途上国支援の現場にて

途上国支援の現場にて    2018.8.12.

途上国支援の様相 

最初に外国に出向くと、多くの方々が「相手に喜ばれることをする」傾向にある。学生などを引率しても、初めて外国に行く学生は、どのようにしたら相手に喜ばれるかを聞かれることが多い。これは社会人でも同じで、何を持っていったら相手に喜ばれるかを聞かれることが多い。おもてなしを旨とする日本人の心性としては当然かもしれない。
長く支援している人々でも、同じような傾向の個人や団体を見かける。

一般には、しばらく支援をしていると相手に役立つことをする場合が多い。これには、相手の文化をある程度理解する必要がある。支援国に生活していると、自然にその様になってくると思われる。しかしながら、相手に役立つことと言っても、必ずしも相手に必要なことではない場合もある。
世界銀行やアジア開発銀行の支援でも、相手が望んでいるからと言って、ほとんど相手が使えない資材を支援している場面を何回か見ている。これらの場合には、駐在している担当者は、ほとんど専門性がなく、マネージメントをしているだけであるから相手の意向は汲んでも、相手を理解しているとはいいがたい。

相手国の事情を理解し、援助の本筋を考えると相手の自立を支援する方向に行くようになる。相手に喜ばれることは、必ずしも相手にとって必要なことではない。相手の将来にとって何が必要かを考えながら、どのような行程で進んでゆくかを考える必要もある。このような場合には相手国の文化や歴史などを十分に理解する必要がある。計画通りに進行することはないが、それでもいくつかの道筋を考えておく必要がある。

途上国にいると、自分の勉強する機会は少ない。日常の忙しさに追われ、自分を振り返る機会は少ない。現在はインターネットを使ってどんな情報も得ることが出来る。しかし、自分も成長しないと相手も成長しない。自分の成長には、インターネットの情報で得られるものでは不十分に思われる。人生において重要なことは、自己の研さんを怠ることが無いようにしたいものである。
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途上国支援の問題

途上国支援の問題     2018.08.12. 

朝日新聞の7月31日の朝刊12面に、「海外ボランティア前に楽しい旅を」という文が掲載された。私もかねてから思っていたことで、少し問題を整理しておこう。
投稿者は、沖縄県立中央病院のお医者さんで、高山義浩さん。ボランティアをする前に、まず楽しく旅をされてはどうですかと言う提案である。「よく知りもせずに、いきなり援助したいというのは、その国に対して失礼」という考えであると述べている。
夏休みが始まり多くの学生が、ボランティアに憧れるが、その前にまず楽しみながら様々な視点を養った方がよいであろうという提案にとれる。
「海外ボランティア前に楽しい旅を」は、高山さんのブログをインターネット上で読むことが出来る。

私も今までに途上国でずいぶん暮らしてきた。1970年代終わりの韓国。当時は国防費が37%であると言っていたが、現在と全く異なり、途上国そのもの。車の数も少なく、国民はコメが十分に食べられないために、政府命令でどこでも麦飯であった。一流のホテルでも麦飯が出されていた。
エジプトでの調査は、街にはロバとラクダがあふれており、それらの糞が砂埃になって舞い上がっていた。調査地の田舎では、食べる物はチャパティーとナスの塩漬けぐらいで、ほとんど他のものはなかった。それでも遠来の客のために、アフォアと呼ばれるコーヒーを入れてくれた。田舎の市場では、ナツメヤシの乾燥果が売られていて、甘く美味しかったが、どこでもハエが黒く覆いかぶさっていて、台になっている戸板をたたかないと何があるのか分からなかった。
コロンビアでの調査は、政府とゲリラは熾烈であったが、地方では驚くほどのんびりしていて、1日20円ぐらいで暮らせる不思議な国であった。これを国という概念で呼ぶには、抵抗感があった。
その後タンザニアやウガンダ、カンボジアで生活したが、これらもまた日本の国の概念とはかけ離れていた国々であった。カンボジアもおよそ20年になるが、まだいろいろと理解できないことが起こる。

多くの国々で、日本の若者たちが活動していており、たくましく思う側面もあるが、高山さんの言われるように、多くはその活動はかなり偏ったものであるように思われる。ボランティアとして活動することは結構なことで異論はないのであるが、結果は相手側にどのように影響しているのであろうか。そこを見極める視点が欠けており、自己満足に陥っている可能性が高い。

私は海外に出かけたのは30代の終わりであり、自分の専門で雇われて調査することが大部分であった。そのためまずしなければならない内容は決まっており、それをこなしながら周囲の状況を観察してきた。

現実はそんなに緩くはない。高い志を持っている若者でも、いろいろなところを見るような仕事の機会はほとんどない。従って、日本での経験不足も相まって、途上国の色々を理解する基礎がないまま、志にはまってしまうことも多い。初めての国は、いろいろと刺激が多く極めて魅力的に思う人が多い。それまでの人生の経験から、こここそ最も重要なところであると思い込んでいる人を良く見かける。
その場合のもう一つの問題は、自身は熱心にボランティアを行っているのであるが、相手に与える影響は思わぬ結果をもたらしている場合が多い。経験不足や視界が狭いと、自分の志と異なっていることに気がつかないで居る場合がある。その結果は、時間が経つに従って、目指す方向と異なって来てしまう。

いろいろの国の文化に関心を持っていると、その起源が遊牧と農耕でかなり異なることが分かる。また多くの文化は、その自然環境にも影響を受けている。このような基礎を身につけながら経験を積むことが、自分の人生をより豊かにすると思われる。食い気で生きている私は、食べることに関心があり、これによってかなりいろいろな文化の相違を理解している。何かに強い関心を持つことは、重要であると思われる。

若い方々は、ぜひ色々を経験し、自分の人生を豊かに過ごして頂きたい。
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今年の夏の山行

皆様

ご無沙汰しております。今年は暑いですが、何とか元気に暮らしています。
今年の正臣会の夏の行事として、小鹿先生から入笠山の企画が発表されました。

入笠山は、子どものころに過ごした場所から比較的近いところですが、まだ行ったことがありません。学生時代は主に北アルプスなどで、遠征のための雪上訓練や岩登りに特化していたために、入笠山はまだ行っておりませんので楽しみにしております。高山植物も多くみられると聞いています。

期 日:平成30年8月19日(日)
目的地:入笠山 (〒399-0211 長野県諏訪郡富士見町富士見6666-703)
集 合:富士見リゾート 入笠山ゴンドラ山麓駅 10時
※駐車場は無料ですが、ゴンドラ料金が往復で一人1650円がかかります。
http://www.fujimipanorama.com/summer/
当日の日程は詳しく未定ですが15時ころ現地解散を考えています。

参加希望は8月17日(金)までに小鹿まで連絡をください。

ご都合の付く方にお会いできることを楽しみにしております。
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校則の問題と先生の力量 観察や思考の変化

校則の問題と先生の力量 観察や思考の変化  2018.04.25.

