お茶

お茶 

子どものころから、お茶が好きで良く飲んでいた。長野県では乾燥するからか、よくお茶を飲む。しかし子どもはあまり飲んではいなかったようだ。

長野県は寒いところであるから、お茶が栽培できるのは南部の一部分で、私の育った地域では木も見たことがなかった。従って、町まで出てお茶屋さんで買ってくる。貧しい農村であったから、上等なお茶など飲んでいない。色が出てかすかに香りがするぐらいである。お茶請けはほとんど漬け物で、ノザワナやタクワンである。お菓子などは、田植えや稲刈りの時に出るくらいである。冬のこたつでのお茶は、ほとんど漬け物であった。しかし乾燥しているから、結構水分が必要で美味しかった覚えがある。

東京ではあまりお茶を飲んだ覚えがないが、勤めるようになった菅平では良く飲んだ。寒くてストーブを焚く冬は、とくに乾燥するので良く飲んだ。ストーブの上には、常にやかんを置くので、湯も沸いている。

大阪では、あまりお茶を飲まずコーヒーが多かったような気がする。湿度の高いこともあって、量もあまり飲んでいなかった。愛知県に来てからは、研究室にはいつもお茶やコーヒーが何種類かあった。飲み物の好きな学生も多く、各自好きなものを準備するから種類が多くなった。エジプトの調査の帰りに、インドで紅茶を買って帰ってからは、紅茶の種類が多くなった気がする。

カンボジアでは、私は日本のお茶を飲んでいたが(カンボジア人も日本のお茶が好き。一般にはウーロン茶)、中国の影響が強く華人たちは中国茶を飲んでいた。ウーロン茶のほかに、プーアールチャ、珍しい緑茶も数種類。

今は朝の散歩の後に玉露の粉茶、日中はプーアール茶の茶餅50年物(これはカンボジアにいる時に、中国で調査していた先生にお土産に頂いたもの、なかなか手に入らない)、他にもマテ茶(南アメリカ南部の人たちが好む)、ルイボース茶(南アフリカ産)など。紅茶もインド産とタンザニア産。インド紅茶は、生産地で3種ほど持っていて、純粋に紅茶として飲む。タンザニア産はインドより細かい粉であるが、高地で栽培しているので香りが良い。ミルクティーとするのが旨い。砂糖とマッサガラム(やや辛みのある香料)を入れるとタンザニアで飲んでいたチャイになる。他にも、カルダモンやミント、シナモンなどの香り茶もある。
抹茶も好きで冷凍しているが、最近はあまり飲んでいない。やはり体力的に余裕があって、ゆっくりできる時でないとその気にならない。

夏に向かっては、水分を多くとり、熱中症になるのを防いでいる。と言いながらかなりの暇人でもある。家の窓からの夕陽を見ながら、アフリカのキャンプのハンモックの上で、夕陽を見ながら飲んでいたチャイなどを思い出しながら、ちょっと贅沢。

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イチジク

イチジク  2019.09.23.

 

大好きなイチジクを、安城市で先週沢山頂いた。

私が5歳ぐらいから暮らした長野県の村では、イチジクはほとんど見かけることが無かった。標高が750メートルほどもあり、当時は稲作の限界に近く(現在は十分に生育する寒冷に適した品種が沢山開発されて居る)、寒すぎたのだと思われる。木も見かけることはなく、アダムとイヴのイチジクの葉も、あまり実感は持てなかった。

 

始めて食べたのは大学生になって、東京に出てからで、その透明感のある甘さに魅了された。その後アフリカでチンパンジーの糞の中に、沢山の種類のイチジクの種があり、大小さまざまな実があることも判明した。小は直径12センチ(アヅキくらい)、大はピンポン玉ぐらいまでいろいろある。果物の付き方もいろいろで、ピンポン玉大の果実は、幹に直接ついて見事であるが、実ったものはすべてサルの餌で、わらわらは落ちているものを味見出来る程度であった。木も日本では想像できない大きさで、直径50センチ以上にもなり、高さも20メートルぐらいにはなる。熟するのもかなりの時間差があり、いろいろなサルが入れ代わり立ち代わり来て食べる。

