機心と言うこと

機心と言うこと

最近鈴木大拙博士の本を時々読んでいる。その中の「東洋的な見方」岩波文庫を見ていたら、荘子の外編の天地の中の「機心ということ」が書かれていた。この文章が書かれたのは、1966年ごろで今から54年も前である。

やや難しい内容ではあるが、現在の文明が分断に向かうことの危険が書かれており、分かっている人はいたんだと感銘している。1966年は私が就職してから2-3年後であるが、全く関心を持っていない分野であった。

その後1985年ごろになって、仏教に触れるようになってからようやく少し理解できるようになった。私の修行している寺には、多くの西洋人が来る。20人ぐらいの団体で来ていることもあるが、2-3人で来て数週間修行していることもある。その多くは、鈴木大拙博士の著作を読んで、仏教を志す人々である。

皆さんも機会があったら、読まれてはいかがであろうか。心が落ち着く本である。

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サクラ 3  花の記憶

サクラ 3  花の記憶    2019.05.01.

子どものころ集落に3人ほどのクマ撃ちの猟師がいて、毎年30-70頭程度のクマを捕ってていた。その内の最も良く捕る猟師が、家の近くにいた。飼っている犬、ハチは熊捕に優れた犬で、よく働いた。私に良くなついていて、クマが捕れるといつも案内に家まで来た。行くとクマの肉をご馳走してくれた。その猟師さんの持っている鉈のケースが、ホウの木で造られており、外側をサクラの木の皮で巻いてあった。使い込まれて皮が奇麗で、憧れていた。
どこかの家のお茶筒にもサクラの皮で巻いたものがあり、なかなか美しかった。
その後仕事についてから、各地を歩くとサクラの皮を使った装飾はいろいろ見られた。例えば、秋田の大舘の曲げワッパは、ヒバの薄板を曲げた弁当であるが、留め具としてサクラの皮が使われていた。森吉山に調査に行った折に買ってきた覚えがある。また大井川上流の大学の演習林に行ったときに作業員の人が持っていた弁当が、曲げワッパで生漆が塗られていた。黒くてサクラの皮は装飾の意味はなさそうであったが、丈夫そうであった。こちらは丸形の弁当で、上下合わせると十分5合の飯が入りそうな大きさであった。
新潟・福島県境の調査の時には、ついて手伝ってくれたマタギの方からワッパ汁作ってもらった。サクラの皮で止めたワッパに、水と味噌、キノコと山菜のミズ(ウワバミソウ)、ウルイ(ヤマギボシの葉柄)、イワナなどを入れ、河原の石を拾ってきて焚火で焼き、3回ほど入れると立派な味噌汁になった。

子どものころサクラの木は、硬くて滑らかになるので、ソリの材料として使っていた。作るのも、滑るのも楽しみで幾つか持っていた。この滑らかさは、彫刻や版木に良く使われている。韓国の国宝の寺である海印寺に行ったときに、国宝の大蔵経があった。当時修業を始めていたので、興味を持って般若心経を探した。般若心経の部分は、サクラの材で表は墨が塗られて黒光りして奇麗だった。しかし裏の部分は、板の特徴が読み取れサクラの板と判別できた。小さいころから炭焼きなどの手伝いをしていたので、多くの材はその切り口や板の表面から判別できるようになっていた。手ぬぐいよりやや大きな布に印刷された、般若心経を買ってきた記憶がある。日本ではお寺の多くは人里になるが、韓国では儒教の集会所は里にあるが、仏教のお寺の多くは山の中にあり、登るのは結構大変であった。
サクラの材は、古い木は独特の色を持つので、軽井沢の寄せ木の装飾や箱根の寄せ木の装飾でも見たことがある。

子どものころに、年末になると火の用心の当番が回ってきた。数人で夜半に拍子木を叩きながら、「火の用心」と大声をあげながら集落を回った。この時に使っていたのがサクラの木で、乾いた良い音がした。後に拍子木は、サクラの木が良いと聞いたことがある。サクラは身近な木で、昔からよく利用されていたようである。

その他にも、草木染めをしている方に聞いたときに、サクラの花の開花前の若枝を使と、桜色になると言っていた。
サクラの木は、燻製の燻す材料としても優れている。学生のころに豚1頭を解剖実習で使い、後で加工実習を行ったが、ハムやソーセージの燻製はサクラの枝を集めてきて使った。

ところで、フサザクラと言う木があるが、これはサクラの仲間ではない。乾燥すると非常に硬くなる木で、昔は二階に上がる階段などに使われていた。狂いも少なく良い材料であるが、大工泣かせであると聞いたことがある。
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サクラ 2  花の記憶

サクラ 2  花の記憶   2019.04.22.