スマートフォンの普及・ゲーム機など

数年前にカンボジアから中部空港へ昼頃に戻った。電車に乗ったらほぼ全員が席に座っていたが、ほとんどがスマートフォンを操作していた。その時感じたのは、日本人はゆっくり思考する時間があるのだろうかと言う事であった。思考する時間が少ないことや観察がなされないことは、ある一面に過ぎないが重要な問題を含んでいると思われる。今では、ほとんどの高校生が、スマートフォンを持っている様だ。私の時代には(昭和30年頃)、乗り物に乗るときは良く思考の時間にしていた。通学バスに1時間半ほど乗っていたので、いろいろ考えるには丁度良かった。そのころ「死」について興味を持っていたので、かなり考え込んでいた覚えがある。分からないながらも、哲学の本を読んだりして、繰り返し考えていた。教科書以外の本を買えるほど豊かではなかったし、アルバイトで忙しかったので、わずかな時間に図書館で読んでいた。忙しい方が、真剣に向き合えるように思ったことも覚えている。

最近体調を崩し、10日間ほど入院していた。憎まれっ子世に憚るで、幸い大きな問題はなく、無事退院して散歩などを楽しんでいる。入院中は暇であるから自然といろいろ観察することになる。入院している科の病棟に30人ぐらいの看護師さんが働いていて、よく面倒を見て頂いた。ちょうど新人が入ってきた時期で、先輩に連れられていろいろ研修していた。
その時気になったのが、新人の行動である。明らかにいろいろが見えていない。真剣に取り組んではいるが、いろいろなことが見えていない。
これは最近の先生たちにも言えることで、周囲の物事を認識できていない。また観察眼が、かなり衰えている。このために児童生徒とのコミュニケーションが十分に取れなくなってきていると思われる。
新任の看護師さんに聞いてみたところ、高校生時代からスマートフォンをかなり使っていたようである。先の電車の中での観察でもそうであるが、スマートフォンなどを使っていると、周囲を観察することもないし、思考を練ることもない。これでは物事の認識方法が狭くなり、周囲で必要としていることを認識することはできない。

以前にも書いたが、良いコミュニケーションの基本は観察から始まる。相手を見ながら、状態に合わせて話の内容を決めなければならないし、間も取らなければならない。ところが十分に観察ができないと、自分勝手に話しているだけで、相手には通じないことが多い。

高等学校で茶髪の問題が生じたことがある。学校側は、黒髪を要求し、生徒側は生まれて以来の色であるから、このまま認めよと言う。なぜこのような問題が起こるか、出発点を考えてみよう。制服やソックスの問題も同じであろう。
そもそも校則は何のためにあるのであろうか。確か生徒の服装や行動が、あまり乱れないためにあることは理解できる。しかしその校則を使うのは先生である。先生に説得するだけの力量があると、あまり厳しい校則は必要がない。しかし先生にあまり説得力が無くなると、自然と校則で縛るようになり、不思議な校則が強制される。先生が自分の指導力ではなく、校則に頼るようになるからである。
先生の説得力は、観察力に依存するところが大きい。観察ができて相手がどのような状況にあるのかを理解できると、説得の方法が生まれてくる。もちろん簡単ではなく、時間も労力もかかることはある。またすぐには理解してもらえないこともある。しかしもとになる観察力がないと、論外である。
ではどのように観察力をつければよいのであろうか。多くの若者がその具体的方法を理解できていない。研究を始めたころに経験したことであるが、観察をしたことを記録することから始める。例えば日常の生活の中で、通勤なり食事の時でもよい。起こった物事を忘れないように、毎日記録することから始める。毎日多くの時間は割けないから、5-15分ぐらいでもよい。繰り返しているうちに次第に観察したことを、連続的に思い出せるようになる。こうなると観察の入り口に入ったことなる。500時間ほど観察すると、次の段階に入れるようになる。これはカウンセラーの面接の訓練でも同じで、500時間ぐらいすると、1時間の面接をほぼ正確に再現できるようになる。
観察ができるようになると、その問題点は自然と見えるようになる。しかし生徒などを説得するときに重要なことは、こうすれば良いと思うような浅知恵は、すぐに行動に移したり相手を説得したりしないことである。そのことを相手が自然に気付くまで、気長に待つことである。

 私は、小さい時から八ヶ岳の自然の中に一人で遊びに行き、クマやマムシから身を守るために、周囲を常に注意して育った。従って、状況を観察することは得意であった。また小学校4年生ぐらいからいろいろなアルバイトをしていたので、相手の気持ちを読み、必要な行動に出ることは身についていた。このことは、学生の指導にも途上国での生活にもいろいろと役立った。現在の社会では望むべくもない、恵まれた環境であったと思われる。

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教科としての道徳の問題 

教科としての道徳の問題   20181.04.23.