エジプトのルクソールの王家の谷の壁画には、ブドウとイチジクを神に捧げる絵があり、昔から高貴な果物であったことを知ることが出来る。現在のエジプトでは、乾燥したイチジクが固められて売られており、なかなか歯が立たない。トルコでは堅いものもあったが、柔らかな乾燥イチジクもあり、なかなか美味しかった。

カンボジアでもアフリカと同じタイプのピンポン玉くらいのイチジクを見かけることがあった。沢山なっていて、熟したのを食べて見たが、現在の品種改良されたような美味しい味ではなかった。

 

安城から頂いたイチジクは、毎食後に1―2個食べるのが楽しみである。日本はいいなー。

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トトキ(ツリガネニンジン)

トトキ(ツリガネニンジン)   2019.04.14.

昨夜採ってきたトトキをお浸しにした。今朝は、胡麻和えにして食べた。味はややアクがあるような気がするが、かなり硬い。山菜を取り歴の長い私は、硬さの程度は分かっていて、採るときの感触で採る場所を決めている。しかしいかんせん全体に繊維が固く、歯ごたえがある。長野県の菅平に居た頃は、宿舎の前の草原に出ると、30センチぐらいの伸びたトトキの頂上部分を10センチぐらい摘んでも、柔らかく美味しかった。昨日採ったのは、せいぜい5センチに満たない。茎も細いし、味まで硬い。菅平で食べられるのは5月の連休が終わって、しばらくしてからであるが。長野県では、「山で旨いは、オケラにトトキ、嫁に食わすは惜しゅうござる」と言う言い伝えがあった。

これは寒い地方では、遅くまで雪があったり、霜があったりするので、温かくなると急に成長する。そのために組織が柔らかく、根に貯めていた養分で味が良くなる。学生時代に白馬岳の猿倉の小屋に居た時には、フキノトウが30センチぐらいになってもほとんど黄色で、柔らかく苦味が無かった。雪解けの脇から芽を出すのは5月で、周囲は温度が高くなっているので、1日に20センチぐらいも伸びる。葉緑素も間に合わず、黄色いままで柔らかく、鎌で刈ってきて、そのまま茹で、鰹節と醤油で食べていた。同じようなことは、北アルプスの鹿島槍の平の集落に居たころ、サワアザミと呼んでいたアザミが同じようであった。河原に出るアザミの群落を、50-60センチぐらいの丈で刈り取ってきて、茹でて食べたり、塩漬けにしたりして冬に食べていた。岐阜県でも食べているところがあるようである。多くの山菜料理としてのアザミは、新芽が主で茎を食べる所は多くない。これは雪の多い地方でないと、茎の成長速度がゆっくりで硬くなるからであろう。

私は八ヶ岳の北、白樺湖の北の谷で育った。母方の祖父が山を熟知しており、山菜をいろいろと教えて貰った。小学校4年のころに亡くなったが、かなり多くの山菜を覚えていた。母も良く知っていて、食糧難であった時代であるから、かなり助かっていた。大学を卒業して菅平に就職したら、初任給が学生時代のアルバイト料よりもかなり少なく、これで食った行けるだろうかと心配したが、山菜や貰い物が多く、おまけに宿舎代がただだったので、何とか無事に過ごすことが出来た。池田首相の所得倍増時代で、毎年かなりの額の昇給があったのも助かった。このころ長野県の調理師会の副会長(会長は県知事で、料理はまるで素人)と山菜の本を書いたことがある。私が山菜の種類と時期、下ごしらえの基本を書き、副会長が料理の仕上げを書いた。100ページに満たない本であったが、評判が良くかなり売れた。最初は3000分ぐらい出したが、最終的には6万分ぐらい売れた。菅平研究会と言う儲からない会があって、いろいろ出版していたが、経費が無くなるとこの山菜の本を増し刷りして、資金を稼いでいた。この本の出版記念に菅平で開いた「山菜の会」は、地元の観光協会が引き継いで、現在まで続いているようである。もう50年以上になるのだが。
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山菜の季節

山菜の季節    2019.04.13.