私の育った信州の中央部では、かなり乾燥するのでお茶をよく飲む。ただしほとんどお茶はできない寒いところであるから、静岡や愛知県から輸送されて来ていたのだと思われる。愛知県に来てみると、お茶はかなり異なった文化であるように思う。まるでお茶の質が異なって、上等なお茶を少し飲むように思われる。おまけにお茶請けとされるものが、信州では野沢菜やタクワン、愛知県ではお菓子である。信州でもお菓子が出ないことはないが、ほとんど日常は漬け物である。また愛知県である小学校に伺った時に、抹茶が出され日常的に飲まれているのにも驚いた。私の育った村では、結婚に関する諸行事の時には茶は出さず、サクラの花を塩漬けしたサクラ湯を出す風習があった。お茶は、「お茶に濁す」、「お茶に流す」などとお茶を飲みながら適当に妥協し、争いを起こさないように理解できる言い伝えがあった。そのために、末永く結ばれるべき結納や結婚式では、サクラ湯であった。サクラ湯はサクラの花を塩漬けにして保存したもので、八重桜(集落に3-4件そのサクラの木がある家があった)が良いとされていた。塩漬けするときに酢を少し入れると、花弁の傷が変色しない。九州の友人が、お茶を生産している家では、自分の家の一番良い木のお茶を結納に使うと聞いて、地方による文化の相違を痛感した。
サクラ湯は、かすかなサクラの香りと塩味がうまかった。

サクラについて書きだしたら、いろいろとお記憶が蘇り、まとまりがつかなくなった。続編は後程。
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韓国国民の変化 2

韓国国民の変化 2      2019.03.28.

韓国の変化で、もう一つ目立つ点は、核家族化である。1980年代に訪れた時には、まだアパートは少なく、戸建て住宅が多かったように覚えている。住宅には庭があり、周囲を塀で囲いながら、塀の一部は住宅の壁で、3方向ぐらいに部屋があった。そして多くは、それぞれの年代の家族が住んでおり、訪問すると年配の家族から挨拶に伺うのが普通であった。

もちろん都会には核家族もあったが、それほど多くはなかった。1990年代に入ると、ソウルやプサンなどの都市部には、巨大なアパートが立ち並び、景気の向上と相まって、皆さんアパートに住むようになった。このアパートには必ず、キムチを置く部屋が必ずついていた。韓国は地震が少ないので、アパートは高層で、かつ集団化している。

最初訪韓のころには、春には年寄りと孫が摘み草などをしていた。1990年ごろになると、そのような姿は少なくなった。1990年ごろであったと思うが、日本の小学校の先生たちと
韓国に出向いた。先生たちが驚いたのは、教科書にある豆の栽培などについて、ほとんど詳しい説明がない点であった。ある市の教育長さんは、先生は自分で経験しているから、細かい説明はいらないと言った。日本では、小学校の先生はすでに農業の経験はほとんどなく、肥料と間違えて鳥のエサを畑にまいていた先生がいた時代になっていた。韓国でも、高層アパートの時代になると、先生たちの経験は少なくなり、日本と同じように細かな説明が必要になったであろう。子どものころに農業などの大地に触れる体験が少なくなると、感情が不安定になり、攻撃的になりやすい。

核家族が多くなるにしたがって、子どもたちは親以外との接触が少なくなり、人との接し方が狭くなり、価値観が狭くなる。このことは成長するにしたがって、接するものに対する選択肢が少なくなってくることになる。これはストレスの大きな要因である。いろいろな考え方が出来、様々な対応方法を持っていれば、ストレスは少なくなる。

韓国の現在の状況を見ると、日本における家庭内、子ども同士、社会における攻撃性とあまり変わらない状況にあると思われる。
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韓国国民の変化

韓国国民の変化      2019.03.25.

韓国に最初に行ったのは、1980年で、朴槿恵元大統領の父親が暗殺された翌年であった。暗殺時に飲んでいたとされるシーガスリーバルが持ち込み禁止になっていたので、よく覚えている。この時には38度線の非武装地帯のフェンスの見えるところで、ネズミの調査を行った。この時には、阪大の微研の科研費であったので、あまり自由はきかず、生きているタイを唐辛子鍋で食べるような不便さがあった。

それから2年ほどして、知り合いの先生から韓国の留学生を依頼された。彼は学位を取って帰国し、プサンの東亜大学の助教授になった。彼は環境保護の教室に属していたので、彼の調査の手伝いで2-3年間に数回韓国に出向いた。毎回2―3週間の滞在で、南の方の智異山(韓国で一番高く、大きな山塊)とソウルの近くの東国大学の雲霧山演習林で調査を行った。