道徳が教科となり、教科書が検定を済ませて3月27日に発表された。戦前には、修身として国の価値観に従うように定められた。森友問題の中心をなす問題点は、教育勅語を児童に教え込むような学校である。教育勅語は、修身の道徳観の基本をなす思想であった。道徳は、社会を構成するうえで重要な課題ではあるが、教科として教えられるようなものであろうか。いじめ問題と絡んで、道徳教育の重要性を力説する人もいるが、見当違いのように思われる。
現在日本で進められている道徳は、ある戦前の思想を基本とする団体によって押し進められており、新しい教科書を作る会や日本会議などと関係が深い。首相などもこの団体と深い関係があり、森友問題などもその関係で複雑さを見せている。森友関連の幼稚園で、教育勅語が教えられていたこととも関係している。


道徳とは何であろうか。人間だけではなく、社会性を持つ動物には、社会を維持するために
守るべきルールが存在し、これが道徳の起源と考えられる。動物が社会を作る以前は、ルールは存在せず、何をしようと制限はなく個体の生存の責任は個体の責任であった。社会ができると、餌や性の相手をめぐって当然のように争いが起きる。この争いを最小限に抑える方法が、ルールの起源であろう。

では、道徳性はどのように学習されるのであろうか。ヒトにおいての道徳性は、単にルールを守るだけでなく相手を思いやることに重要な意味がある。この相手を思いやる心は、教えることのできるものではなく、乳児期に十分に保護者から愛される必要がある。この経験がないと、言葉や頭では理解できても、行動が伴わない。いじめの中などでは、頭で理解できていても、行動に移れない子どもが多い。
カンボジアに居た頃に書いた、働く子どものブログは、親から愛されて育てられた子どもは、自分から親の手助けをしたがることを示している。貧富の差はほとんどない。この点については、このブログの「カンボジアから金森正臣(2006.01.13.)カンボジアの子ども達 4 小さな時から働く メコンの岸辺にて」を見て頂ければある程度理解頂けると思われる。また、他にも「カンボジアから金森正臣(2005.12.15.)カンボジアの子ども達 子どもの成長1」、「カンボジアから金森正臣(2005.12.17.)カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成」などを見て頂くと、子どもの自己形成の過程がある程度理解頂けると思われる。

上に述べたようなことを考えると、道徳を教科として教えても実行ができるかは大いに疑問になる。

道徳性はヒトになる以前から、社会性を持った動物に普遍的にみられる行動様式である。

途上国における道徳には、かなり高い倫理観がある
アフリカでの調査中に、人里離れた原野の中で、1人で生活している山姥のようなおばさんに会ったことがある。連れていた現地の数人の案内人に、シャーマンかと聞いてみたところ、多分夫婦げんかをして家出して来たのだろうとさして気にかけていなかった。彼女は、倒木の燃えている近くで生活しており、かなり貧しいことは明らかであった。アフリカの乾燥地の乾季には、倒れた木が10日ぐらいは燃え続けている。ある日の夕方彼女がテントを訪ねてきて、塩をくれと言う。何も持っていなかったので、コンビーフの空き缶に塩を入れて渡した。次の日の夕方、彼女はコンビーフの空き缶を返しにテントを訪れた。私にしてみれば、缶詰の空き缶は捨てるしかなく何の価値もない。しかし何も持っていない彼女にしてみれば、便利で大切な財産に見えたのであろう。
また各地でキャンプをしていても、スリッパや簡単な道具などを取られたことはない。貨幣経済に巻き込まれている場所は別であるが、チンパンジーのいるような奥地に入ると、盗難の心配はほとんどない。彼らは、学校も遠く通ったことなどないと思われる。学校などで教えなくても、十分に道徳的である。

それではなぜ先進国で道徳観が薄れたのであろうか。多分、個人主義と経済主義に振り回されて、共に生きるという社会の基本価値観が薄れてきたからであろう。またマスコミの価値観は、見た眼を中心とした価値観になり、人格の内容に及ぶことは少ない。親の道徳観が薄れると、子どもの道徳も希薄になる。そのような社会において、学校で道徳を教えても、知識は増えるが、行動規範にまで及ぶことは少ないであろう。このような点を文部科学省などは理解できていないために、基本政策が誤っていると思われる。
自己形成が十分にできていない人が集まると、道徳観が薄れるのは当然であろう。
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いじめの問題 7  自己肯定感の追加

いじめの問題 7  自己肯定感の追加    2018.04.10.

自己肯定感の成長は、幼少期の親との関係だけで形成されるわけではない。他の重要な要素として、自分の中の遺伝子が持っている能力を十分に発現させる必要がある。

ヒトは、社会が複雑になったために、遺伝子上の情報だけでは社会に適応できない。遺伝子上にあるきっかけを使いながら、様々なことを学習して行く。例えば、男女間の関係も社会の中で複雑になっており、ゆっくりと成長しながら学習してそれぞれの社会に合った方法を学んでゆく。そのために性ホルモンの発現も、小学校中学年から始まり、22歳ごろまで順次増加して行く。他の動物では、性ホルモンの増加はもっと短時間に起こり、それで十分に間に合う社会である。

身体能力にしても、近縁の動物に比べ長時間をかけて獲得して行く。これは直立2足歩行という大きな変化を含んでいるためもあるが、指や腕の使い方が複雑で、成長につれて学習する様々な段階がある。

社会性の獲得についても、幼児時代、子ども時代、青年期などと分けられているように、それぞれに異なった課題がある。親以外と関係を持ち始める幼児期には、それなりの課題があり、親だけで育てられるものではない。子ども時代、青年期なども同様で、親が全てを育てられるわけではない。学校も同じである。教えれば何でも学習すると考えるのは無理がある。

自分の能力の中でも、観察力や相手の状態を読む力は、それぞれの時代に様々な人と接触ることによって獲得するものである。現在のように、子どもたちに自由がなく、常にだれかから管理されている状態では、生きる力になる観察力などは育たない。自分自身を振り返ってみても、自然の中に一人で出ることによって養われた観察力は、いつまでも使える。マムシやクマに出会う恐ろしさは、自然と観察力を養ってくれた。音、気配、臭いなどあらゆるものを動員して自分を守ることが、生きるために必要な力になる。相手の観察にしても、貧しかったので、新聞配達、炭焼きや木こり、土方の手伝いなどあらゆる場面で相手の必要とすることを見極めることが、次の仕事を得るための重要な要素となる。このことは外国に行くようになって、様々な国で言葉も通用しないまま仕事をするときに大きな助けとなった。

自分の能力を育てることが、自分の肯定感に大きく関係している。前回報告した国立青少年教育機構が調査した結果の評価として、他人の目や評価を気にする結果、自己肯定感が低くなっているのではないかとする考え方は、ものの見方としてはいささか浅いように思われる。日本の教育では、動物の社会などとの比較はほとんどなされない。しかしヒトは、動物の進化の上に乗っており、それることはできない。もっと広い視野でものを見る必要があるように思われる。
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いじめの問題 6  自己肯定感 

いじめの問題 6  自己肯定感    2018.04.04.