愛知県でも山菜と言うか野草の季節になってきた。3月の末にはツクシがたくさん採れ、炒めて甘辛く味付けし、昔を思い出した。愛知県に来た約40年前、刈谷の駅前の商人宿に泊まった。愛知県は全く親しみが無く、その時が初めてであった。大阪に勤めていて上司の先生の息子さんが時々刈谷に仕事に来ていたので、紹介してもらった。現在はその宿はなくなってしまったが、駅のすぐ近くで2階建ての木造だった。夕食の時に、食べますかと言っておばあさんが出してくださったのが、ツクシの佃煮であった。子どものころ以来で有ったので、大変懐かしく深く記憶に刻まれて居る。その後学校の宿舎では、時間もなくほとんどなくツクシのことは忘れていた。

現在の場所に移ってから、毎朝の散歩道にツクシが出ている。懐かしくなって年に数回は、採ってきて食べる。場所によって時期がずれるので、かなり長い期間楽しめる。

今日は天気が良かったので、夕方も散歩に出た。朝の散歩とは異なる境川の堤防に出たら、トトキ(ツリガネニンジン)が沢山有った。丁度良い大きさになっていたので、一掴みつまんできて、夕食にお浸しにした。懐かしい味がしたが、菅平で食べていた物とはかなり味が違った。山菜は、気候が地方によって異なるので、かなり味が違う。以前にはタラの芽で、味の違いを強烈に感じた。雪国のものは、一気に成長するので柔らかく味があるが、愛知県のものはあくが伴ってくる。愛知県ではタラの芽よりも、コシアブラの芽の方がうまい。コシアブラは、林の中にあり日陰になりやすいからであろうか。他にも、フキノトウやワラビでも違いを感じたことがある。

山菜は、作っている野菜ほどおいしいものでは無い。確かに個性があって、普段の野菜とは異なり、強烈な印象を残す。多くは懐かしさと食べた状況の思い出とで、美味しく感じているのではなかろうか。学生時代に白馬岳のネブカダイラ(ネブカは、ネギの意味。ネブカ平にはシロウマアサツキが沢山ある)で、当時出始めたインスタントラーメンに、シロウマアサツキを沢山入れて美味しく頂いた。国立公園の中にあり、採集禁止であったが、もう時効であろう。
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おにぎり

おにぎり    2019.02.18.

コピーのためにコンビニに行ったので、ついでに昼食をおにぎりにした。子どものころおにぎりが好きでなかったので、いろいろ思い出がある。遠足にはおにぎりであったが、あまり食欲がわかず、それでも腹が減るので頑張って食べていた。今のおにぎりは上品で、具も良くなかなか旨い。

卒業して就職したところが菅平で有ったので、調査のためによく根子岳(2207m)に登った。冬になるとおにぎりが凍り付き、外側が白くなっていた。口に入れてもボロボロして、溶けるまで味が無い。寒さの中で結構大変であった。
ある時、賄いのおばさんが休みであったので、一緒に行く若い技官とおにぎりを作った。ノリをふんだんに使おうと、一つのおにぎりに一枚のノリを使った。ところが食べるときになり、湿ったノリが重なっているところは喰いちぎれずかなり苦労した。おばさんはノリをケチしていたわけでは無く、食べるときのことを考えていたのだと、二人で大笑いをした。

