お茶

お茶 

子どものころから、お茶が好きで良く飲んでいた。長野県では乾燥するからか、よくお茶を飲む。しかし子どもはあまり飲んではいなかったようだ。

長野県は寒いところであるから、お茶が栽培できるのは南部の一部分で、私の育った地域では木も見たことがなかった。従って、町まで出てお茶屋さんで買ってくる。貧しい農村であったから、上等なお茶など飲んでいない。色が出てかすかに香りがするぐらいである。お茶請けはほとんど漬け物で、ノザワナやタクワンである。お菓子などは、田植えや稲刈りの時に出るくらいである。冬のこたつでのお茶は、ほとんど漬け物であった。しかし乾燥しているから、結構水分が必要で美味しかった覚えがある。

東京ではあまりお茶を飲んだ覚えがないが、勤めるようになった菅平では良く飲んだ。寒くてストーブを焚く冬は、とくに乾燥するので良く飲んだ。ストーブの上には、常にやかんを置くので、湯も沸いている。

大阪では、あまりお茶を飲まずコーヒーが多かったような気がする。湿度の高いこともあって、量もあまり飲んでいなかった。愛知県に来てからは、研究室にはいつもお茶やコーヒーが何種類かあった。飲み物の好きな学生も多く、各自好きなものを準備するから種類が多くなった。エジプトの調査の帰りに、インドで紅茶を買って帰ってからは、紅茶の種類が多くなった気がする。

カンボジアでは、私は日本のお茶を飲んでいたが(カンボジア人も日本のお茶が好き。一般にはウーロン茶)、中国の影響が強く華人たちは中国茶を飲んでいた。ウーロン茶のほかに、プーアールチャ、珍しい緑茶も数種類。

今は朝の散歩の後に玉露の粉茶、日中はプーアール茶の茶餅50年物(これはカンボジアにいる時に、中国で調査していた先生にお土産に頂いたもの、なかなか手に入らない)、他にもマテ茶(南アメリカ南部の人たちが好む)、ルイボース茶(南アフリカ産)など。紅茶もインド産とタンザニア産。インド紅茶は、生産地で3種ほど持っていて、純粋に紅茶として飲む。タンザニア産はインドより細かい粉であるが、高地で栽培しているので香りが良い。ミルクティーとするのが旨い。砂糖とマッサガラム(やや辛みのある香料)を入れるとタンザニアで飲んでいたチャイになる。他にも、カルダモンやミント、シナモンなどの香り茶もある。
抹茶も好きで冷凍しているが、最近はあまり飲んでいない。やはり体力的に余裕があって、ゆっくりできる時でないとその気にならない。

夏に向かっては、水分を多くとり、熱中症になるのを防いでいる。と言いながらかなりの暇人でもある。家の窓からの夕陽を見ながら、アフリカのキャンプのハンモックの上で、夕陽を見ながら飲んでいたチャイなどを思い出しながら、ちょっと贅沢。

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肺炎の症状 

肺炎の症状 

カンボジアにいた2010年ごろ、肺炎にかかったことがある。その時には肺炎の意識がなく、その後帰国して大腸癌の手術のための精密検査をしているときに、肺炎の跡が残っていて気が付いた。

ある事務所の開所式で、多少手伝ったので招待された。ゲストの祝辞の話が終わって、ビールを2口ほど飲んだら、急に呼吸が苦しくなった。異常に気が付いて椅子に座ったが、依然呼吸が苦しい。学生時代に習った基礎代謝量を思い出して、如何にすれば消費エネルギーが少なくなるか考えた。宴の最中であるから、椅子に長々の寝そべっているわけにもいかず、しばらく我慢をしていた。暑いものでも飲めば、アルコールが早く消化して、楽になると思ったが、あいにく暑い国で温かい飲み物はない。仕方なくジュースなどでアルコールを薄めて、危機は脱した。1時間ほどしてお祝いが済んで解散になったので、友人に送ってもらって家までたどり着いた。

その後が大変で、ただベッドの上に4日ほど寝ていた。最初の2日ほどはほとんど動かず、ただ寝ていたような気がする。知り合いの日本食レストランのベトナム人のお姉さんがお粥などを届けてくれた。食べた様な気もするがほとんど覚えがない。3日目ぐらいからは少し体のだるさが抜けて、朝食は借家の前の朝だけする店で豚のっけご飯を食べた。昼には隣のうどん屋に食べに行った。5日目ごろにはだいぶ良くなり、事務所に出ていた。

しかしこの4日ほどは、かなり大変で体を動かす気がしなかった。最近新型コロナウイルスで、皆さん肺炎になると苦しいと言われている。確かに肺炎は苦しい。普段から体力をつけておくことが重要な気がする。