NHKの4月3日のニュースで、国立青少年教育機構が調査した高校生の自己肯定感に関する、アメリカ、中国、韓国との比較結果を報じていた。自分は価値のある人間だと答えた割合は、日本では44.9%であり、ほかの3国が80%以上と比較して著しく低い結果であった。

さてこの結果に関する評価が、国立青少年教育振興機構は「集団生活の体験が減って、他人の評価を気にする若者が多くなっていることが原因ではないか」としている。

この問題の原因の追究が、見当はずれのように思われる。前回のいじめの問題5で報告したように、自己肯定感は幼少期の親との関係にかかわることが多い。国立青少年教育機構のような専門機関が、このように見当はずれの視点では、国の教育行政は当てにならない。文部科学省も当然ながら、いじめ問題に関する根本を探ろうとしない姿勢は明らかである。

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前川喜平氏の講演問題 校長先生の対応に賛辞

前川喜平氏の講演問題 校長先生の対応に賛辞     2018.03.20.

前文部事務次官の前川喜平氏を、名古屋の八王子中学校が講師として呼んだ問題で、文部科学省から様々な質問が入ったと新聞やテレビで報道があった。上井靖校長先生や市の教育委員会の対応は、見事であった。

この問題にはいくつかの側面がある。名古屋市長が、意見したように文部科学省の目的は、前川氏に自由に話されたら困る問題を抱えているからであろう。加計学園の獣医学部は進行しているが、いまだに大学の承認過程に問題が残り神経質になっていることが伺える。また現在国会で論争になっている、森友問題も関係しているように思われる。森友問題は、表面の問題点とは別に、「教育勅語」を良とする戦前教育に復帰しようとする勢力が、糸を引いている。籠池さんなどはその被害者に近い。日本会議などをバックとする勢力におだてられて、教育勅語などを復活させる学校を計画し、あるところまで進んだところで野党に暴露されて、梯子を外されたと見ることもできる。これは現在財務省の問題になっているが、与党勢力に忖度した行政・官僚機構の問題である。前川氏の問題でも、自民党の文部科学部会に属する議員から、文部科学省に問い合わせがあったという。政権与党としてはなりふりかまわぬ、ごり押しであろう。

もとをただせば、政権が力を持つ政府内に、各省庁の上級官僚の人事権を置いたことに始まる。このために生き残りをかけて官僚は、政府の意向に従わなくてはならなくなる。これが忖度の本質である。

私は、終戦後の次の年に小学校に上がった。教科書がなく、戦前の教科書の不都合な部分は墨を塗って使っていた。田舎の小学校で教科書が配布され始めたのは、3年生ぐらいからで、それも十分にはなく、くじ引きで配布していた。先生も代用教員が多く、小・中学校で18名ぐらいいた先生のうち、正規の教員は校長先生を含めて3-4名で、高校を卒業したばかりの先生もいた。大学に進学してから、先生の養成が戦前の師範学校から大学に移った理由も理解できた。時の政権や各省庁によって、教育が曲げられないようにする仕組みも戦後のものである。これは戦争に向かわないための重要な仕組みである。

今回の名古屋市の中学校の件は、この問題と深く思い起こさせる。名古屋市の教育委員会や校長先生の対応は、私が大学で受けた「教育の自立」を体現するもので、教育が健全であることを実感するものであった。
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いじめの問題 5  児童虐待の問題

いじめの問題 5  児童虐待の問題      2018.03.20.

学校における「いじめ」については、先生方が多くの労力をかけているのに、なかなか解決しない問題である。その背景には、あまり理解されていない幾つかの問題がある。それらの問題を理解したからと言って、すぐに問題点が改善できるわけではないが、精神的疲労感はかなり軽減されるように思われる。

最近全国の警察が、昨年一年間に児童相談所に通告した虐待を受けた子どもたちが、65,000人以上であったことが報道された。13年連続で増加しており、初めて6万人を突破したと言う。この件数は、警察が把握していた件数で、氷山の一角に過ぎない。

虐待にもいろいろの段階があり、日常の生活の中でも見かけることは多い。例えばスーパーなどで買い物していても、関係の良い親子と関係の悪い親子はすぐに気が付く。中には親が自分の意志の通りに従うまで、関係が持てない親もいる。これも一種の虐待の始まりで、子どもはおびえながら行動している。あるいは𠮟つけて従わせる親もおり、より強い方向に向いていると思われる。しかしこの段階程度では、警察の扱う範囲には入ってこないために、通報されている数百倍程度は存在するように思われる。
このように警察に通報されない程度であっても、子どもは人間関係が難しくなり、親からいじめられているようにしか友達と付き合う手段を持てない場合も多い。

虐待を受けていると、人間関係を築くのが難しい。親との最初の出会いがうまく行かず、その後の人生で相手を信用できない状況に陥っている。また、親との関係がうまく行かない子どもは、自分への肯定感が薄く、常に外部からの評価に左右されやすい。周囲から認められるために、目立ちやすい行動に出る場合もある。

虐待する親は、自分の成長期に虐待を受けていることが多く、なかなか他のモデルがもてない。従って、抜け出すことが難しい。頭では理解していても、行動レベルでは相手を刺激する行動が出てしまう。

ストレスが多くなると、虐待が起こる可能性が高い。親が社会的ストレスを感じていると、そのはけ口が弱い立場の子どもに向かう場合も多い。人間関係が上手に持てない子どもは、先生から注意されても改善はなかなか難しい。まして相手を思いやるようになるには、人から愛された経験が重要になる。

しかし現在の状況が悪いからと言って、その人の人生がずっと悪いかと言えば、決してそうではない。菊池寛の「恩讐の彼方に」、明恵上人の襲い掛かった人を弟子にした話、親鸞聖人の襲撃者を弟子にした話など、人はいつどのように変わるか分からない存在で、今悪いからと言って生涯悪いままとは決まっていない。

