突然マンゴーシーズンに突入

突然マンゴーシーズンに突入               2008.3.26. 金森正臣

 地方の中学校教員養成校(RTTC)と小学校教員養成校(PTTC)の見学に出かけた。どちらにも海外青年協力隊員(JOCV)が入っている。プノンペンからは、かなり南のベトナムに近いタケオ。1993年ごろに、日本のPKOが初めて派遣された場所である。3月19日の朝出発し、途中で朝飯。走っていると、道の脇でマンゴーが山積みされて売られている。マンゴー好きとしては、帰りに買って帰ろうと計画した。

 仕事を終えて次の日の昼過ぎに、タケオを出た。ところが昼過ぎにはマンゴーが激減。どうやら皆さん暑いときには、昼寝をしているらしく、店の数が少ない。この地方のマンゴーは、カンボジアの中では大きい。開いている店に寄って、値段の交渉。大きいとは言え、1ドルで4個はかなりの値上がり。

 最初にタケオを訪れたのは、多分2001年。その時には確かに1ドルで6個。カンボジア人の同行者が、負けろと言ったら、7-8個になって、ホテルで食べるのに苦労した。とにかく大きいので、1回に1個しか食べられない。朝食はホテルのビュッフェに果物があるので、パス。昼と夜は外食なので、食べるのは夜帰ってからだけ。あまり置いておくと傷むし、あせりながら食べた。百姓の出で、戦中の育ち、食べ物はおろそかに扱えないし、増して食い意地が張っているから、捨てられない。胃袋はゴミ箱ではないんだと言い聞かせても、食い意地が勝る。

 高くなったと思いながらそれでも、1ドルで4個買ってきた。ところが、オフィースに帰ってびっくり。山のようにマンゴーが机の上にある。そう言えばこの時期、毎年学長さんからマンゴーをもらう。彼の家は、タケオからさらに2時間ほど入った田舎。庭にマンゴーの木が何本もある農家。「あなたに会えなかったが、家の庭で取れたマンゴーです」とメッセージが添えられていた。カンボジアの家では、それぞれ自慢のマンゴーの木を持っていて、自分の家のものが上手いと自慢だ。学長さんの家のは、甘みが強く独特の味。バイスダイレクターの家のは香りが良い。高級品らしく薄紙で包んである。突然のマンゴーシーズンの到来に、嬉しいが傷んでしまうのではないかとやや焦り気味。冷蔵庫に入れておいても、一週間ぐらいしか持たない。写真の大きな一個は買ってきたもの、その他は学長さんから頂いたもの。このほかにまだ数個ある。どれも日本で売っているアップルマンゴー(丸い形のもの:主にメキシコなどから入っている)よりも大きい。
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車が壊れた 

車が壊れた                    2008.3.21. 金森正臣

 先日久しぶりに、地方の中学校教員養成校に出かけた。朝6時に出発して約40分で車が動かなくなった。プノンペンからベトナムに向かう、国道1号線。日本の援助で最近改修中の道路。埃だらけの真ん中でスタック。降りてみると、右後ろ後輪が外に出ている。すぐ近くに市場が有る小さな村があったので、雇っているドライバーが修理工を呼んでくる。この間我々はあきらめて、近くの食堂で朝飯。カンボジア人の定番、米の麺のクイティウ。

 朝食の間に、修理工が状態をチェック。プノンペンまで行って、部品を買って来ないと修理ができないと言う。約2時間はかかるだろう。そこでいろいろ考えた末、車は運転手に任せて、我々は乗り合いタクシーで、メコンの渡しまで行くことにする。幸いすぐに乗り合いタクシーが拾えて、メコンの渡しへ向かう。渡しまでは1時間ほど。

 タクシーはハイエースクラスのワゴン車で、20人以上乗っている。荷物は屋根の上まであり、乗客も一人は屋根の上。客はおおらかで、隣のお母さんが、大きなおっぱいを出して子どもに授乳している。昔は日本でも普通の光景であったが、いつの間にか西洋風に、人前では授乳をしないのが常識のようになった。ブラジャーなどが普及し、女性がおっぱいを出すのは恥のように思われだしたのはいつのことだろうか。母親は、子どもの欲しいときに授乳するのが良い。西洋の文化にかぶれるのは自由だが、私には何処か馴染めないところが有る。

 渡し場はいつもよりフェリーの数が多かったので、順調に渡れた。その後タクシーを見つけて、目的のプレーベンに10:40分頃到着。最初の授業には間に合わなかったが、午後からは目的を果たした。10年前に比べると、授業に格段の進歩があり、支援が無駄でなかったことを実感できて幸せな気分だった。でも入っている海外青年協力隊員の2人(任期は2年、現在1年目と9月目)には、改善されてきている実感が無く、苦労しているようだった。
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民間援助最前線 4 井戸 