新潟と福島県境付近を、尾瀬ケ原の国立公園に編入しようという日本自然保護協会の1968年ごろの調査に参加した。2ケ月間にわたって、八海山から守門岳・浅草岳、只見ダムなどの地域を回った。只見ダムは、地元でもただ呑川などと揶揄されていた。同行はドイツから帰ったばかりの横浜国大の宮脇昭さんで、大いびきに悩まされた。しかし私はトラップの回収があるので、山中にテントで泊まっていた。助っ人に現地のマタギが3人付いてくれ、いろいろな話や風習を楽しんだ。一人のじいさんは、釣りの名人で毎食イワナを準備してくれた。
八海山付近であったと思うが、旅館ではおにぎりと塩納豆を持たせてくれた。納豆は塩辛く、半分乾燥されていて四角に固められていた。おにぎりは巨大で、野球のボール以上の大きさのものが2つであった。地元の人は、お椀を持って歩いて居り、握り飯を入れて納豆を入れ、沢の水をかけてお茶漬けの様にしていた。当時は美味しいと思わなかったが、今になるともう一度食べてみたいと時々思い出す。

カンボジアの米はいわゆる外米で、粘りが少ない。しかし特別に厳選されたジャスミン米と呼ばれるコメがあり、上手に炊くと結構おにぎりになった。日本からノリを持ってきたときには、おにぎりにして楽しんでいた。中に入れるものは少なく、塩にぎりにしかならなかった。
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卵かけご飯

卵かけご飯      2019.02.08.

最近テレビなどの情報では、卵かけご飯が流行っていると言う。それ専門のレストランまであると言う。

終戦後の子どものころには、卵は貴重品でなかなか食べられなかった。病気の時やお祭りに、特別に食べられる程度であった。卵好きだった私は、病気をしても卵が食べられるようになるとたちまち元気になっていた。

卒業して就職した山の中の実験所は、集落から3-4㎞離れており、職員は5人ほどであった。賄いのおばさんがいて3食作ってくれていたが、朝食はいつも生卵、味噌汁、焼きのり、漬け物であった。数年するとすっかり卵かけご飯が食べられなくなり、結婚しても50歳ぐらいまでは食べられなかった。食べられるようになったのは、アフリカに3月ほどいて帰国後のどこかのホテルの朝食バイキングからである。何とはなしに食べていて、自分でも驚いた思い出がある。カンボジアの生卵は、ニューカッスル病がある可能性があるので、基本的には食べない方が良い。しかしこの菌は、熱に弱いので熱湯に殻ごと入れて、1分ぐらい置いておくと問題はなくなる。多くの国で生卵を食べないのは、この病気によるリスクのためである。

卵はやはりご馳走ではあるが、ワニの卵は少し変わっていた。

学生のころ、環状線の大久保の近くの職安の付近に「立ちんぼ」(早朝、職安を通さずにトラックが来て、作業者を集めて行く)の集まるところがあった。そこではリヤカーにコンロを積んだ飯屋が来て、3円とか5円単位でご飯を盛ってくれた。2円のたくあんに3円の味噌汁ぐらいなら10円で飯が食えた。卵はかなり高く10円ぐらいしていたように思う。高くて買ったことはなかった。

今買い物に出かける場所の近くに、「まいどおおきに食堂」と言う関西風の食堂がある。釜で炊いたご飯が売りで、おかずは棚から取り出して、会計をしてもらう。ここには生卵があるので時々卵かけご飯になる。

大阪で勤めていた市大の医学部は、阿倍野にあり裏手は西成区のあいりん地区であった。大学から数メートルの坂を下ると、そこは阿倍野銀座で、酔っ払いがごろごろしていた。毎年法医学教室に、300体以が運び込まれていたが、多くは肝硬変を患っていた。法医学教授の助川先生と仲が良かったので、時々呼び出されて付き合った。
阿倍野銀座には、いくつかの食堂があり、おかずを自由にとり、ご飯を希望量買って食べる形式のところがあった。生卵も置いてあった。煮魚などを買ってご飯を食べていると、向かいに座ったおっちゃんが、終わるころを見計らって、煮汁を貰ってもいいかと交渉に来る。彼はその煮汁をご飯にかけて食べていた。その頃の食堂に比べると、今の食堂はかなり清潔感にあふれている。
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鍋焼きうどん 

鍋焼きうどん   2019.01.31.