さて子どもたちにはどの様に接したら良いのであろうか。簡単な解決方法はない。しかしながら、自分がどのような気持ちで子どもたちに接しているかを、常にチェックすることはかなり重要なことである。これには二つの側面がある。一つは自分自身の成長であり、自分の人生をよりよくするために必要不可欠な方法である。自分が子どもと接しているときに、何を考えているかは、自分の特性をよく表しているからである。他の一つは、自分を成長させながらいると、不思議と子どもたちへの圧迫が少なくなり、相手の理解が進みだす。私の経験したところでは、自分を見つめていると学生も反発しながらもどこかに接点ができてくる。また自分がどのような状況にあるかを常に見ていると、かける言葉が自然とかなり制限される。今話しても通じない、無理があるなどと考える場合も多い。しかしながら不思議なもので、必要なことはまた機会が巡ってくる。

自分を見つめ直すには、かなり難しい問題がある。自分一人では、ほとんど進まない点である。私は偶然の機会に「内観」を経験することができ、自分を見つめ直すきっかけになった。同じころ夢分析も行っており、相乗効果もあった。しかしながら最終的には、仏教の修行によって、その奥深さに悪戦苦闘している。その他にもいろいろな方法はあるであろう。自己分析やカウンセリングなど、自分に合った方法を探す必要がある。すぐに自分に適した方法が見つかるわけではないが、常に心掛けてアンテナを張っていると、いつか自分の方法が目の前に現れる。これは人生をよりよく生きるために重要な方法である。

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第15回の正臣会の御礼

皆様 2018.02.01.
第15回になりました正臣会、ありがとうございました。
皆様の発表を聞きながら、成長された姿に感激しておりました。

発表の中で、理科の指導要領の変化の年を追った話の中で、解剖についてのことがありました。現在ではほとんど行われなくなり、反対者も多いようです。
反対の意見の中で、説明しても納得できない人がいることが話題になりました。動物の命を大切に思うと、させるべきでは無いという意見です。

これに関して、無意識の理解からすれば、簡単には説得はできないことを説明しました。反対される方の意見は最もなところもありますが、無意識の世界から見る必要もありそうです。人々の日常では、無意識の世界を知ることはできません。命を大切に思っていることを周囲に伝えて、自分の立場を自分で認めることに重点が置かれている場合があります。自分の無意識の中で攻撃性が高い場合に、自分では気が付いていませんが、子どもたちに鋭く当たり気になっている場合があります。このような場合には、無意識の中で攻撃性をカバーするように、やさしさを強調する行動に出る場合があります。自分の無意識の中でバランスを取り、自分で安定を求めているのです。このような場合には、理屈では説得は困難になります。このような状況に如何に対処するかは、簡単ではありません。自分の心の中のこだわりが少なくなると、自然の状況が分かるようになります。心の中のこだわりを少なくすることはその場の対処法でありますが、同時に自分の人生をよりよくするための重要な方法です。また子どもたちの指導においても、自分のこだわりを少なくすることが重要になります。最終的には教育は人格によるところが大であると思われます。
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正臣会開催のお知らせ

直前になりましたが、会の開催を載せます。

人生も終わりに近くなりましたので私は、人生を振り返りながら「生死」の問題をお話ししたいと思っております。

 多くの方にご参加いただけますようお願いいたします。

 日時:平成30年1月28日(日)の13:00~
 場所:安城市民交流センター
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いじめの問題 4 言葉の可能性と壁

いじめの問題 4 言葉の可能性と壁    2018.01.23.

教育は、一般的に言葉で行われる。またいろいろな報告も言葉で行う。しかし言葉は、様々な問題を含んでいることを理解しておかなければならない。

 言葉で表されたものは、各個人の経験によって理解がかなり異なっている。特に経験に基づく言葉は、各人の経験の差によって異なる場合が普通である。心理学者のユングは、「同じ経験をしたものでなければ、同じ言葉として理解されない」という意味のことを書いている。このことは重要な意味を持ち、相手がうなずいて聞いていても、必ずしも話している人と同じ意味に受け取られていないことを意味する。この点を十分に意識して話していないと、齟齬が生じることになる。
 人は話していることに執着することが多く、自分の話したことを守られないと怒りが生じる場合がある。相手に理解されると思っていると、行動が予想外の時に怒りを生じやすい。特にいじめ問題などは、抽象的表現になり、いじめられている本人の体験的感覚とはずれることが多い。

幾つかの例を考えてみよう。
熱いという経験を皆さんはどの程度しているであろうか。以前に不登校の子どもの野外キャンプをしていた時に、子どもたちが真っ赤に焼けた熱い炭に触ったことがなかったことに驚いた。「熱いよ」といっても経験がない子どもは理解できず触ってやけどをする。急いで冷やして、ようやく熱い意味が理解できる。現在の便利な社会では、炭を使うことなどほとんどないであろう。また火傷によって、その後も数日痛いことが経験され、以降自然に自分から注意するようになった。このような経験をすると、やかんの熱いのも鍋の熱いのも理解できるようになる。
痛いのも同じで、痛い経験がないと痛さは理解できない。転んでひざを擦りむき痛かった場合と金槌で指をたたいて痛い場合では、かなり趣が違う。また切り傷の痛さも異なる。これらのことは経験して初めて理解されることで、経験なしには理解することは難しい。
美味い不味いなど味に関する経験もしかりである。テレビでよく見かける食のレポートも、レポーターの食の経験の浅さが目立つ。いかにも美味いように見せかける演技だけが目立ち、本来の味の探求は伝わらない。味の良し悪しは、本人の体のコンデションによるところが大きい。多くの食レポが、素材の良さなどを褒めちぎるが、本来の食材の味はいかがなものであろうか。幾日も食べないでいて、最初にありつく食は、それが重湯のような単純なものであっても、体にしみわたる食としての感じは、いかなるものにも勝る美味しさがある。戦後の食糧の無い時代に育った我々は、このような経験がありそれが食の原点であることは容易に理解できる。原点を理解できずに、いろいろと末葉なことに走るのは、現代の風潮であろうか。このことは人生についても言えるように思われる。食の経験が浅いと、求めるものも自然と変な方向に行く。人生も原点を常に考えないと、思わぬ脇道にそれている。
いじめに関する話でも、いじめている子どもに相手の気持ちを考えさせようとしても、悲しい経験をしたことがない子どもは、相手の悲しさが理解できない。先生が説得しようとしても、出発点の経験がなければ、相手の立場に立つことも難しい。これには親子の関係が深くかかわっていて、十分な信頼関係ができていないと難しい。いじめる子どももいじめられる子どもも、親子の関係に問題を持つことが多い。誰でも何らかの問題を持つのは普通なことであるが、問題を持つ時期や内容によっては、いじめ問題に関係する。何らかのこだわりが強い人は、自分のこだわりのために子どもの状況を見誤ることが多い。特に言葉以外のサインを見落としていることがある。