民間援助最前線 4 井戸     2008.3.11. 金森正臣

 この支援団体では、作った集落に井戸を掘っている。写真は、出来上がったばかりの井戸を点検しているメンバー。カンボジアでは、生活水は川や池、溜まり水を使うのが普通である。前回報告の家に、大きな水瓶があり、雨季に雨水を貯める様になっている。自然水は、アメーバー赤痢や大腸菌などが繁殖することもあり、飲み水としては危険である。煮沸して飲めばよいのだが、大人は既に結構免疫抗体を持っているから、不用意に子どもに飲ませることもある。特にまだ抗体の弱い乳幼児にとって危険である。

 アンコールワット遺跡などでは、空から降る水(雨水)は、天国からのものであり、地下から湧き出すものは、地獄から来るものとの考えがあった。そのために、アンコールワットの第三回廊に登る前には、雨水を貯めるプールがあり、そこに貯めた雨水で身を清めてから神の領域に登った。この様な考え方が、現在も生きているかは不明であるが、なんとなくカンボジア人は、雨水を良く使う。理由を聞くと、湧き水は体に良くない(確かに日本では考えられないほど硬水で、日本の石鹸は泡立たない。硬水を使うことを前提にしている韓国の石鹸は、良く泡立つ)と言う。この集落の付近には、石灰岩の山があり(フズリナの化石が入っていることも多い)水は硬水である。

 カンボジアは、乾期は11月頃から5月頃まで。大陸続きであるから、かなり変動がある。乾期にはほとんど降らない年と、時々お湿りがある年がある。降る年でも乾期には、生活用水はかなりきびしくなる。健康な生活には、貴重なものである。

 将来は、この集落で灌漑用の井戸を掘り、二毛作を目指している。収入を増やすには、二毛作が最も早い道であろう。しかしカンボジアは、平和が訪れてからの日が浅く、ポルポト時代に途絶えた技術はまだ熟していない。米は安いので、機械を使っての二毛作は採算に合わない。また、以前から食べるものは比較的豊かだったのであろうか、灌漑の技術はあまり発達していない。最初は、集落の中に作った飲料用の井戸の周囲に、試験的に作ることから始めるのが、普及のためには必要なように思われる。
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民間援助最前線 3 手作りの家

民間援助最前線 3 手作りの家     2008.3.6. 金森正臣

 貧しい家は、付近から材料を集めてきて、自分で作る。写真の家も、柱は付近から切ってきた丸太。屋根や壁の部分は、湿地に生えているイネ科の植物を刈り干しして、割り竹の芯に巻きつけて編んだもの。家に上がる階段だけが、板を使ってある。この板もかなりヨレテいて、自分で木挽きしたものらしい。製材所の機械で引いたものではなさそう。家の中の床材は、竹を割ったものが使われている。家の脇には、談笑している場所に屋根が延長してある。リビングと言ったところか。貧しいがご主人の努力が伺える。

 ご主人も奥さんも、30代前半と思われる。子どもは、6人ほど数えられるが、前に棒を持って立って居る子は、多分よその子ども。ここの夫婦と同年輩のどこかのおばさんが、赤ん坊を抱いて遊びに来ている(写真で背中が見えている女性)。暑くなって来た時間なので、ゆっくりとおしゃべりを楽しんでいる。乾季で急がなければならない仕事も無い。にこやかに談笑しているこの夫婦の家庭は、幸せそうである。

 家財道具は、写真で見られるだけ。縁台の右端に、鍋が1つと薬缶が1つ。この家では手前にコンロがある。床下には、自転車が置いてある。左の端には水がめが有り、炊事、洗顔、行水などに使っているのであろう。その手前には子犬がのんびりと寝ている。家の中には家財道具は何も無く、全てはこれだけ。分かり易くて良い。

 援助に来ている日本人の多くは、カンボジア人は物の整理が出来ないと嘆く。でもこの様な生活をしていると、物を整理する必要はまったく無い。整理するような物は無いのだ。突然いろいろなものを整理しろと言われても、どのようにしたら良いか見当が付かないであろう。その辺の生活文化の違いを理解しないで、援助をするのは危険な気がする。相手の文化の無理解のために、不幸な結果になることは多い。援助とは異なるが、先日オーストラリアで、白人社会がアボリジニーに謝罪をした。彼らがアボリジニーの文化の独立性を理解するのに、100年もかかったのは、白人の文化が低くかったためと思われる。アメリカでも同じようなことを、インディアンたちにしてきた。低い文化で、より高い文化を理解することは難しい。日本人は、欧米の文化を高いように思っている人が多い。それは、知識や物質だけで頭でっかちになっており、精神的な自国の文化を理解できていないからである。自分の文化を理解し、自前の物差しを持たないと、比較が十分に出来ないからである。物質文明に惑わされると、精神的文化の重要性は、見落とされやすい。人生には、物質や金とは異なる、精神の陶冶が必要である。

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