カンボジアの果物  カシューナッツ

カンボジアの果物  カシューナッツ          2007.10.30 金森正臣

 写真は、カシューナッツのフルーツ(花托の部分が果実の様に見える)と勾玉の様に見える果実。この勾玉様の中にある仁の部分を炒ると、食用にするカシューナッツ。中南米原産と言われており、カンボジアでは植栽。

 カシューナッツ(学名:Abacardium occidentale )は、ウルシ科の植物で、かぶれる。特に勾玉様の部分の果汁は、かぶれがひどいと言われている。加熱するとかぶれなくなる。果実の様に見える部分は、黄色いものと赤いものがある。この部分は、熟した程度が良いものは、ジューシーで甘みがあり、食べられる。ただし柔らかくて、繊維がかなり多いので、食べられる時間は短い。栽培している目的は、主に勾玉様の中の種子。 

 以前に良く遊びに行った農家では、池にナマズが飼われており、周辺に沢山のカシューナッツの木があった。写真の状態でボタボタと落ちてくると、勾玉部分だけ集め、フルーツ様部分は、ナマズの池に投げ込んでいた。ナマズは大挙して集まり、えさの紛争戦をしていた。ナマズは動くものは何でも食べると言うが、果物が餌になるとは、意外であった。

 カンボジアでも、スーパーマーケットでは、外国産のカシューナッツが、小さな袋に分けられて高価に売られている。しかし、カンボジア人の行く生活市場に行くと、大きな袋に入った物が、量り売りされている。味は、塩味とやや醤油味的な2種類があり、こちらの方が新鮮でうまい。炒ってから時間が経つと、脂肪分が変質し美味しくない。カンボジア産がお買い得。でも生活市場は、クメール語しか通用しないから、苦労する。
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わけの分からなくなった紅茶 

わけの分からなくなった紅茶              2007.10.27. 金森正臣

 暑くなって来たので、扇風機を回しながら物を書いていたら、のどが渇いて来た。以前にスーパーマーケットで手に入れたレディー・グレイ(果物の香りのアールグレイ:なかなか香りが良く気に入っていた)と貰ったばかりのハーブティーを混ぜて入れてみた。

 なるほど両者の香りが混じっていることは分かるが、写真の様に複雑になりすぎてチョット失敗作。中央の紙パックが、アールグレイ。周囲にはハーブティーの花びらやレモングラスの茎などゴチャゴチャ。別々に飲もうかとも思ったのだが、足が不自由でコップを洗うのが面倒なので、手抜きをした。やはり手抜きは良くない。
 
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マスコミと人生について 8 

マスコミと人生について 8             2007.10.28. 金森正臣

 マスメディアの悪い面ばかりを書いてきたが、少しは良い面も見よう。先日友人に、仏教の中心的経典である、『般若心経』の良い解説書が無いかと、聞かれた。日本に帰ったある日、新聞を見ていたら、百歳になられた松原泰道老師(老師:禅宗で修行が進み、師匠から後輩の指導をするように許可の印として与えられる名称)の解説になる本の広告が載っていた。新聞にでも載らなければ知る由も無い。

 早速本屋に行き立ち読みしてみると、なんと明快で分かりやすく書かれている。現代風にCD付きで、講話も入っている。

 松原泰道老師は、臨済宗の京都五山の筆頭、天竜寺の管長を勤めた方で、仏教界では知られた方である。般若心経は、仏教の中で最も短い経であり、262文字。唐の玄奘(げんじょう:西遊記で知られる三蔵法師)訳の経典が一般に知られているもの。短いが、最も要点を述べた経典とされている。三蔵法師が持ち帰った経典からすると2000年を超えて読み継がれている。

 老荘思想(道:タオの教え)とも共通するところがあり、中国で発展した思想が、般若心経の漢訳を可能にしたと言われている。人生の要点を教えている。
 他にも、薬師寺の管長をされた高田好胤師の『母』と言う講演が、本とテープになっているのがお勧め。たった5歳までで分かれた母が、生涯の修行の力になっていたことが分かり易い。内容は、「父母恩重経」について述べたものであるが、巻頭で般若心経に触れている。母親の重要性は、接している時間では無い事が良く理解できる。仏教の般若心経やキリスト教の聖書は、教養書としても読んでおいた方が良いと思われる。
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マスコミと人生について 7

マスコミと人生について 7                  金森正臣

 最近ニュースを見ていたら(カンボジアでもNHKのニュースが見られる)、様々な食品の偽装事件が取り上げられていた。名古屋コーチン、赤福、ミートホープのひき肉、比内鳥などなど。まだ色々あったようだが。NHKのアナウンサーは、まるで正義の味方の様に論説していたが、マスコミ自身が作り上げてきた結果であることには、全く気が付いていない様であった。
 