先日女房が美容院に行き、コンビニの鍋焼きうどんがうまいと聞いてきた。
ちょうどスーパーに買い物に行ったときに、鍋焼きうどんを見かけたので、てんぷら鍋焼きうどんを130円ぐらいで買ってきた。ずいぶん安いものだと感心しながら。他にもカレーうどんなど何種類かあった。

所が食べてみてびっくり。野菜は何もないし、エビてんぷらは、メリケン粉のてんぷらの上にアミのむき身のような小さなエビとおぼしきが載っているだけ。食べても旨いとは思えなかった。そこで、コンビニの鍋焼きうどんと言うことを思い出して、近くのコンビニに行ってみた。なんと450円ほどもして、立派な鍋焼きうどんが売っていた。なるほどコンビニの鍋焼きうどんはなかなかなものだと感心した次第。

昔学生時代に、学食のうどんは食べても、街の食堂で鍋焼きうどんを食べる余裕はなかった。鶏肉にシイタケ、卵の入った鍋焼きうどんはかなり高価で、つい普通の30円のうどんになっていた。大阪時代には、昼に鍋焼きうどんを食べられるようになっていて、付いて来るかやくご飯のオイナリサンと一緒に楽しんでいた。久しぶりに鍋焼きうどんを食べて、いろいろなことを思い出した。
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昆虫食

昆虫食    20181.09.21.

最近世界食糧計画(WFP)が、昆虫食を進めるような情報を流しているようである。これからの世界の食糧事情を考えると、得られるエネルギーが多いということであろう。

以前に(1960年代の終わりころ7-8年間)、ユネスコが主催してIBP(International Biological Program) と言う世界的調査があった。これは地球上の植物がどの程度の光合成をし、動物がどの程度生きているかという調査であった。私はまだ駆け出しであったが、仲間に入れて頂きいろいろと面白い経験をした。特にこの時にできた人脈は、人生の中で貴重なものになった。数年後その調査を世界中で集計し、人間が地球上で生きることが出来る人口は。およそ80億から120億ぐらいと算出されたと覚えている。

生態学から考えると、植物が光合成したエネルギーは、草食動物によって食べられる。次にその動物を食べる動物は、草食動物の食べるエネルギーからすると100分の1程度しかエネルギーが回ってこない。何故ならば、草を食べる動物が成長するには、呼吸もするし糞もする。また種が継続するためには、子どもも育てなければならない。それらを考えると、次の動物に回せるエネルギーは多くない。この様に次の動物に回されるエネルギーの効率を、転送率と言う。ハマチをイワシで育てて食べると、イワシを食べる100分の1ぐらいしかエネルギーは回ってこない。

昆虫の中には、動物食のもの(例えばタイやカンボジアで食べられているタガメ)もいるが、かなり多くのものが草食である。カンボジアではかなり色々な昆虫を食べている。カンボジアで一般的なコウロギは、草食のものが多い。田んぼが広がる地域では、1夜に30㎏も集めている人もいる。やわらかい佃煮の様になっていて、市場や夜のレストランに売りに来る。ゲンゴロウやタランチュラー(昆虫ではないが)もよく食べる。

アフリカでは、連れて歩いている部族によっては、トノサマバッタなどを食べる。細い枝を持っていて、トノサマバッタが飛び出すと叩き落す。それを焚火であぶって食べている。アフリカではしばしば大発生して、作物などが荒らされることもある。
ハチの子は、蜂蜜とともに多くの部族が食べている。ミツバチの子どもを巣から取り出すのは、鍋にお湯を沸かしその中に巣ごと入れると、蜜蝋の巣は溶けてハチの子が出る。ハチの巣を採集した時には、蜜と一緒に子の入った蜂の巣を食べる。こうすると胸が焼けないで、沢山食べられると言う。
アリも好んで食べられるが、結婚飛行で飛び出すメスだけである。チンパンジーは、蟻塚の中のありをつり出して食べているが、主に働きアリである。アフリカにはかなりアリが多く、油断をしていると、逆に食われてしまう。