この調査では、韓国の田舎に暮らし、多くの人々と触れ合うことが出来た。韓国語は全くできなかったが、留学生と言う良い通訳が居たので不便は全くなかった。韓国語は発音が難しく、私には聞き取り、話などで無理だとすぐに判断した。

韓国の田舎で感じたのは、大阪で直面していた在日韓国人の人々の激しさとは全く異なる、穏やかさと優しさであった。日本人が日本において如何に韓国の人々をいじめていたのかが痛感され、暗い気持ちになったのを覚えている。日本に連行されて、トンネル工事で働かされたという老人は、「あなたを責めるのではない。しかしあなたはそのことを知らなければならない」と言った。一緒にマッコリ(韓国の濁り酒)を飲みながら。

調査時当時に既に財閥の姿は、想像を超える状態であった。サムスン(三星)、現代自動車、ロッテ、現代重工業、韓進(大韓航空・開運)などが台頭し、ある会社はジェット機を数機所持しているということであった。国防費は、37%に達し、国民は貧しく、服装も質素であった。走っている車は、今の日本の軽自動車の様な、ポニーだけであった。

その後間もなく、中・高・大学の入試競争が激化し、大統領令で大学生の家庭教師が禁止される事態になった。このころから韓国社会は、ストレスの多い事態になり、人々が非常に攻撃的になったように感じる。現在は、日本以上にストレス社会の様に思われる。日本に対する攻撃的態度は、文政権の人気取りとともに、国民の感情の変化が感じられる。

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子どもの虐待やいじめ

子どもの虐待やいじめ    2019.02.12.

最近子どもの虐待のことが大きな話題になっている。子ども同士でのいじめも起きているが、あまりにも多すぎて大きく取り上げられることは少ない。

これらの問題は共通している部分があるが、あまり話題になっていない。

私は研究の初期に、野外のネズミの個体数の変化を調べていた。大阪に転職したころに、医学部であったので家のネズミについても研究するところとなった。

野外のネズミでは、社会の作り方が様々で、高密度になる種や自分たちで調節して高密度にはならない種類もいる。家ネズミであるクマネズミで実験を行った時に、ある密度まで増えると副腎が肥大し、攻撃的になり、群れが崩壊に向かうことを観察した。これは副腎から出るアドレナリンの働きにより、攻撃性が増し互いに殺しあう結果である。

アドレナリンが増加すると、非常に攻撃的になることは知られている。例えばニホンザルでも妊娠すると副腎が大きくなり、アドレナリンが増加すると思われる。このためメスであっても子どもを持っているメスには、上位の雄でもほとんど手を出さない。これは自然界で、子どもの生存率を上げるために発達した機能であろうと思われる。
社会的ストレスでも、副腎が肥大しアドレナリンが増えることは、クリスチャン女史による「社会ストレス説」として認められている。
現代の社会はストレスが多く、多くの人がストレスを抱えていると思われる。それに加えて、子ども時代に自由が無く、持っている遺伝子情報を十分に発達させられないままに成長する。この様な現象は、ここ100年ぐらいの間に起こったことで、それ以前は自然との接触によって何百万年かの遺伝子情報を自然に育てていた。自分の能力を伸ばせないで大人になると、様々な仕事の場面でストレスは増幅する。
生まれてきた子どもが、最初の段階で接触する保護者との関係も重要である。ここで十分な関係が出来ないと、以降の人間関係を上手くできず、常にストレスにさらされている状態になる。例えば母親が授乳しながらテレビなどに気を取られていると、子どもは母親との良好な関係はつくれない。この様な環境で育った親による育児は、さらに問題を難しくする。現代の社会は、ストレスの増産を行っているように思える。
ストレスが増加し、アドレナリンが増える状況にあると、突然激高に及ぶように思われる。ヒトでの研究は少なく、今後の大きな課題であろう。子殺しや親殺し、いじめなどには関係が深いと思われる。現在は血液などで、体内のホルモンの量が簡単に測定できる時代である。
脳科学者の中野信子氏は、『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書:2017)を書いているが、これは脳内物質からの提言である。
現代のようなストレス社会では、アドレナリンとヒトの行動の関係などの研究がもっとあっても良いと思われる。

話は異なるが、テレビの番組の出演者を観察していると、いかにもアドレナリンの増加に支配されているような表情や発言が多い。正義の味方の様に児相や親を非難しているが、本人の家庭は大丈夫であろうか。題材になっている事件の当事者と、あまり変わらない状況に置かれているように見える。
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世界対がんデー

世界対がんデー     2019.02.10.