 元を質せば、マスコミによる価値の単純化による競争原理の勝ち組の賛美や言葉の空洞化による倫理の欠如であろう。競争原理による勝ち組の賛美は、多くの人の価値観を、競争原理に勝ち進むことに価値があるような錯覚を引き起こしている。人生に勝ち負けなど存在しないが、その点を忘れてしまっている。今回の偽装事件で、共通していることは、いかに金儲けをするかと言う、競争原理に発している。

 他方、被害者の様に見える消費者は、自分を見失っており、味さえもマスコミに操られている。有名産地のものが美味いと思い込んで、しっかりした自分の存在が無い。偽装業者にしてみれば、味の分らない消費者には、偽装して分からないと言った思いがある。この組み合わせが、今回の偽装事件の発端であろう。その価値を長年にわたり形成してきたのは、マスコミ自身である。そのことを正しく見つめないと、このような事件は後を絶たない。

 ずっと以前に、どこかの大国の剛腕な大統領報道官が、片側で紛争の火種をまいて置きながら、片方で調停に走り回り、ノーベル平和賞を貰ったことがある。部分だけを見ていると大きな誤りを招く。自分の人生は、自分自身のものであるから。
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カンボジアの算盤

カンボジアの算盤                 2007.10.27. 金森正臣

 ある田舎の家に寄った時に、算盤が有った。しかし50歳代と思われるご当主は、使うことが出来ないと言っていた。ずっと以前から家に有ったと言う。この家の氏名からすると、も中国人に起源を持つと思われるが、不明。

 写真の算盤は、5の玉が二つ、1の玉が五つ。日本にも江戸時代にはあったタイプの様に覚えているが確かではない。我々の子ども時代には、5の玉が1つで、1の玉が5つのものがあった。しかし主に使っていたのは、1の玉が4つのものであった。1が5つ集まると繰り上がるから、最もシンプルに進化したものである。

 算盤の優れたところは、数字を記号としては無く、量として認識できる点である。高校時代には、2級程度まで練習したが、受験料が無かったので検定は受けたことが無かった。商業的な方向に進むことが眼中に無かったか、それほどの価値を見つけ出せなかったからかもしれない。しかし、長く研究を続けて見ると、算盤が優れた数量の基礎を作っていてくれたことに感謝している。算盤も1級程度になると、ほとんど玉を動かさず、頭の中で玉が動いていると言う。しかしそれまでに成るためには、多くの練習がありその過程で、数と量が一致してくる。カンボジアで教えていると、先生たちの算数に対する弱さがひどい。算盤でも普及するのが最も早いような気がする。
 
 話は異なるが、このそろばんの出来をとくとご覧あれ。角は直角ではない、球を動かす軸は歪んでいる、球の大きさが異なるから1の玉を5つ重ねると上が揃わない、動きはスムーズではないなど日本では考えられない出来栄え。でも役割は果たす。ここがカンボジア流。ウーン。でもこれでは、2級とか3級には間に合わないヨナー。でも熱帯だからゆっくりが良いか。アフリカにもポレポレと言う言葉があって、ゆっくりと言う意味。よく使われる。獲物を追いかける時には、ポレポレ。でもニャーティー(バッファロー)に追いかけられた時には、そうは行かない。
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マスコミと人生について 6 

マスコミと人生について 6             2007.10.28. 金森正臣

 全国の学力試験の結果が問題になっている。沖縄の教育委員会では、平均よりも低かったことで、著しく恐縮している。本当にそうであろうか。以前報告にマスコミに流されると、価値が単純化することを書いた。その典型のように映る。多くの学者が集まって、良い問題を作ったからと言って、たかがペーパーテストで、本当の力が分かるはずもない。この様な全国テストを試みようと言った発想が、思想の貧困を物語っている。

 肝心なことは、子どもたちが勉強した結果を、どのように人生の中で使えるかにある。勿論テストをして、知識がどの程度まで達したかを理解することは大切である。しかしそれは、人と比較する様なものではない。全国テストの結果などは、子どもたちの知識が人生で本当に使えるかどうかの目安にはならない。子どもたちに競争心を起こさせることや先生達に競争心を起こさせることが目的のように思われる。その結果が、巻頭の沖縄県の対応に表れている。もちろん競争心で頑張らせることも必要ではあるが、それが全てではない。

