カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成

カンボジアから   金森正臣(2005.12.17.)

カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成

写真:トンレサップ川で遊ぶ子ども達。横にいる老人は、他人らしく全く干渉しない。しかし何か事故が発生した時にはきっと助けてくれるであろう。子ども達は、自由に、伸び伸びと自分の好きなことが出来る。この様にして自分の要求が何であるのかを体験して行く。

 私はなぜ途上国援助に来ているか。
 第一の目的は、勿論途上国の教育の質の改善であるが、第二の目的とほとんど同じ重さである。第二の目的は、日本の子どもとの相違を見ること。即ち、途上国の子ども達から学ぶことである。日本の日常の中では、感覚が麻痺して十分に認識できない本来のヒトのあり方が端的に表れている。
 
 写真の子ども達は、親の監督もなく無心に遊んでいる。そこでは子ども自身が自由であり、自分の判断で遊びを選択している。つまらなければ遊びは自由に変えることができる。自然に変わって行く。そしてその自由こそが、夢中になるための源である。
 日本の様に、もし親がついていたならばどうであろうか。多分子どもは自由には遊べなくなっている。その事を考える場合には、幾つかの動物の社会学的観察の経験が必要である。

 動物は、個体が1個体だけでいる場合と複数居る場合とは、行動が異なってくる。例えば、サルでは、単独の場合にはほとんど鳴くことをしない。しかし複数いると、音声を頻繁に出す。人間の場合を考えてみよう。貴方が、1人で自分の部屋にいる場合とそこに誰かが入ってきた場合とでは、明らかに思考や行動に変化が起こる。この変化は社会的関係によって引き起こされる現象と考えられる。社会を持った動物は、多かれ少なかれ他の個体の影響を受けて行動が決定される。

 話を戻すと、子どもは親がいる場合に、居ることを意識しているだけで行動や思考に変化が起こる。そこで出生以来受けてきた親との関係が、影響する。子どもの小さい時ほどその影響は、大きくストレートである。やがて親の影響に対処する方法を開発しながら、次第に自分の要求を満たそうとする。
 少し成長すると子どもは、自分の要求を実現するために巧みに方法を探る。例えば、まだ歩けない子どもが、親の足音を聞いて微笑みかけたり、遠ざかる足音に泣き声を上げたりするのは、明らかに相手をして貰うことを実現するための手段である。人の気配がない場合には、泣き真似をしたり微笑んだりはほとんどしない。このことは、動物行動学を学んだ者にとっては、簡単な観察から導き出せる。

 子どもが遊んでいる場合に、親の気配を感じると、親の意向に沿わないことは避ける様になる。親から子どもへの見えない影響は、親の態度が子どもに対して不寛容であるほど大きい。親の影響が大きいほど、子どもは自分自身の興味によって遊びを選択することが出来なくなる。以前に行っていた「野外塾」(不登校の子ども達の野外活動。1泊2日で5回を1サイクルとして行っていた。子どもと共に誰か保護者が参加することにしていた)でも、小学校3年生ぐらいの子どもで、数回の宿泊の後に、初めて子どもが親の影響から自由になった例があった。この野外塾では、親には子どもに注意しないこと、親は自分で自分の興味に沿って独自にすることを要求していた。即ち、子どもに干渉しないことを練習した。
 この様な練習を通して、子どもは親の影響からやや自由になり、親も子どもを自由にすることの必要性が感じられる様になった。日常から遮断された自然の中で、1泊2日が数回必要なことは、日常的な簡単な努力程度では、なかなか回復が困難であると思われる。

 常に一緒に生活している親から子どもへの影響は、我々が日常考えて居る以上にあると思われる。このことが子どもの自由を縛り、自分の要求が何であるか、自分の存在がどの様なものであるかを追求することを阻害している場合は多い。これは子どもの自己形成の阻害である。

 人類は太古以来、数百年前までは親の子どもに対する成長の阻害は非常に低かったものと思われる。もし現在の様に影響が大きかったとしたら、多分子どもの発達阻害によって、人類が自然の中で生き残ってくることは困難であったろう。社会の形態が変化し、相互支援が強まってきたため、生き残っている様に思われる。しかし、個人としては、自己の発達が十分でないことによって、大きなストレスを抱え込むことになってきている。
 この様な問題が極端に外部に向かうと、粗暴程度から、子殺し、家庭内暴力、親殺し、動機の不明な殺人、自殺などに発展して行くことになると思われる。
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