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久しぶりの豆からのコーヒー

久しぶりの豆からのコーヒー

新型コロナの影響で自宅自粛をしているからではない。もともと自宅待機の様な、年金下流老人の普段の生活である。

久しく飲んだことのなかった「豆からひいたコーヒー」を自宅で飲んだ。多分20年ぶりぐらいであろう。一昨年6月に2回目の心臓手術をしてから、徐々に回復して体調が良くなり、コーヒーを飲む気になったように思われる。ふとしたことからコーヒー豆を手に入れ、朝食の後で、ゴリゴリと豆を挽きコーヒーを入れる。香りとゆったりとした時間を楽しむ。

勤めていたころには、豆もミルも数種類持っていて良く飲んでいた。新城でサルの調査をしていたころに、日本モンキーセンターの大竹勝さんが、コーヒー好きで良く山道に座り込んでトルコの遊牧民が使っているミルを持って来て入れてくれた。私も持っていたエスプレッソの道具やミルを持ち出して、時々入れていた。調査中に飲む山の中のコーヒーは、景色を眺めながら楽しい思い出である。ある時には、京大の総長になった山極さんが呼んだ、スペインの女子学生がついて来て、まったく言葉が通じなくて皆で大笑いをした。彼女は英語が分からない、我々はスペイン語が分からない。ついでについてきた浜井さん(京大霊験の研究員)も、スペイン語は分からず、みなで分からないで4日ほど苦労したが、コーヒーでは楽しんでいた。

それよりも以前の1980年ごろに犬山で、はこ心理研究所の亀井さんと不登校の子どものキャンプをしていた。犬山にはコーヒー豆を売っている店があり、生の豆を買って行ったことがある。これを飯盒の中で炒って、木の棒でつぶして、水を入れてコーヒーを沸かした。西部劇に出て来る場面を真似したのである。しかし味は薄く、これがアメリカンコーヒーなのかと妙に納得した。

私は比較的コーヒーの産地で調査する機会に恵まれた。その最初はコロンビアである。コロンビアでは、愚民政策でコーヒーとパンが安く、次いでに娯楽の映画も安い。1980年代であったが、10円あると、2円のコーヒー、4円ぐらいのパン、あとは映画で1日が過ごせると言う。ホテルではコーヒーがただで、ルームサービスでコーヒーを頼んで無料で申し訳ない思いをした。空港では、「コロマ」と言われるコーヒー味で強いリキュールがあり、無料で数杯飲んで、目を回しそうになった。上級品はすべて輸出用で、国民用は2級品とのことであったが、お土産にスーパーで安く買ってきたら美味しくてこれまたびっくり。

アフリカのタンザニアでの調査は、キリマンジェロコーヒーの産地をよく通った。首都にはキリマンジェロコーヒーの豆が売っていたが、途中ではほとんど見かけなかった。タンザニア人はイギリス時代の影響か、紅茶が主体の甘いチャイがどこのレストランにもあった。キャンプ地の夕暮れ、ハンモックの上でコーヒーを飲むのも楽しみであったが、道具が多くなるのでチャイが主体になった。水が奇麗ではないので、コーヒーフィルターで濾してみたが、1リットルの水も得られないうちに目詰まりした。

その後カンボジアで、ロブスター系のコーヒーを飲む毎日になった。ここで初めて、アラビカ系とロブスター系の相違を実感した。ロブスター系はアラビカ系よりも個性が少なく飲みやすいが、コクは無い。コンデンスミルクを沢山入れて飲むのが普通で、暑い国ではうまい。菅平にいた50年ぐらい前に京都大学に行ったとき、ネズミ仲間の小林さん(故人)が、インドネシアからの調査の土産に持って来てくださったのが、このロブスター系のコーヒーであった。

私が仏教の修業を始めたきっかけは、内観である。偶然内観の創設者吉本伊信師にご指導いただいた。その後数年して、ヒトの体験したことの記憶は、ほとんど忘れていないことに気が付いた。普段は、意識の波に気を取られて思い出せないでいるが、静かに座っていると体験したことはほとんど忘れておらずすべて思い出せる。この体験をしてからは、授業の中でもいかに記憶にとどめるかは、重要な課題になった。スライドやオーバーヘッドプロジェクターで図を示して講義することは楽ではあるが、聞く人の記憶には長くは留まりにくい。いくつかの実験も試みたが、スライドと同じ図を渡し、聞きながら中に書き込むことでかなり板書と同じ効果が出た。それにも増して体験は印象に残っている。

