日本の現状の問題に関して 4


 様々な問題を抱えた親が多くなった原因は何にあるのだろうか。私の感じるところでは、親だけの問題ではなく、社会一般的な傾向であろう。

 一般に人の心が貧しくなった様な気がする。と言うと分かった様な気がするか、肝心なことは、心の貧しさとは何かである。

 ヒトは他の動物とは違って、精神活動が活発である。特に、社会的関係に置いて顕著と言える。ピグミーチンパンジーでも、この様な状態は観察されており、ヒトだけの特徴ではない。アメリカのスー・ランボーさん夫妻が一緒に生活している、カンジ君は、天才ザルとして有名なので、知って居られる方もあるかも知れない。彼にゴリラがランボーさんを追跡しているテレビを見せると、ランボーさんの所に危険を知らせに走って行く。明らかに大好きなランボーさんが、不幸な目に遭わないためを思いやっての行動である。この様な他者を思いやる心は、社会関係に置ける精神活動である。

 親が子どものより良い成長を願って居ることは、普通の現象である。虐待している親でも、子どもに躾をしておかなければならないと言う思いはある。しかし心が貧しくなると、自分勝手な要求になってしまう。子どもにとっては大迷惑である。

 心の貧しさには、様々な尺度があるだろう。心は見えないために分かり難いが、一つの尺度として、自分の心の開拓がどの程度できているかがある。心の開拓が進んでいないと、単なる欲望のおもむくところとなる。物質的な物や飾りに執着するところとなり、自分自身の自由が失われる。外見に囚われるのも、内容が無いからに過ぎない。宮沢賢治の書いた「ドングリと山猫」には、この辺の心の動きが、上手く表現されている。心の開拓が進み、物事がある様に見える様になると、自分が1人では生きていないことが分かる様になり、感謝の念が生まれる。この基本は、子ども時代にあり、子どもは親の育てによって生きているから、何人といえども、他によって生かされて来たことは明らかである。日本人は宗教を捨てたところから、精神の開拓も捨ててしまった。これが現在の日本人の心の貧しさと関係があろう。

 競争社会になり、物事が単純な価値基準で判断されると、分かり易いが心は育たない。我々が生きていると言うことは、複雑な世界であり、単純な価値判断で良し悪しがつくものではない。「人間万事塞翁が馬」とか、「あちらを立てればこちらが立たず」とかは、人間の生きている複雑な世界の関係を良く現している。小さい時から、良し悪しの判断を単純に教え込まれ、物事の白黒をハッキリしようとすることは、大きな誤りである。西洋的な二元対立の世界観は、日本人の世界観には合わない。ヨーロッパ世界は、それなりに複雑の要素を宗教などに取り込みながら、二元対立の思考を使っている。日本人は、二元対立は分かり易く、それが世界的基準だと思うのは、単純すぎる。日本の様に教育の中に宗教を持ち込まないことは、一つの見識ではある。しかし各個人が持たないことは、心の貧しさを招いている。最近の二十数年間、仏教で修行してみての実感である。自分のそれまでの人生が如何に精神的に貧しいものであったかを、実感しているところである。

 心が貧しくなると、“ゆとり”が無くなる。マスコミなどでは、趣味などがあることが“ゆとり”があるかの様に言っているが、大きな誤りである。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」の世界は、このことを示している。物質的に豊になり、趣味も豊になって、豊に暮らしている様に思っているが、皆どこかで少し変だとは感じて居るのであろう。その様な質問を時々受けることがある。心の貧しさは、直接的に人生の貧しさに繋がる。ただいろいろの事をするだけでは、豊かにはならない。人生の良し悪しは、死ぬ時になって明確な答えがでる。様々なことをする事ではなく、自分の心を見つめることが、心の豊かさにつながる。これは各自が自分の人生を豊にするために、重要なことである。

 心が貧しくなると、自分に固執し、怒りを持つことが多い。虐待をしている多くの親の心の貧しさは、表情や言葉、行動に表れている。教育や知識では補うことができない。高い教育を受けていても、心の貧しさは補うことができないのは、大学教授が自分の息子に殺された例も幾つか思い出せるであろうことからも分かる。社会的には認められる立派な業績を上げていても、それで社会性も発達しているかと言うと、必ずしもそうでは無い。大学教員の人間関係を見ていると、かなり自己中心的な人々が居る。我々が自己中心的と感じるのは、自分に固執し、怒りを持つことが多く、他の人の考えを自分と平等に評価できない人の場合である。
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日本の現状の問題に関して 3

 児童虐待や子殺しが、社会現象として表面化したのは、15年ほど前からであろうか。毎年の様に多数の子ども達が、親から殺されている。そこだけに問題があるわけではなく、良く見ると子殺しは特別なことではなく、虐待はその数十倍に及んでいよう。極端な例が子殺しに至っているのであって、殺さないまでもかなり虐待されている例は、身近にない人はいないであろう。ただ良く見ていないだけである。更に、虐待まで行かなくとも、子どもが伸び伸びとしていない、親から圧迫を受けている例は多い。