言葉の壁にどのように対処するか
言葉の壁を乗り越えるのに最初に必要なことは、自分のこだわりを少なくして相手の状況を理解することから始まる。自分のこだわりを少なくするのはなかなか困難な作業で、時間も労力もかかる。その上方法も明らかではない。
私の場合を考えてみても、なかなか一般化はできない。しかしながら参考のために述べておくと、最初は臨床心理学的方法で自分の無意識に近づいた。その後「内観」などにより、さらに探求することができた。さらに仏教の修行法に出会うことができ、ようやく自分での方法が確立した。最初の心理学的方法は、無意識の心理学のユングの夢分析で、3-4年の間に750ぐらいの夢の分析をした。友人に専門家がいたことによって、することが可能であった。並行して「内観」を行っていたので、進み方も早くなったように思われる。夢分析の5年目ぐらいには、夢を見ている中で自然に自分の分析が行われるので終わりにした。その後内観を指導を頂いていた創設者の吉本伊信師が亡くなられ、次の指導者として推薦頂いていた現在の老師に出会うことができた。
私の経験からすると、最初にお会いした時には吉本師や現在の老師がどのような方であるかは、ほとんど理解することができていなかった。2-3年して初めてその得難さに驚いているくらいである。自分のレベルと異なるとほとんど理解できないものである。
自分の内面に迫る方法は、各自の個性によっても異なると思われる。しかし重要なことは、常に自分の内面を見つめようとすることとアンテナを張って機会をとらえようとすることであろう。
このような努力をして何が得られるかも報告しておこう。それまで躁鬱的傾向にあり、鬱の時には自殺を考えるほど苦労したいたいろいろな仕事が、自然に順調に進むようになって、自分でも意外であった。また学生の指導も非常に楽になり、自然にだいたい良い結果が得られるようになり、これも驚きであった。学生さんは苦労した人も多かったかもしれないが。
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じめの問題 3. 切れやすい子ども

じめの問題 3.   2017.12.05.

切れやすい子ども
 前回、親子の関係からいじめに対する耐性の成長を考えた。
 親子の関係にストレスがかかる状態であると、子どもにとってはまた異なる側面を考えなくてはならない。ストレスにさらされていると、副腎皮質ホルモンが出やすくなるために、かなり攻撃的傾向が出てくる。自分でも抑えがたい攻撃性が内部にあり、些細なことでも正常な行動よりも攻撃的行動が出易い。
 このような子どもは、対人関係がうまく行かず、さらにストレスに晒されることになる。親子関係で満足な状況が得られないと、こだわりが強くなり他人との協調が難しい。さらに親の状況も、こだわりを持っていることが多く、子どものこだわりを増幅させる。自分の思うように行かないと、すぐに感情的になり切れることになる。親の状況を考えてみると、こだわりが大きいために、成長の過程で吸収してくるあるいは学んでくるものが少ない。すなわち価値観が狭い場合が多く、自分の価値観以外は、受け入れられない状況にある。
 最近私はあまり出かけないが、スーパーには買い物に行く。子どもを連れた親を見ていると、その関係性からいろいろなことが見えてくる。親が子どもに自分の意見に従わせようとしている親は、子どももストレスを感じて抵抗することが多い。親は時間の都合もあるのだろうが、子どもに無理やり意見を押し付けるから、子どもも抵抗する。そうしないと自分の存在が、見つけられないからであろう。もちろん小さな子どもが、自分の存在を意識しているわけではないが、無意識に抵抗が出る。これは自殺などの場所が、本人の無意識の要求と関係していることなどと共通している、人間の基本的行動である。

 勤めていた頃に、いじめグループの実態について調べたことがある。グループ以外に友達がいない場合が多いが、他に良い友達を持っている場合もある。その場合でも、ストレスを多く抱えていると思われる子どもは、なかなかグループから抜け出すことは難しい。成人した暴走族に聞いたこともある。良い友達の集まりは、良い関係であることは分かっていても、ストレスによる不安は、強い刺激を求めてグループに居続ける。良い友達の関係では、ストレスが迫って来て、より強い刺激の中に身を置かないと時間が過ごせなくなるようである。
いじめていても、いつ自分がいじめられる立場になるか分からない状況を理解していてもなかなか抜けられないという。この様な現象は、食事の流行にも表れるように思われる。非常に辛いメニューが人気になったり、テレビで持て囃されたりしているが、これなども一種のストレスからの逃避のように見える。私は現在あまり辛い物を食べないが、以前には辛い物は平気であった。貧しい国々では、沢山のおかずが得られないので、辛いもので食事をすることが多い。エチオピアのテフで作るインジェラ(パンケーキ)に、ほとんどトウガラシの粉だけを練ったものを付けて食べる。最初に韓国を訪れた1970年代の終わりには、国防費が37%で国民は貧しく、麦飯に青唐辛子にコチジャン(唐辛子味噌)を付けて食べたり、みそ汁の具が青唐辛子で味噌とコチジャンで味付けしてかけて食べたりした。しかし皆さん、美味しいご馳走がある現在はそちらを選んでいる。これらは刺激を求めて辛い物を食べる状況とは異なる状態である。豊富な食材が有るにもかかわらず、辛い物に刺激を求めるのは、無意識の心理学からすればストレスからの逃避のように思われる。

