所としては、立派に役割を果たしていた。

 建物は立派であるし、駐車場も広く、お土産売り場の場所も十分ではあるが、売るものが無い。以前これの建設を担当していた人から、何か良い特産品はありませんかと聞かれていたが、いかんせんプルサットは途中の町で、あまり特産品は無い。水田地帯で、昨年の雨季の終わりには、5千ヘクタールもの水田が冠水し、大被害を被った。その際に、国会議員さんに現地でお会いしたが、特産品は野菜とトンレサップ湖の魚とのことであった。野菜は、時間的に長持ちしないし、収穫できる時期が限られる。何故ならば、ほとんど天水に頼っているから、雨季が過ぎると出荷は難しい。トンレサップ湖の魚は、隣町のコンポンチュナンが有名で、市場に行くと開いた干し魚が、所狭ましと売られている。コンポンチュナンは、川沿いにあり定置網も多くあるので、なんといっても漁獲量が多い。プルサットは、湖が遠く、漁民よりも農民が多いので、やはりコンポンチュナンには太刀打ちできない。話は逸れるが、メコンやトンレサップ湖の魚は種類が多く、いまだ名前の無い種類も多い。毎年のように調査に来ていた鹿児島大学の助教授によると、1か所の定置網の魚を調べているだけで、1週間ぐらいで数種類の新種が出ると言う。

 ちょっと中途半端な場所に出来た「道の駅」は、プノンペンとバッタンバンの大きな町を勘案して、距離によって決められたようだ。水田地帯の真ん中にあるので、のんびりとウシが歩いていたりして、気分は良いのだが、レストランとしては、ハエが多くて落ち着いて居られない。物珍しさで寄ってみるお客さんが、ポツポツと居る程度で、閑散としている。これが立派に機能するまでには、時間がかかりそうだ。

 最近カンボジアでも、長距離バスが頻繁に往き来する様になってきている。プノンペンとバッタンバンは、大型バスで5時間余り。毎日10往復以上が動いている。各地にバスを当て込んだ、サービスエリア的レストランが増えており、競争が激しい。私設のレストランは、バスの運転手に食事や飲み物を提供し、サービスに勤めているので、これに対抗することは採算の面でもなかなか難しい。特に経営者が常駐していないと、カンボジア人のスタッフだけでは、競争の知恵は回らない。
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