沖縄選挙とラオスのモン族

沖縄選挙とラオスのモン族   2018.10.08.

沖縄の知事選が、沖縄の方々の選択として示された。以前の知事選の後では、民意が示されたのに、政府は交付金で締め付けた。
今回の選挙では、政府は真摯に受け止めると言ったが、どのように実行するのであろうか。

そもそも基地問題は、国民が平等に負担すべきものである。米国からの返還時の事情で、沖縄に著しく重い負担が課されている。県ごとの人口などから、負担すべき面積を割り出し、なるべく平等に負担するのが本来の姿であろう。基地の性格上あまり分散はできないならば、日本全体をいくつかのブロックにして地域ごとにまとめて、どこかにお願いする必要がある。その場合に、負担していないところは金銭などで負担する必要があろう。
今回の選挙の結果を、真摯に受け止めると言うのであれば、この程度のことはしなければ、単なる言葉の遊びに過ぎない。

前回の知事選で負けたからと言って、政府が交付金で締め付けることは本来許されない。交付金は、国民の税金であり、政府の執行は公平でなければならない。森友・加計問題でも、国民の財産や県民の財産を、政府が自分の思想に偏ったグループへの支援(国有地の安い売却:対象は教育勅語などを進めるグループ)、好みの政策に近い団体や友人に有利に与えるのは、国政の私物化に他ならない。

ラオスで調査をしていた時に、首都ビエンチャンの北2時間ほどのところのバンビエンの盆地で、飛行場後に遭遇した。米軍がベトナム戦争の折に、ホーチミンルートに手を焼き、地元のモン族を金で抱き込み、手伝わせて作った飛行場である。米軍はベトナムで負けると、パテトラオにも負け、雲を霞と逃げてしまい、手伝ったモン族は国外に逃れるしかなかった。その数は30万人ともいわれている。しかし近年は、このモン族の人々の帰国を許し、かなりの人々が帰国しているようである。そこには仏教国としてのラオス人の、寛容さがあるように思われる。
日本政府は、最近神道を挙げる人が中心になっているが、もともとあった神道は、八百万の神(ヤオヨロズノカミ)を信じ、共存に寛大な宗教であった。ところが最近の神道は、靖国神社などを中心とした新興神道で寛容さに欠ける。
日本古来の神道も仏教も、共存を旨とした他者に対して寛容な宗教であった。日本が世界に誇れるところは、共存に必要は寛容さであろう。これでこそ未来の世界で、平和に共存する思想を発信することが出来る。

沖縄の知事選の後を、興味深く観察している。
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海外を目指す若い皆さんへ 3

海外を目指す若い皆さんへ 3   2018.10.03.

前回海外を目指す若い皆さんへ 1で、観察について、具体的方法を述べなかった。これは私に迷いがあって、示さなかっただけである。学生への授業の場でもいつもそうであるが、具体的に観察事項を述べた方が、聞く側としては効率が良い。しかし、場合によっては、その方法に縛られると、視界が狭くなり各自の独自性を損なうこともある。

しかしながら観察は、それほど楽なことではない。自分で方法まで開発するには、長い時間を要する。最初の段階の一例をあげておいた方が良いかと思われる。

観察するのには、二つの大きな意味がある。第一は観察眼を養うことであり、第二は自分の特性を知ることである。観察は繰り返すことにより、次第に物事が具体的にいろいろな側面が見えるようになる。これは繰り返すことが重要で、簡単には進歩しない。

最初に取り組むのは、毎日3-5分間を決めて、自分が見ているものを記録することである。ここでは見ていることを、言葉で置き換えて記録することが重要である。繰り返していると次第に言葉に置き換えられるようになり、簡単に記録することが出来るようになる。また次第に記録が細部まで行くようになる。1週間に一度ぐらいの割合で、記録を読み返してみると、次第に記録した場面を思い出せるようになる。半年程度実施すると、かなり観察力が付いてくる。できれば数人で記録を発表し議論すると、効率が良い。
記録の整理は、単なる観察(見ていることの記録)、現象の記録(定性的:何が起こっているか。例えば多くの人がスマホをいじっているなど)、現象の割合(定量的:スマホをいじっている人の割合:観察何人中何人)など、様々な段階がある。