 いじめ問題は、このように自分自身の中にあるストレスが大きく関係していると思われる。その中で先生達はどのように対処したらよいのであろうか。簡単な問題ではない。第一にはいじめる子どもたちへの理解である。言葉では簡単だが、実行するのは大変難しい。様々な意見が有ろうし、異なる側面もあろう。しかし一つの意見として示しておくことは必要に思われる。
 現在の教育界を見ていると、すぐに技術に走る傾向にある。ノウハウを学んで解決しようとする。うまく対応できたように見えるが、時間が経つとほころびが出る。教育は、最終的には人格の問題である。自分自身の人格を常に努力して高めないと、子どもたちの人格も成長しない。子どもたちを成長させるには、自分自身がそのモデルになる必要がある。外から見えなくても、常に努力していると、子どもたちの見え方が異なってくる。このことが子どもたちに安心を与え、次第に成長する結果となる。
自分の成長のために何を行うのかが大きな問題である。勉強への努力やスポーツなどに努力すると、人格が成長するように思うのは錯覚である。私が経験してきた限りでは、勉学やスポーツでの努力は、人格の形成とは異なる。もちろんその努力の中で自分の内面に気がつき努力した人はおり、その結果として人格を高めてきた人はいる。しかしその努力は、勉学の努力やスポーツの努力とはやや異なった部分である。知識は人格とあまり関係ないし、技術も同じように思われる。
自分の内面を見つめていると、不思議と相手の内面に寄り添うことができる。明確な回答が得られるわけではないが、相手が自然に自分の考え方を決めて行けるようになる。このことが相手の成長であろうと思われる。
 障害児教育は教育の原点であると言われている。しかしその理由を正確に聞いたことはほとんどない。ユングは、大人はみな社会に対するペルソナ(仮面劇の仮面)を持っていると言っている。一人でいる時と複数でいる時には、その行動が異なる。複数でいる時には、その関係性の中で、自分の本心ではなく相手に対する自分を作って、ペルソナを付けている。先生は生徒に対して先生のペルソナ、親は子どもに対して親のペルソナを付けている。障碍者の中には、このペルソナを持たない人たちがいる。例えば複数でいる時にテーブル上に饅頭などが有ると、健常者はすぐには手を出さない。しかし障碍者の中にはすぐに饅頭を取る行動を起こす者がいる。それを見た時に、健常者は何を考えるであろうか。その行動が気にかかり、直すにはどうしたら良いであろうかと考えたりしないであろうか。これはこの行動に対する自分の感情を直視しない、問題を外に置く方法である。なぜ自分が気になるかを追求すると、自分の内部における無意識の検討に向かう。これがなかなか難しく、多くの場合
は外側の問題として捉えてしまう。自分の内面に向かうと、自分の中にも同じ要求がることに気がつき、その浅ましさを認識することになる。そのことによって自分と障害者と何ら異なることが無いことが認識できる。このことによって相手にかける言葉が、自然と変化してくる。
この様に、問題を持った子どもに対して、理解が進むと対応が変わってきて、相手も自然に変化が起こるようになる。

これは一つの例であって、様々な考え方があると思うが、検討してみてはいかがであろうか。
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いじめの問題 2.いじめに対する子どもの耐性

いじめの問題 2. 2017.12.03.

いじめに対する子どもの耐性
子どものいじめに対する耐性にも問題が起き始めている。このことがいじめによる自殺を多くしていると考えられる。もちろんいじめる子どもを擁護する気持ちはないが、いじめに対する耐性も成長の過程で長い時間をかけて次第に獲得するものである。なぜならば、いじめは社会性のある動物の世界では普通に存在するものであり、このことが社会の秩序を保つのに重要な役割を持っていると思われるからである。サルの子どもたちでも、途上国の子どもたちでも、子どもの社会においていじめは存在し、そのことに対する対処法を子どもたちは成長の過程で手に入れてゆく。これが将来の社会への適応の基礎となっていると思われる。

いじめに対する耐性で重要なことは、人間関係における信頼である。その中でも最も基本的で重要なのは、親との関係である。出生して間もなくの間に、人間関係の基本ができるであろうことを予想させる本がある。1993年に発表された、正高信夫さんの「0歳児が言葉を獲得するとき」(中公新書)である。この中で、特に母親の授乳時のことから、子どもと親の関係は生後8週間ぐらいまでに基本的なことが完成されることが示唆されている。これは子どもが、この世界で初めてかかわる人間関係で、その後の人生の基礎となると考えられる。この最初の段階で、相手に対する信頼が得られないと、対人関係が難しくなることが推測される。正高さんの調査の時点で、既に相当数の母親が子どもとの関係が正常に作れなくなっていることが示されている。それは授乳時に母親が、テレビを見たり、次の仕事に気を取られたりして、子どもに十分に向き合っていない場合である。その時代からすると既に25年ほどが経っており、スマートホンなどの仕様頻度が上がり、現在はもっと多くの子どもが、親との良好な関係が出来なくなっているように思われる。
いじめに対する耐性では、授乳時以降の親と子どもの関係も重要な要素になる。以前に10年間ぐらい、不登校のこどもたちの野外塾をしていたことがある。多くの子どもは、学校などのいじめをきっかけとして不登校になっている。私の塾は、保護者と子どもと一緒に来ていただき、月に2回ほど野外で1晩のキャンプをする。ただし親御さんが子どもに注意することは、一切禁止である。最初の内親御さんは、子どもの不登校はいじめによることに原因があると思っている。しかし子どもが自由に遊び、次第に自分の意思が出てくると意外なことに気が付く。親が子どもの意思をほとんど無視してきたことである。ある親は、2年ほどしたときに、子どもの同じクラスにもっといじめられていた子がいたことに気が付き、その子が不登校にならずに過ごしていたことを調べていた。そして不登校と登校を続けた子どもの差は、親に話せたかどうかの差であると気が付いた。親にいじめを相談出来た子どもは、いじめられていても登校を続けていたのである。
ここでも親との絆の強さが、いじめに対する耐性に大きくかかわっていることが想像される。親がこの様に子どもとの関係に気がつくと、子どもも次第に自由になり、自分で物事を決められるようになる。こうなると不登校は終了で、自分の道を歩き出す。

自殺にはいろいろのメッセージが隠されている。いじめによって自殺する子どもたちの状況を分析すると、多くはその自殺の場所によってある程度の原因を推測することができる。
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いじめの問題 1

いじめの問題 1.    2017.12.01.