がんに対する日が存在するとは知らなかった(多分2月4日)。しかし最近がん患者は明らかに増えており、人生の中の大きな課題になっている。日本人でも、2人に1人はがんになる時代で問題は大きくなりつつある。

様々な治療法が発達して、治療後に長生きする人も少なくない。かく言う私も、2010年に大腸がんになり、7-8時間もかかって手術を行って頂いたおかげで、現在も元気に生活している。

がんの治療法は進化したが、心の安定を保つことも重要である。がんは細胞の自殺によって起こると言う説もあるくらい、精神的安定は重要である。ところが実際には、医学の現場ではなかなかこの分野の取り組みが進んでいない。一つには治療の現場では、西洋的な理論が優先しているために、全体を捉えられる人材が不足している。カウンセリングや精神医療的方法を取られているが、死に対する認識は不十分であると思われる。と言うのは、実施する本人の死に対する認識が不十分であるためと思われる。生と死は、日常的に同じものであり、常に両者を認識している必要がある。ところが通常の日常では、死を意識している場合は少ない。死の重要性は、医療がいかに進んでも、死は必ず訪れるのであるからである。がんで大きく問題になるのは、今でもかなりの確率で死にいたると思われ、患者が死の恐怖におののくからである。本来生きていると必ず、確かに死が来るのであって、逃れる術はない。それであるにも関わらず、現在の日本人の生き方は、死から離れすぎている。私の子どものころは、祖父や祖母を家で看取り、死と直面して生活していた。これらの経験から自然に、死についての認識は深まっていった。昔でも死を恐れている人はいたが、恐れない人もおり、どちらが人生の師になるかは自然に感知していた。

がんになってみると、いろいろと新しく認識することもある。私は、2010年に手術をしたのであるが、2007年ごろには下血があり、がんであろうことは認識していた。当時カンボジアでの仕事が忙しく、すぐには死なないので日本に帰ってからと思っていた。このころに右の耳垢が粘るようになり、不思議だと思っていた。本来耳垢に粘性があるのは、劣性遺伝子で、非常に少ない形質である。左耳は普通の耳垢であるが、右が粘ってあまり取り出せない。日本に帰る毎にいろいろなミミカキを買い求めて、トライしてもうまく取れない。ある時ごっそりと大きな耳垢が、ほとんど5ミリ程度の筒状に抜けてきた。あまりにも見事なものだったので、しばらく机の上に飾っておいた。アフリカで調査していたころ、野火の走った後の原野を歩き回ると、ハナクソガしっかりと筒になる。「鼻くそが、指輪に抜ける、サファリかな」(サファリは、旅行、旅などを意味する)なんて句を詠んで、ヒンシュクを買って居たことを思い出した。
耳垢の粘りは、2010年に手術をしてからは、すっかり姿を消したので、がんの影響であったろうと考えている。

鼻くそついでであるが、カンボジア人は、鼻の穴が大きい。最初に名古屋大の先生とカンボジアに行ったときに、鼻のあたりを手で覆い、このあたりに問題があるのでカンボジアには美人がいないといっていた。確かに鼻の穴が大きい。市場などでは、おばさんが鼻の穴を親指でほじっているのを見かけて、私も親指を入れてみたが入らなかった。日本人にはなじみの薄い顔であるが、慣れると意外な面が見えてくる。鼻があぐらをかき横に広がっているが、笑った笑顔はかわいらしく、表情が豊かである。日本のテレビなどで見かける美人は、いかにも表情が薄く、内容まで軽薄に見える。多分何をやってもカンボジア人の生活の実践力には遠く及ばないからであろう。

がんは確かに死に近い病気ではあるが、がんにならなくても必ず死ぬのであるから、普段からもっと死と取り組んでおくことが人生の良い過ごし方であると思われる。生きたようにしか死ねないであろうから。
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裕福の中の貧困

裕福の中の貧困   2019.01.10.

現在の日本はそれなりに富裕層も多い。戦後に比べると格段に生活は良くなり、はるかに裕福になっていると思われる。しかしながら、実際の生活では貧しい生活を選んでいる人が多い。何が貧しいかと言えば、精神生活が貧しいのであろう。先に書いた「地獄への道」のさる車会社の前会長ではないが、たくさん持っているにもかかわらず、使い方が理解できていない。沢山持っていながら、なおかつもっと欲しいと走り回る。欲望は際限がない。
一般に資産が多いと裕福と思われているが、人生は資産の量では決まらない。
江戸の中期の白隠禅師は、「衆生本来仏なり、自我の心で迷うなり」と述べて、欲望や地獄への道を戒めている。一遍智真上人も、「百利口語」の中で、人身を得て人生を送りながら、物を欲しがる心根や妄念で無駄に過ごすことを戒めている。

