カンボジアの大学の正月の飾り

カンボジアの大学の正月の飾り            2007.12.30. 金森正臣

 カンボジアでは、大学でも入り口の正面に正月の飾りをする。時期は西洋式の1月1日ではなく、タイなどと同じく4月。これは2007年4月15日に撮影したもの。左右対称な飾りは、アンコールワット時代からの伝統の様に思われる。スイカやバナナが飾られるのがカンボジアを象徴している。

 この大学は私立大学で、校舎はビルが二つ。街の中心部にあり、学生数は多いが、グランドも講堂も無い。卒業式や入学式は、私の勤めている所のホールを借りてしている。それが一般的で、うちのホールは、年間10回以上の卒業式に貸し出しており、結構大学の運営費に貢献している。この大学には、図書館が有り他の私立大学に比べればましな方。教室だけしかない大学もある。カンボジアは、学校の設置基準の様な法律は無く、私立は各自勝手に設置して(設置には、それなりのところにそれなりの金は払って許可が下りる)、学生を集めているので、後は宣伝だけ。授業内容もまちまち。最近は、単位さえ揃えば、短期間で卒業できる大学もあると聞く。なかなか学生に力はつかない。

 先日もカンボジアにおける日本の教育に関係するNGOの集まりで(大使館とJICAが参加している)、小中学校の校舎の基準をどのようにするか、議論がなされた。日本人の感覚では、それなりの基準を維持したいと思う。しかしカンボジアの事情は、教室数が足りなく、特に田舎ではとにかく作ってくれるなら何でもOKと言ったところ。何処に作るかもきちんとした論理は無く、生徒数や通う距離などはあまり配慮されていない。最も住民が流動的で、道路が新しく出来ると、何処からか流れてきて村が出来て行くので、なかなか計画的には出来ない事情もある。人口密度は、日本の半分の面積に1300万人だから、ざっと5分の1。さらにプノンペンに100万人以上が住むから、地方は人口密度は低い。

 大学の正月飾りを見ながら、いつになったら役に立つ教育が行われる様になるのだろかと、やや暗い気持ちになることもある。しかし自分のすることは、今の自分に出来ることしか無い。焦らず、急がず。まあ来年も気力が有ったら、続けますか。
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ご無沙汰いたしました

ご無沙汰いたしました          2007.12.30. 金森正臣

 しばらくご無沙汰いたしました。カンボジアに居ると、気温が30度を越しており、いつも花が咲いているので、少しも師走と言う気分にはならないのですが、なぜか忙しくなりバタバタと過ごしました。昨日朝、日本に帰り2週間ほど滞在する予定です。帰りにバンコクの病院に寄り、足の状態をチェックしてきました。レントゲンで見る限り、かなり治っており、ビハビリに入る段階になりました。日本は寒いので、カンボジアに戻ってから、本格リハビリです。骨をつないでいるステンレスは、2年ほど後に取り出すことになりそうです。

 怪我をしてから、6か月が過ぎ、年を取ると治るのが遅いことを実感しています。30年ぐらい前に左足の巨骨(踵の骨)を傷めた時は、ギブスがもっと短かったように思います。体力も落ちていた様です。最近になって、体力が出てきて、疲れなくなり、様々な事をしたくなって来ています。やはり運動が出来なくなると、食欲や体力が落ちることを実感しました。

 この1年間、いろいろと新しい経験をして、貴重な年でした。様々な方にお世話になり、支えて頂きました。とても良い経験の1年でした。有難うございました。

 気が付くと来年は、カンボジアに関わり始めて10年目です。まだ予定通りとは行きませんが、最初の調査の時のイメージ通りに進んでいるのにビックリしています。まだ2年ほど関わり、現在日本の修士課程に送り出しているメンバーが帰って来て、勤め先にうまく組み込むことが当面の目標です。多分彼らが(15人ほどになる)、今後のカンボジアの理数科教育の核になるだろうと思っています。来年もよろしくお願いいたします。
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日本人の異常行動の始まり          

日本人の異常行動の始まり       2007.12.01 金森正臣

 先日、NHKの番組を見ていたら、孫への接し方を取材していた。家庭の事情があって、孫が同居するか近くに住むようになったらしい。なんと「チャイルド・ファミリー・コンサルタント」なる人物が登場して、接し方として次のような行動が示されていた。①目を合わせて話す、②笑顔で話しかける、③スキンシップ。もっともなことではあるが、日本人の異常さを見せつけられたような気がした。

 もう30年ほど以前になるだろうか。アメリカでトーマス・ゴートンが始めた「親業」なるプログラムが、日本に上陸してかなり盛んに各地で講習会がもたれた。多くの方々が参加された様である。私は一部分しか知らないが、何だかファミリーレストランの従業員のあいさつと同じで、親が子どもに接するのに、方法だけで良いものでは無さそうだと思っていた。親業は、実際にはファミレスの挨拶とは違って、もう少し丁寧に相手を思いやるように注意はしていたが、だいたい親を、一つの職業「業」として考えるのに違和感があった。親などは職業ではなくて、子どもを育てるうちに、自然と身に付く人間関係の現象である。特に訓練しなくても、持っている本能に従ってしていれば、自然に成長してくるものであろう。

 この様な問題が持ち上がってきた背景には、知識に頼りすぎて本能的部分を使わなくなって来ていることがあろう。例えば授乳の間隔にしても、子どものあやし方にしても、本やメディアの知識に頼り、本能を育てていない。何百万年の昔から、授乳は母親がしたくなったらする、子どもが欲しがったらするのでなんら問題は起こっていなかった。もし問題が起こるようであれば、人類は滅んでいたであろう。子どもの接し方も、可愛いから接するのであって、特別の技術は無く、自然に技量が成長する。ノーベル賞を貰った行動学者のローレンツは、子どもの体形や顔立ちは丸く多くの突起部分が少なく、愛され易く出来ていると述べている。彼は多くの動物の子どもの形態から、この様な結論に至っている。人が持っている親愛感情を引き出すようになっていると言うのだ。ところが、知識に頼って授乳や接し方を考えていると、親愛感情が成長しない。

 親愛感情は、個性がありその人の人生を反映している。ところが、番組で紹介されたようなマニュアル的行動は、個性が無く、年寄りと接する意味合いが少なくなる。個性のある年寄りと接することによって、多様性が子どもに伝わり、子どもの価値観の多様性が成長する。価値観の多様性は、子どもが困難に遭遇した時に、それを乗り越えるための手段であるから、単純化するともろくなる。本来あるべき行動が消失しつつあり、異常が起こり始めている。カンボジアの親たちを見ていると、本来あるべき姿を考えさせられることが多い。
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