 義務教育の期間には、子どもたちは時間の3分の一を学校に拘束されている。そこで習ったものが、人生の役に立たなかったら悲劇である。先生になったり研究者になったりするには、小学校の高学年での算数も大切かもしれない。分数の掛け算や割り算は、多くの人々の人生の中で使われることは少ない。その思考の過程は大切であることは理解できるが、かなりの先生が思考の過程を理解せずに、問題を解く方法を教えている。これでは人生で使うことは難しい。だいたいこの点のつまずきは、数字が記号として扱われている点にある。数字は、本来量を表すものであって、計算は量を簡便に扱う方法に過ぎない。放牧民の中には、数学は出来ないが、ヒツジやウシの群れであれば、150頭位を柵の中に入れる時に、何匹足りないか即時に分かる人たちがいる。この様な数の扱いを『民族数学』と名付けた人があるが、西洋の数学とは異なった論理で成り立っている。勿論日本に関連した世界に生きる子ども達には、西洋の数学が必要ではある。

 問題は、平均点の上昇を求めるあまり、子ども達に必要なものを置き去りにしないことである。今日の教育の荒廃の一因には、教育委員会の面子のために平均点を気にするような傾向があると思われる。教育は、先生たちの面子のためにあるのでは無く、子ども達の人生の向上のためにある。テストの点の比較や責任の追及など、マスコミの価値観に流されて、教育の方向が曲げられている点は大きい。
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マスコミと人生について 5

マスコミと人生について 5 2007.10.27. 金森正臣

 マスコミは、言葉で情報を流しているから、言葉巧みである。しかしながら、言葉の本当の意味は伝わってこない。言葉巧みであるから真実があるとは限らない。むしろ孔子の論語の言葉にあるように「巧言令色」には、仁の心が欠けている典型の様に見える。

 最近日本に帰ったら、家に新聞社が出している週刊の仏教新発見とか言う雑誌があった。有名な作家が、毎回の巻頭言を書いていた。この作家は、仏門に入りどこかのお寺の住職も兼ねているようである。講話の日には、大勢の信者が集まって盛況であると言う。しかし、週刊の雑誌に書かれたものからは、仏教の本質は何も伝わってこない。本質に触れたことが無いまま、人気だけで言葉巧みに話しているようだ。これでは信者に説教しているのではなく、ファンに受ける話をしているだけであろう。

 仏教の世界では、自分が十分に理解していないうちは、いろいろ伝えることを慎むように教えられる。多くに人が誤った方向に向かわないためである。しかしながら、正師(正しい師匠)に付かなければ、このようなことは教えられないであろう。マスコミでは、どの程度の人であるかは、ほとんど吟味されない。正しい修業をした人は、不特定多数に伝える時には、極めて慎重で、あまり本質を話されない。

 宮沢賢治は、「春と修羅」の中で、「ここには真の言葉なく、修羅の涙は土に落つ」と書いているが、これが現実の世界である。法華経の熱心な信者であった宮沢賢治は、言葉の本当の意味に敏感であったであろう。子どもたちに影響を与える教育に関わる皆さんは、真の言葉を使えるようにしなければならない。それには自分の生き方を、常に正視しなければならない。それは自分のためでもある。
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お腹壊した

お腹壊した        2007.10.27.             金森正臣

 久し振りにお腹を壊した。一昨日、家の近くのクメール食堂に、夕食を食べに出かけた。一緒に行ったクメール人の友人が、ニョム・スワイが有ると言うので、注文した。ソムタムとも言われており、これはタイにおける名前らしい。しかしソムタムでも通じる店もある。タイ、ラオス、ベトナムでも似た料理がある。

ソムタムは、基本的に青パパイアを細長く素麺の様にして、いろいろな野菜と香草を混ぜ、干し魚か干しエビを混ぜ、トックトレイ(塩漬けの魚の汁:タイではナンプラー)で味付けする。地域によって、干し魚だったり、干しエビだったりする。材料を、木の臼に入れ、ライムの汁や砂糖、トックトレイ、唐辛子などを混ぜながら、杵でつく。なかなか食欲を増す一品。

 ところが、一昨日のソムタムには、味付けに剛毛のあるカニの足が入っていた。これが曲者で、淡水産のカニを塩漬けしただけのもの。サワガニより大きく、日本の海岸に居るアカテガニ位の大きさ、甲羅の幅は3センチほど。乾季には地中に潜っているが、雨季の始まりに出てくるので、水田などで集められ、塩漬けして売っている。かなりの臭いがあり、市場でも近くに行くと直ぐ分かる。これを調味料として使う。タンパク質が分解しているから、味としては良い。問題は、病原菌。