カミキリムシの幼虫は、かなり広い地域で好んで食べられている。アフリカでもアジアでも、かなり好まれているが、幼虫は木の中に食い込んでいるので、木を割らないと取れない。なかなか面倒な虫だが、いれば必ず食べられてしまう。幼虫をそのまま火の中に入れると、スーと伸びて、丸太のようになると旨い。アジアでは、生で食べるのを見かけたこともある。

私は長野県で育ったので、昆虫食には小さい時から慣れている。地中に巣を作るクロスズメバチ(ヂバチとかヘボと言っていた)は、秋に積極的に探してとる。イナゴなども食卓を飾っていた。水生昆虫のムラサキトビケラやオオヤマカワゲラも結構普通に食べていた。しかし量を集めるのはなかなか大変で、どちらもイワナなどの釣り餌になることが多かった。

昆虫とは異なるが、ラオスではオタマジャクシを朝の市場で売っていた。聞いてみると食用だと言う。確かに川の中のコケなどを食べており、エネルギー効率は良いであろう。
私の最初の赴任地に、かなり変わった男が住んでいて、ヤマアカガエルのオタマジャクシを集めていた。どうするのかと聞いたら、バケツの中で泥を吐かせて、網の上で干し、タタミイワシのようにして食べると言っていた。案外うまいのかもしれない。しかし日本では、あまり一般的ではない。
小学校の4年生の時に、モズのヒナを飼っていて、エサに困ってオタマジャクシを食べさせたら、下痢をしていた。以来、オタマジャクシは、何か消化できないものがあるように思っていたが、そうでもないのかもしれない。
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カラカサタケ



カラカサタケ   2018.09.12.

カラカサタケが、散歩道の土手で顔を出した。子どものころよく食べていたハラタケ科のキノコで、カラカサのように大きく広がるのでこの名がある。傘の部分が柔軟で、手で握ると閉じるので、我々はニギリタケと呼んでいた。

しかし土手に生えているカラカサタケは、子どものころに食べていたものとややイメージが異なる。食べていたものはもっと全体に暗色で、茎の部分はヘビのような模様があった。また傘の上の斑点ももっと大きく、暗色だったような気がする。カラカサタケは、かなり種類があるようで、異なる種類かもしれない。中には下痢などを起こす種類もあるようなので、注意したい。子どものころは焼いておろしで食べるのを楽しみにしていた。

毒キノコでも食べることが可能なものがあり、干すことによって紫外線で毒が分解されたり、水溶性の毒はゆでたりすると食べられる。最初の赴任地の菅平では、同じハラタケ科のベニテングダケが沢山出た。我々は茹でるあるいは干して、冬用に囲い、食用としていた。ある時キノコ図鑑を書いていた今関六也先生が見え、皆でベニテングの毒性の試食会をした。ベニテングダケもカラカサタケに匹敵する大きさのキノコで。一人2-3本食べるとややもうろうとしてそれ以上はまずいということになった。酒が入るともっと効き目が多かったように覚えている。呼吸困難に陥るので、注意する必要がある。
ベニテングダケの毒性は、ワライタケの毒性とは異なり、かなり安全のように思われる。志賀高原の北のブナ林で調査していた時に、ワライタケを見つけ少しだけ噛んでみた。強烈なしびれ作用があり、水で洗っても半日ほど口内がマヒしていた。ワライタケは、笑っているのではなく、顔面神経が収縮し笑っているように見えるのであろう。もし飲み込んでいたら、多分内臓が収縮し、かなり危ない状況になると思われた。ブナ林では他に、ツキヨタケなどの毒キノコがあり、毎年死亡者が出る。同じブナにできるヒラタケ(今は栽培物がスーパーで売られている)に間違えられることが原因である。この毒は、煮ても薄れることはない。