さいしょに
いじめの問題は複雑で、様々な要因が絡み合っている。しかし実際に議論されるときには、多くの要因が抜け落ちているように思われる。話が複雑になると、難解で対処が難しくなることが考えられる。以前に臨床心理学を学んでいた頃に、無意識の心理学に興味を持ち、ユングとフロイトに出会った。当時、フロイトは広く知られていたが、ユングは難解で敬遠されている傾向にあった。しかし、人間の精神状態は複雑で、ユン後の方が難解ではあるが本質に近づけると思ったことが思い出される。フロイトは、分析の方法を単純化して示して分かりやすくした功績は大きい。しかし人間の本質に近づくのは難しいように感じた。
いじめの問題も同じで、何かの主要因を見つけて、単純化すると皆さんで共通の認識が生まれて、話しやすく理解されやすい。しかし実際の子どもたちの問題に立ち返ると、これでは問題の解決には至らない。
カンボジアから帰国してから、何回かいじめの問題について書き始めてみたが、なかなかまとまるところに行かなかった。そのため毎回延び延びになっていた。最近体力も落ち、気力もなくなってきたので、出来るところから少しずつ書いておこうと思った次第である。一気に書き上げないと、全体像として落ちが有ったり、不整合が有ったりするが、これはもう年のせいで仕方がないのであろうとあきらめた。多少なりとも、皆さんの議論の参考になれば幸いである。


新聞でいじめの問題が大きく取り上げられている。昨年度のいじめの件数が大幅に増えたことによるらしい。文部科学省の10月26日の発表によると、2016年度の「いじめ」の把握件数は323,808件で、前年よりも約10万件増加しているという。

いじめの問題は、教育の中で起こったことではあるが、起源はもっと他のところにあることはあまり議論されることが無い。

私は、約40年前に長野県の山の中から大阪の町中に引っ越した。その時感じたのは、やがて子どもたちに異常が起きるであろうと言う事であった。近鉄阿倍野駅から3つ目の駅の近くに住んでいた。町は下町で生活し易かった。しかしながら、自然はほとんどなく、子どもたちの遊び場は公園ぐらいで、ほとんど無いに等しかった。この様な環境で育つ子どもたちがどの様になるかは、先が見通せないと感じた。
子ども同士が遊ぶことによって形成される社会の基本が、ほとんど見られない状態であった。また自然に接することによって形成される、理不尽に対する耐性がほとんど養われないであろうと感じた。それでも当時の親たちは、ある程度自然に接したことがあり、その点を子どもたちに伝えるであろうと思われた。しかしこの大阪の街の環境でほとんど自然に接することが無く、また子ども同士が形成する社会もない中で育った者たちが親になった時には、何かの異常が起こるであろうと思われた。

そのころ私は、クマネズミの社会の実験をしており、6畳ほどの部屋で4組のペアから自由に繁殖した場合にどのような状態になるのかを3年ほど観察していた。最初順調に個体数は増えていった。1年ぐらいすると個体数はピークに達し、やがて個体群の崩壊が起こり始め、ほとんど子どもが増えなくなり、減少に転じ2組のカップルだけになった。増加期には無かった噛み傷が減少期には著しく増加し、闘争によって死に至っていることは明らかであった。それ以前に研究していた野生のネズミでも、密度が高くなると副腎が肥大し、アドレナリンの分泌が盛んになり闘争が増えることが想定された。

現在の日本の状況は、多くの人々が様々なストレスを感じ、非常に闘争的になっているように思われる。
親による子どもへの虐待死の報道は珍しいことでは無くなった。これは亡くなった子どもの親だけが特別な存在ではなく、子どもにやさしい親まで連続的に変化していると考えるのが良いであろう。とすると虐待死に至る親から近い所にいる親も多数いるはずである。身体的な虐待まで行かなくても、精神的虐待は街に出てみると何時でも見かけられる。スーパーなどで買い物をしていている子ども連れをみても、しばしば精神的虐待を受けているのを見ることがある。子どもはいつもイライラし、親もイライラして関係性に苦労している。この様に育てられた子どもは、小学校に入学してもその状況が改善されるわけではない。友達と生活していても、何時ストレスが爆発に至るかは本人もコントロールができないであろう。授業の中で言葉を持って教えても、自制できるようになるとは思われない。教育関係者は、言葉であるいは身近な簡単な事例で教えれば子どもは自制が出来るようになると錯覚しているように思われる。

現代の社会におけるストレスは、戦後の混乱期とは異なる段階にある。私は研究を始めた頃に、野外のネズミの個体数の変化の調査をしていた。そのころアメリカのクリスチャン女史が、ドブネズミ(家ネズミ)を使って、密度が高くなると副腎が肥大してアドレナリンが増え、闘争的になるとし、その現象を社会的ストレスと呼んだ。

社会性の発達は、親が子どもに教えることのできる部分と子ども同士でなければ得られない部分が存在する。例えば,喧嘩をした後の仲直りは、親が子どもに教えることは出来ない。子ども同士で喧嘩をして、方法を探りながら自分の中に獲得していかなくてはならない。大人からのアドバイスは多少の役には立つかもしれないが、中心は自分で獲得するものである。これは動物の成長に於いても同じであって、親が教えるものではない。現在の社会の様に、子どもだけで遊ぶ機会が少なく、喧嘩をすると親や先生にすぐ止められる状況では、「喧嘩後の仲直り」を獲得することは難しい。そのため他人と争うことが怖くなりできないので、ますますストレスが溜まる。チンパンジーの社会を研究していたフランズ・ドウ・バール(Frans B. M. de Waal)は、「仲直り戦術」(西田利貞・榎本知郎訳 どうぶつ社)を書いている。この中でチンパンジーの社会が大きくなれたのは、競争性を持ち喧嘩をしながらも仲直りをする方法を手に入れたことによると、述べている。進化の過程で多分人間も同じように、喧嘩をしても仲直りをする方法を手に入れたために、大きな社会に発展したのであろう。子どもが成長の過程で、仲直りをする方法を得られなかったら、ストレスを大きく抱えながら一生生きなければならないであろう。この様な状態が現在の親たちに起こっているのではなかろうか。この親のストレスが、子どもに影響を持たないはずがない。
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