不妊治療の発展

不妊治療の発展

 

今朝(2021.07.15.)の朝日新聞に、日本医学会が、「子宮移植」を容認したという記事があった。慶応大学の臨床試験が始まる様だ。慶応大学医学部は、早くから不妊治療に取り組んできた実績がある。子宮が無く生まれてきた人にとっては、朗報であろう。子宮移植がうまく行くのかなど幾つかの問題があるであろうが、新しい手法ではある。

 

各人の生きる方法には、いろいろあってよいので意見をさしはさむ気はない。特に当事者は、深く考えているであろうから、意見を述べる立場にはない。しかし直接関係しない方には、他の方法もあることを、理解して頂きたい。私は、子どもがいなかったので、50年ほど前に長野県の菅平にいるころ里子をした。その後数年して大阪に移り、そこでもう一人の里子を預かった。いろいろあったが、自分たちだけで生きるよりは、多くのことを経験でき、人生が豊かになったと思っている。

 

それぞれの場所で、行政の対応の違いもあった。大阪が最も整っていて、高度な教育を受けた職員が常駐していて、支援も厚かった。愛知県ではまだ認知度が低く、宿舎に里子を連れて入ることも理解されなくて、驚いた思い出もある。

 

カンボジアでは、子どもの養子は普通で、かなり頻繁にみられる。私の周囲でも、子どもをもらってきたと言って一緒に住んでいる家族が有った。普通の家庭の子どもの数も、かなり多く、地方では7-10人程度は普通である。いろいろな事情があり、子どもを育てられなくなった親が、誰か育てられる人にお願いする例もある。売り買いもされていて、問題になるのも常である。

 

家族とはなにかは難しいが、血縁の関係よりも一緒に暮らしているとの方が大切のように思われる。

 

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新型コロナウイルス予防接種受けた

新型コロナウイルス予防接種受けた

 

昨日、7月12日新型コロナウイルスの予防接種を、刈谷市の保健センターで受けた。午後2時ころであった。直後からややダルイ感じがあり、右腕の接種場所も痛くなった。あまり危険ではなさそうなので、そのまま寝たが、朝になってもだるく、散歩は半分にした。今日の午後3時ころを過ぎて、ようやく正常に戻り普通の生活ができる様になった。

 

以前にも各種の予防接種を受けたが、黄熱病が最もきつかった気がする。アフリカでは、このイエローカード(黄熱病のワクチン接種証明書)がなければ、移動できない国がある。若かったので休むこともなかったが、1週間ぐらいはだるさがあり、その後2回目になるからかなり長く副作用があったように覚えている。次は狂犬病で、これもなかなかな副作用があった。多少熱もあったが、あまり気にせずに動いていた。他にも破傷風やいくつかを受けた覚えがあるが、あまり副作用は無かったように覚えている。

 

やはり年を取って体力が落ちると、予防接種もちょっと大変になる。

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SGDs(持続可能な開発目標) 2 自分の歩んでいる道

SGDs(持続可能な開発目標) 2 自分の歩んでいる道

 

以前に(6月4日)は、主に地球環境のキャパシティーから書いた。今回は、ヒトの幸福追求の視点から書きたい。

 

人は誰でも、自分の幸福を願って生活し、人生を過ごしている。

この人生の幸福感はそれぞれ異なるであろう。しかしながら、物質面から考えると、豊かになっても幸福にはなりそうもない。戦後すぐには貧しくて、食事も十分に取れない時期が長く続いた。私は1940年の生まれであるが、10歳上の人の平均身長は5センチ以上低い。これは、戦中の食糧不足によると言われている。また私より10年若い世代は、平均身長で10センチ以上高い。これは戦後復興が起こり、栄養が十分のとれるようになったからだと言われている。

 

我々は子どもの頃、履物が無かったので藁草履などを手造りしていた。今ではみな立派な靴を履いている。また食料も満腹に食べられれば、幸福感を味わっていた。現在は廃棄される食糧、が問題になるほど十分に存在する。

さらにいろいろな物資も、戦後に比べれば比較にならないほど多くなって、便利になっている。

 

しかし現在の皆さんの幸福感は、いかなるものであろうか。戦後に貧しい食卓を囲んで、皆で分け合って食べた時の幸福感ほどのものを感じているであろうか。

現在の人々の暮らしは、どこかで道を踏み間違えているのではなかろうか。「機心」(㋃15日)に書いた様に、自分の歩んでいる道を、もう一度見直す必要があるのではなかろうか。

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大阪市西成区あいりん地区

大阪市西成区あいりん地区

 

崖の上の住宅が倒壊する映像がテレビで流れ、あいりん地区が有名になっている。倒壊する家の持ち主には、お気の毒としか言いようがない。私は約40年前に近くに努めていて、懐かしくいろいろ思い出しながら眺めている。私が勤めていたのは、通天閣から南に下がった通りの今回の現場から反対側で、同じような丘の上に在った。何時も丘の階段を下りて、下の小さな公園の端の老夫婦の営むうどん屋「まとや」に食べに行っていた。

 