カンボジアでは、フクロタケがよく食事に出る。主に鍋物の具として登場するが、野菜と炒められて出ることもある。カラカサタケと同じように、イネ科の植物の枯れ草に出る。農家では、イネわらを牛の飼育のために庭先に積んでおく習慣があり、その周囲に水を撒くとフクロタケがよく出る。ニワトリに蹴散らかされないように、網などをかぶせて保護している。私が務めていた高等師範学校(プノンペンの真ん中)でも、先生たちが実験場の隅に藁を持ち込み、水をかけて栽培していた。市場などでも売られており、かなり一般的なキノコだ。

アフリカでもキノコを食べたことがあり、かなり美味しかった。しかし我々が調査に出かける夏は、タンザニア(南半球)の乾季に当たり、基本的にはキノコはほとんど見かけない。一度雨が降った年があり、老人が採ってきて持ち歩いているのを道路で見かけ、分けてもらった。

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ニガウリ:ゴーヤ 

ニガウリ:ゴーヤ   2018.09.06.

ニガウリにはいろいろの思い出がある。私が初めてニガウリに出会ったのは、小学校低学年で、新しい物好きの父親が、庭の畑に作った。今のものの3分の1くらいで、かなり小さかった。長野県の八ヶ岳の北山ろくで、今の長和町大門(長野県小県郡)の標高750メートルぐらいの場所である。寒さが厳しく積算温度(植物が成長に使える温度)が不足していたために、大きくならなかったのではないかと思われる。子どものころは苦味を苦手としていたし、あまりの苦さに熟れるまでおいた覚えがある。熟すと先が割れ、種の周囲が赤くなり、果肉も黄色くなって苦味はなくなった。レイシと呼んでいたように思う。本当は、ツルレイシと呼ぶべきであったようである。

次に出会ったのは、前回「沖縄」に書いたネズミの調査で、鹿児島に行った時である。夕食によった料理屋で、酒のあてにニガウリの塩もみが出された。あまりの苦さに一箸で遠慮した。しかし、沖縄で出されたゴーヤチャンプルは美味しくて、毎回頼むことになった。そのころからようやく苦味に美味しさを感じるようになった。多分おばちゃんたちの元気に明るい笑顔も、味の決め手だったかもしれない。

カンボジアに行くようになって、ニガウリは身近なものになった。カンボジアでは地方に出かけると、街中のレストランは、料理の入った数個の鍋を並べて、その中から選ばせる。皿に盛ってもらって机に座ると、もう一つに皿が出てご飯を盛ってくれる。ご飯は食べ放題が多く、終わりそうになると女性が飯の鉢を持ってくる。断らないと大盛りにご飯が乗せられる。カンボジア人は大食いで、私の2-3倍は食べる。このようなレストランには必ず、ニガウリの肉詰めをスープで煮込んだ、スガオ・マリヤツがある。
最初は苦味を感じたが、次第に慣れて美味しいと思うようになった。カウンターパートが、暑い時には体を冷やす作用があり、健康に良いと言うし。中に詰められる肉のミンチは、挽き肉機などないカンボジアでは、若い調理人が両手に中華包丁を持って、丸切りの切り株のまな板の上で、調子を取りながら元気よく肉をたたいて細かくする。日本の挽き肉よりも、味が良いように思われる。ショウガなどの調味料も効いて、なかなかな味である。だんだん好きになり、地方に出ると必ず頼むようになった。

自分で調理するときは、コンビーフを買ってきてゴーヤと炒め、卵でとじる。沖縄のおばちゃん達のようには行かないが、思い出しながら楽しんでいた。カンボジアのゴーヤは、かなり大きくて、イボイボは尖っておらず、苦味も少ない。よく行く日本食レストランでも、友人が集まると、メニューに無いゴーヤチャンプルを作ってもらっていた。
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