南青山の児相問題なども、自己中心的な欲望に過ぎないように映る。反対している本人達は、自分の行動や欲望を見ることがあるのであろうか。おそらくそのような機会が無いまま、人生の多くの時間を過ごしてきているのであろう。

人生は、自分自身のものである。誰に遠慮をすることもない。しかしながら、自分自身を見る機会を持たないで過ごすと、自我によって欲望や競争心に引き回されることになる。どこかの社長さんが、1億円のお年玉を配ったと言うが、おそらく自分の人生を顧み機会などを持たなかったことによる暴走であろう。自分自身では常に自分を顧みているつもりでも、何かのこだわりに引き回されてみていると、部分を見ているだけで全体は見えない。

人生は、常に普遍的な本質について、追及する必要がある。
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沖縄の基地問題

沖縄の基地問題   2018.12.21.

日本の防衛大臣、岩谷毅氏の発言を聞いてあきれることがある。
沖縄の辺野古埋め立てについて、「これは日米防衛協定のためではなく、日本の国民のためであると」と正当化しているつもりで話している。

日米防衛協定のためではなく、国民のためにするのであれば、沖縄は犠牲になっても仕方が無いと言うのであろう。そもそも政府全体に、沖縄の立場を全く理解していない。終戦の直前に多くの犠牲を払い、さらに返還までに犠牲を払い、返還後も基地の過重な犠牲を理解していない。

国民のためであると言うのであれば、国民は平等に基地の負担に応じるべきものである。

日本に存在する米軍基地の全面積を、国民に数で割り、各個人の負担分を計算し、各県ごと位に計算し、負担の少ないところはその分を何かの代替えで負担するようにする必要がある。基地の位置の問題があるのであっても、せめて負担面積の均質化は免れない。その分をそれ以外のものに換算して負担するべきものを見つける必要がある。

岩屋大臣の発言は、この様な発想はなく、基地は沖縄に押し付けて当然であると言った思考体系である。そもそも政府は、基地の軽減のためにと言いながら、嘉手納から他の位置に移せば軽減されると思っているのでろうか。沖縄以外に移して初めて沖縄の基地負担の軽減と言えるのである。その辺お思い違いを、野党ははっきりと正すべきであろう。
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冥土への道

冥土への道  2018.11.24.

最近色々な報道で、死に場所や尊厳死などが話題になっている。しかし肝心の死に行く本人に何が大切であるかは、ほとんど議論されていない。これこそ現代医療も含めて、本質を見誤った議論であり、混迷を深めるだけである。

人の死は、本人がどのように冥土に行くかが肝心で有って、その他のことはどうでも良いことである。死に場所が、病院であろうと家であろうと、ほとんど関係のないことである。死ぬときに本人が、人生に感謝し、喜んで冥土に行ければ、他に望むことはないであろう。病院か家かなど何処で死ぬか、尊厳死を選ぶかなどは、この本質から外れた議論である。延命措置などは、本人が満足を得るために必要な時間であれば、意味があろう。しかし、多くの延命措置は、このような状況にはないことは、医師は普通認識している。しかし医師の意志が弱かったり、本質を捉えていなかったりしていると、付き添いの家族などの意向をくんで延命措置などを行っている。これは本来の医療が、道を間違えて結果であろう。だいたい多くの医師が、死に行く本人に引導を渡すだけの力量がないことが多い。これでは真の医療にはならない。医師は歴史的にみると、シャーマンや坊主から出ており、死者に引導を渡すのが本来の一つの重要な役目である。近代の西洋医術は、病気の部分だけを見て、人間を見ていない。一般に西洋の学問は、部分の法則性によっており、全体を見ることに欠けている。人生において病がどのような役割を持っているかをほとんど理解できていない。このために周囲の状況に左右されて、本質から外れている。

死後の墓についても同様で、様々な議論を呼んでいる。お寺では葬式と墓守で運営している所もあるが、仏教を開いたお釈迦様の教えとは程遠い。お釈迦様は、葬式をせよともお墓を守れとも言ってはいない。お墓を大切にしたからと言って、先祖を大切にしていることにはならない。先祖を大切にするのであれば。その意思を尊重することこそ大切である。時々に反省し、教えに沿うことは意外に大変で、多くの人が実行していない。墓参りをして、形だけ整えた方が、楽なのである。

冥土が近くなると、いろいろなことを考えるものである。本質を間違えると、冥土への行き方も間違える。生きたようにしか、死ねないのであるが。
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