長々とコーヒーのことなどを書いたのは、私の体験の一端を遠い昔から掘り起こせることを示したかったからである。年齢とともにいろいろな経験が増し、面白味も増す。
体験は言葉と異なり、いろいろの情報を含んでいて、言葉では表せない財産である。言葉では表しきれない、当時の感情や文化の相違、感じたことが蘇ってきてなかなか楽しい。

 

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新型コロナウイルスで見えたもの6  見せかけの自分

新型コロナウイルスで見えたもの6  見せかけの自分

テレビやマスコミでは、見た目がもてはやされて、本質が忘れられている。以前に大宅壮一氏が、テレビは「一億総白痴化」だと言ったことを紹介したが、多分見せかけの自分に振り回される現代の人々の様子を危惧したことも含めていたであろう。

テレビやマスコミでは、見た目がもてはやされ、多くの人々もその影響を受けている。アナウンサーやタレントは美男美女が多く綺麗ではあるが、内容はあまり伴っていない。すぐに飽きる。
 
他から褒められても貶されても、自分の価値は変わらない。人生の終着は死でありそのために生きている。人生の本質は、自分が自分を認めることであり、生きたようにしか死ねない。
家で死にたいとか、安楽死したいなどは、死に対する問題を誤っている。どの様に死ぬかは、どのように生きたかで決まる。
この様な本質的な点を間違えると、行っていることが全て変な方向に行く。

人生を踏み間違えていると、家庭に籠っていると煮詰まってしまったり、相手に対して不満が膨れ上がったりする。私は学生時代に貧乏だったので、常に2-3人で4.5-6畳の部屋を借りていた。もちろんいろいろな不満があったが、ある時に自分が不完全であるから神様と暮らしていても不満を持つだろうと考えた時があった。以降はそれほど大きな不満は持たなくなった。また誰か年配者から、「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われたことがあり、このことが現在でも役立っている。

人生は自分を鍛える場であって、いかなることも自分のためである。人に見せるためのものでは無い。また人に喜んでもらうためのものでも無い。スポーツ選手や芸能人、また若い人の多くが、人を喜ばせるためにとか人のためにと言うが、まず自分を鍛えて自立してからした方が良い。途上国の支援でも、喜ばれるためにしている人が多いが、自己が自立していないと相手の役には立たない。

家庭での2-3ケ月の生活で、息詰まるようでは、各自の自立が足りないのではないであろうか。

 

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新型コロナウイルスで見えたもの5 心の闇「さみしい心」

新型コロナウイルスで見えたもの5 心の闇「さみしい心」

新型コロナウイルス問題で集まることが遠慮され、家にいると寂しいと言う。なぜ一人では寂しいのであろうか。

歴史的にみると動物は誕生した時は一人であり、しばらくしてから集合が起こり、社会が出来上がった。哺乳類以前から社会をつくる動物はいたが、その起源の多くは、性的な集まりか家族の集まりであると考えられる。それが次第に発展して、大きな社会をつくる様になった。従って寂しいと言う心は、社会が始まってからのものである。イタチなどやネコ科の動物には現在でも単独生活のものが居り、集合する時は交尾の時か子育ての時だけである。

動物は集合すると個体の間でエサや異性を巡ったトラブルが起きる。それにもかかわらず集合して社会をつくるのは、寂しいと言う気持ちが根付いているからであろう。従って社会をつくる動物には、寂しいと言う心が離れがたいと言える。

現在の社会では多くの若者が単独で生活することは苦手で、寂しさに押しつぶされている。実際には、如何に一緒にいても他の人に自分の人生を手伝ってもらうことはできない。例えば、食事もトイレも自分自身でしなければ、代替えは効かない。現代人は、ヒトと話をし、メールで繋がっているといかにも自分は他の人とつながっているように錯覚している。実際には人生は自分一人なのである。

日本の伝統文化には、このことについて明らかにした人が多い。鎌倉時代の僧、時宗の開祖一遍上人(1239-1289)は、このことを明確にしている。
一遍上人語録(1985 岩波文庫)には、百利口語と言う偈があり、その最初が
『六道輪廻の間には ともなう人もなかりけり ひとりむまれてひとり死す・・』ではじまっている。人生はいつも一人なのである。
『おのづから 相あう時もわかれても ひとりはいつも ひとりなりけり』と言う歌もあり、人生はいつも一人なのである。

幻想に振り回されず、真の自分の人生を取り戻さなければ、自分を見失うであろう。このことは人生の基本で、理解していないと、いつまでたっても迷う人生になるので、基本的な問題である。迷っていると人生は貧しく、心も貧しくなり、豊かな人生は送れない。死ぬときはいつも一人である。

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