私の経験では、児童・生徒が、確実によい返事をもらえる質問をする例は、これに相当することが多い。例えば、絵の時間に、画用紙を配り静物画を描く様に指示する。するとその画用紙を持って来て、「先生この画用紙使っても良い」と聞く子どもが居る。この様な子どもは、どの様な返事がされるか分からない様なことは、聞きに来ない。本来社会的関係においての質問は、分からないことを聞く。従って質問された先生は、「良いよ」と答えながら、何か違和感を持つ。度々この様なことをされると、疲労感を持つこともある。

何故この様な質問が起きるかと言えば、保護者との関係に起因していることが多い。中学生以下であると、子どもに対して保護者は絶対的な権限を持っている。保護者が自分の権限をどの様に行使しているかによって、子どもの行動様式が決まってくる。親の気の向くことしか許して貰っていない子どもは、親の返事がよい場合にだけ話しかけることができる。親の意向に沿わない場合には、返事をして貰えない場合も多い。時によっては怒られる場合もある。親の態度にも様々な段階があって、強い圧迫から、弱い圧迫まで様々な場合が想定される。極端な例では、子どもの意向は全く認められない。圧迫が強く、自由がない場合には、子どもの力が大きくなってきた段階で、子どもはこの圧迫から逃れようとする。極端な場合には、親殺しをして自由を得なければならない状態まで追いつめられている場合もある。だいたい中学生から高校生になったところで、親殺しが起きるのは、子どもが自由を強く欲し、親に対抗できる段階になったことを示している。親の圧迫が弱い場合には、早い段階で不登校などによって、親との妥協点を捜し出そうとする。やや強い場合には、病気になることによって、親とのコミュニケーション取っている場合もある。子どもの具合が悪いことによって、親子の対話が辛うじて可能になる。病気によって親が、子どもへの対応を変えるから、対話が成立する。健康になるとまた、親の意向に従わざるを得ない。

この様な状態にある子どもの日常生活は、想像以上に悲惨である。虐待を受けている場合には、日常は地獄の様なものである。虐待まで行かなくても、安心できる場所がない子どもは、地獄の日々だろう。昔、我が家の子どもが小学生の頃、遊びに来て夜になっても家に帰らない子どもが居た。後で聞いたところでは、夫婦喧嘩が絶えず、何時も子どもははらはらしながら生活していた様だ。その頃私はまだ心理学を勉強していなかったので、深い理解はできなかったし、何の協力もできなかった。子どもは夜半までうろつき歩き、親が寝た頃になって家に忍び込んで、休んでいたらしいことを後から聞いた。

 ヒトは生まれながらにして社会性を持っているわけではない。成長の過程で、次第に社会性を獲得してくる。誰から学習するかと言えば、最初の対象は、母親である(この辺の事情は、正高信男:「ゼロ歳児が言葉を獲得するとき」中公新書を読むと分かる)。この最初の出会いが、上手く行かなければ、その後に社会性を獲得するのが非常に難しくなる。社会性などは、親の振りを見ながら学ぶ物であって、そのモデルがない場合には学びようがない。10年以上前でも、小学生を見ていて、半数ぐらいの子どもは社会性の発達が悪いことが気になっていた。大学生も同様である。大学生は勉強もでき、大きくなってきているのでそれなりに自分の欠点を隠す様になっている。しかし、基本のところで社会性が発達していないのは、隠しようがない。どうもしっくり行かない、ベタベタされて疲れる様な発達段階のヒトが、半数近くいる。海外にいても日本の若者の社会性は同じ様なもので、かなりの問題を持った人が半数ぐらいはいる。海外で働いている人は能力も高く、賢い人が多い。しかし社会性の発達となると、教養や能力ではなく別のファクターが働いている。むしろ文化が違うと言うことで、社会性の未発達を言い訳できることを選んでいる節もある。また強い立場にある援助する側に立って、自分の社会性の未発達をカバーしている場合も多い。

 先生達が子どもに接する場合には、この様な子どもについて良く理解しておかなければならない。この様な子どもは、先生から言われたことを、なかなか理解できないし、返事が逸れていることが多い。子どもとしてはどうしようもないことで、自分で気になっていても直しようがない。親の圧迫から逃れることが先決であるから。
 先生は、自分が注意したことに対して、子どもが守らないとなかなかスッキリしない。何か引っかかる物が残り、ある場合には怒りが出てくる。無視された様な気分になる。この様な場合に、子どもが自分の言葉を、理解できない状態にあることを知っていれば、ずいぶんと違う。気分的に楽である。この様なことを理解していている場合に、簡単明瞭に親に注意する先生もいるが、ほとんど逆効果である。親も子どもと良い関係を持ちたいと願っているが、上手く行っていないから、注意されると無意識が言い訳をし、怒りを持つ。改善するには、長い時間が必要である。親自身もその親から圧迫を受けて生育している場合が多く、これから脱出することは、並の努力ではできない。
 ここで大切なことは、子どもを理解するためには、先生自身が自分の無意識の中の囚われを見つめることである。自分の心の中に囚われがあると、物事がある様に見えず、心の囚われに引かれて、歪んで見えるからである。結果として物の本質を、見間違えることになり、本質に近付けない。これは先生ばかりでなく、全ての人の人生に置いて重要な点である。無意識の囚われに引かれて、判断を誤ることも多い。自分の人生のためには、自分の心の闇を見つめなければ進歩は無い。

 何故この様に子どもを圧迫する親が増えてしまったのであろうか。また次回以降に。
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