次に3-4ケ月したら、観察した記録の種類を整理して見る。例えば、食べることとか、異性に関すること、服装、動物に関すること、風景、季節などいくつかの共通点にまとめてみると、自分の特性が見えてくる。
このことは、自分の特性を理解する上でも重要である。仕事は少なくとも10年単位で考えないと、思うように勧めるのは難しい。長期間できるのは、自分の適性に合ったこと以外は無理であろうと思われる。その適性を見るうえで、観察の整理が役に立つ。

多くの若い人から、困っている人を助けたいと言う意見を聞く。人を助けるには、まず自分が自立していないと困難である。自立していない人の助けは、相手を巻き込んだ自己満足の援助であって、心理学的には「共依存」と呼ばれる状態になる。相手に対して必要な援助にはならない。十分に注意する必要がある。

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海外を目指す若い皆さんへ 2

海外を目指す若い皆さんへ 2  2018.10.02.

先月の新聞の投稿欄に、イギリス在住の大学院生から「宗教に文化 世界を知る教育を」と言う投稿があった。要旨は、「あなたの国の宗教は」と問われて、何と答えますか。グローバルな人材育成が推進されている今、様々な国と自国の文化や歴史、宗教を知ることの重要さを、学校教育を通して伝えてゆく必要があるのではないか、と言う意見であった。

いろいろな国を歩いていると、宗教の違いに出会うことが多い。しかし日本人は、あまり宗教を意識している人は少ない。いろいろ宗教的な拘束を、自分自身が持っていても気が付いていない場合もある。
宗教を持っていないのは、宗教に自由なようであるが、外国においては、物差しを持たずにものを測っているようなもので、相手の宗教に対しても理解が低くなる。文化についても同様で、自分の国の文化を理解していないと、相手の国の文化も理解が難しい。

日本の伝統的な文化を何か学んでおくと、いろいろな理解に役立つ。例えば私は高校生の時から剣道をしていて、のちに直新陰流を習ったことがある。深く理解していたわけではないが、かなり仏教の教えが入っていることを感じていた。このような理解は、他の国の文化を理解するうえで、いろいろと役立っている。表面に流れる文化とそれに影響を与えているものが、重層化していることを理解することが出来た。
また偶然の機会から、無宗教であった私が、仏教を学ぶ機会があった。最初から仏教に出会ったわけではなく、無宗教としての内観に出会い、そこから仏教の教えに繋がって行くことを得た。

その結果、日本の文化の底流に仏教が深く関わっており、様々な点で思考の中に影響している。言葉上のものもあるが、精神の内面に深く刻み込まれているものも大きい。私の両親は、ほとんど無宗教で、特に仏教には縁が薄かった。住んでいた村には、曹洞宗のお寺があったが、坊さんが酒好きで、村民からも嫌われていた。そのためかほとんどお寺の記憶はない。しかし、父は、木喰仏が好きで学生時代に撮影した写真が、居間に飾られていた。説明はなかったが、30年も後になってその写真が、丹波の清源寺にある木喰さんの自刻像であると知った。その穏やかなほほ笑みは、今でも印象に残っている。案外このころの印象が、後に仏教に出会う基を作っていたのかもしれない。

少し仏教を理解するようになると、共存のための宗教であることに気が付く。一神教と異なり、多くの仏、菩薩などが含めれている世界観は、他者の存在を許容する上で重要に思われる。日本における神道も同様に、多神教である。動かせない土地に縛られる農耕社会に適した宗教であることが理解される。

同時に、一神教について学ぶと、その起源が共存しなくてもよい社会に発生していることが学べる。

宗教の問題は、相手を理解する上で、重要な問題であると思われる。現在の学校では、教えられる先生がほとんどいない。自分で意識的に学ぶしかない。現在の日本には、58000もの寺があると言われている。過疎化して住職のいない寺も増えている。多くの寺は葬式仏教になっており、釈迦仏の真の教えを伝えているところは少ない。良いお坊さんに出会うのは、宝くじに当たるよりも確率が低い。おまけに自分自身に見る目が無いと、どれが本物であるかも分からない。しかし自分が心掛けていると、いつか真の仏教に出会うことが出来るであろう。


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