当時のあいりん地区は、現在と違い高い建物は無く、2階の寄せ集めの様であった。「がしんたれ」で有名になったところで、日雇い労働者のたまり場であった。病院の裏の緩い坂を下りると、阿部野からくる小さな通りに出る。朝からアル中の人が道路に倒れていて、誰もあまり気にかけてもいなかった。年間300体ぐらいの司法解剖が上がってくるが、90%以上がアルコールによる肝硬変で死亡していた。司法解剖のS教授と仲が良かったので、良く呼び出された。ある時などは、シラミがいると電話があり、学生実習用のシラミを10年分ぐらい集めたこともあった。

 

引き倒された住宅の近くには、アパッチ砦と言われていた大学病院の医師達が出向く診療所があった。隣には交番があった。あいりん地区はよく暴動の起こるところで、交番のお巡りさんは、アパッチ砦に逃げ込んできた。無料で診察してくれるアパッチ砦は、住民に絶大の信頼があり、暴動の時でも襲われることは無かった。

 

あいりん地区は、食事も旨くて安かったのでよく出かけて行った。食堂には、ショウケースにおかずが並べられていて、勝手に取り出す。好きな量のご飯を盛ってもらい、みそ汁をもらい計算してもらう。机に持って行き食べていると、前にご飯だけ持った男が座り、食べ残した魚の汁などを私の許可を得てご飯にかけて食べていた。暴動などが時々あるので、あいりん地区は世間では恐れられていた。しかし皆礼儀正しく、あいりん地区で不安に思うことは無かった。

 

あべの再開発が進んで、現在の景観は私の居たころとはかなり変わっている。

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土石流

土石流

 

熱海市で土石流が起こり、何人かが亡くなられた。

私にも土石流の強烈な思い出がある。高校2年生の時に住んでいた村で、台風の時に土石流が発生した。もともとは水の少ない川であったが、戦後の林の伐採で急激に水かさが増した。昼間であったが、大きな石がごろごろと音を立てて流れていた。この復旧工事で、アルバイトができ、かなり生活の足しになった。

 

その次の年にも水害が起き、中心部のコンクリートの橋が半分流れて使えなくなった。この時も大きな石が(多分3トン程度)の石があちこちに置き去りになり、復旧に手間取った。

それから2年ほどして大学生の時に、黒部の「上の廊下」を歩いたときに二つだま低気圧に遭遇した。途中で崖の上に避難し、3日ほど過ごした。黒部川のなかを激流が下り、水の上に家ほどもある石が、浮あがって流れるのを見ていた。ゴツンゴツンと石がぶつかり合う音がして、崖の上まで地響きがした。底まで石や土砂で、互いにぶつかり合いながら浮いてくるようであった。時にはきな臭い臭いもした。多分石の衝突で、きな臭くなったと思われる。

 

とにかく土石流は、エネルーギーがすごく、流れも速い。とても人力では追い付かない。

その後黒部ダムができたが、予定の半分ぐらいの期間で、ダムの体積の80%ぐらいが土砂で埋まってしまった。

 

今回の熱海の土石流は、泥が多くかなり異なるようだが、自然の力は想像もできないほど大きい。

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クマのニュース

クマのニュース

 

最近テレビでクマのニュースが良く流れている。クマはかってかなり減少して、一時期は保護が必要かと騒がれた。

しかし最近は、かなり増えているようで、頻繁に人里に現れ、ヒトといろいろ衝突が起こっている。里山の使用状況の変化も大きい。

 

注意しなければならないのは、本州のクマと北海道のクマは全く別物である。テレビなどでは、あまり区別がなく報道されているように思われる。同じ雑食であるとはいえ、本州のものは植物食が多く、めったに肉食はしない。北海道のものは基本的に肉食で、植物は食物が不足するときに食べる。大きく力が強く、ウマなどでも一撃で首の骨が折れることがある。なかなか危険な動物である。

 

昔、北大のクマ研の顧問をしていたことがあるが、メンバーは本州から来た人ばかりで道産子はいなかった。彼らは、クマの怖さを知っていて部には入っていなかった。私も数回遠くから見かけた程度で近くでは姿は見えずに咳払いで威嚇された。威嚇される距離になると危険である。大雪山で、本州の大学の学生がキャンプを襲われたことがある。調査に立ち会った北大の友達は、缶詰まで食べていたと言っていた。現在の状況はよく知らないが、かなり危険な動物である。

 

本州のクマは、子どもの頃からよく見ていた。小学校の登校中に2㎞程の山の中があり、ここでは秋に時々見かけた。見学していて学校に遅れてもあまり怒られた記憶はない。私より上の集落の子どもも、時々クマに出会って遅れてくることあった。もちろん栗拾いや山ブドウ取りの折にもよくクマに出会った。しかし注意していると気が付くので、あまり襲われた覚えはない。

当時でも山の中で会うのと人里で会うのはかなり異なっていた。人里で会う時には、クマも緊張しているので、出合頭はよくない。張り倒されて大けがをした人もいた。

 

子どもの頃は、クマは食料であってよく獲られていたので数が少なくなっていた。大学を卒業して就職したころは、クマの保護が議論されていた。その後次第に増えて、現在はかなり増えた上に、山の環境や人里の使い方が違ってきて、クマが里に出やすくなっている。秋にえさ不足になると、さらに被害が増加するように思われる。

 

今後さらに注意することが必要になろう。

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