 美味かったので、餅米ご飯と一緒に食べてしまった。心配はしたのだが、次の朝は何事も無かった。しかし夜になって問題が起こり、かなり激しい下痢。痛みも無いし、熱も無いので、悪性のものではないと判断。案の定、次の日の夕方には、回復して問題なし。

 他にも淡水産のカニの塩漬けがあり、以前に一度当たった。そのカニは小型、甲羅の大きさは、1.5センチぐらい。大きな家を借りたとき、理数科の50人ぐらいのメンバーで、夕食のパーティーをした。準備を手伝ってくれたカウンターパートが、昼にこの小さなカニを、調理して熱いご飯の上に乗せて食べた。美味しかったのでこの時も、すっかり食べてしまった。加熱してないので心配はしたのだが、美味さに負けて食べた。この時も激しい下痢をしたが、痛みも熱も無く1日で治まった。以前の抗体は無かったのかとも思うが、やはり食いしん坊は、要注意。

 お陰様で健康な体と様々な経験から、どの程度の問題かは分かるようになっている。アフリカでも下痢をした経験があるが、だいたい大事にはならなかった。下痢をすると水分の吸収が悪くなるから、のどが渇く感じがある。水分を取りながら、熱や腹痛の様子に注意していると、程度が分かる。以前に、東南アジアで仕事をしていた友人が下痢になり、出るより沢山入れれば何とかなるだろうとヤシの水などを飲みながら、2週間ほど頑張って帰国。帰ったらアメーバ赤痢と判明し、即入院。一命は取り留めたが、3ケ月ほど出てこなかった。無理は禁物。

 画像を追加。2007.10.30. 写真のカニが問題のもの。市場の外で売られていて、お盆の上に取り出されている。
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マスコミと人生について 4  

マスコミと人生について 4         2007.10.27.     金森正臣

 世の中は物質にあふれている。日本にいると実感できないかもしれないが、必要な物は極めて少ない。戦後すぐには、食べるものが十分ではなく、昼に弁当をもってこられる子どもは少なかった。持って来ても、サツマイモだったり麦飯だったりした。麦飯は、お握りにはならないから、遠足などには困った。遠足もバスなどは使わず全て歩いたから、帰りには弁当箱の中で、箸がカラカラ音を立てていたのを覚えている。

 それに比べると、現在は驚くほど物が溢れているし、捨てられる食料も多い。現在でも、途上国では物質が極端に少ないところがある。現在住んでいるカンボジアは、かなり発展したタイやベトナムに挟まれているために、物質はものすごい勢いで増えつつある。この数年で、車やバイク、テレビなどあらゆる物が数倍に増えている。アジアからの捨てられるものが送り込まれることも多い。例えば、靴やサンダルなどは、日本で売られているものとあまり変わらないものが、半値以下で売られている。買ってみると必ず、数日で壊れる。接着部分がはがれてしまう。市場の修理屋では、安い値段で(ほとんど50円程度)縫い直してくれる。これは先進国で、正常に販売し、その後売れ残りを集めて安売りが行われ、さらに売れ残りの半端品がカンボジアに持ち込まれる。有るもの限りでサイズはほとんど揃っていない。時間が経っているから、接着剤は劣化していて、すぐに剝がれる。この様な粗悪品を押しつけられて、カンボジアは物があふれている。ユニセフなどの統計からみると、同じ位貧しいアフリカのタンザニアでは、ほとんど物は無い。特に奥地に入ると、ほとんど自給自足で、調理器具でさえも、鍋1個だけであったりする。子どもたちは、古着でもあれば上等で、ぼろぼろのパンツだけだったりする。これは発展している国が近くにない、あまり儲けにないから先進国から見捨てられているからであろう。しかし人間が貧しいかと言うと、それは別問題と思われる。

 問題は、物が溢れている日本の人たちが、幸せそうで無いことだ。疲れ切った表情を見るにつけ、何か変だと思わざるを得ない。寿命も長くなり、医療技術も尽くされている。しかしながらそこには幸福感が薄い。戦後の貧しい時期から考えても、現在の人生が良くなっているとは、感じられない。昔からよく知られた「起きて見つ、寝て見つ蚊帳の広さかな」と独り身の孤独のさみしさを読んだ句がある。長生きしても、孤独に悩まされながら、長い孤独の時間を過ごすのはつらい。なんのための長寿か、しっかり見て見なければならない。我々は、物を得たことによって失くしたものがあるのではなかろうか。

 マスコミに流されて、自分の価値観を見失うと、人生全体を失うことになりかねない。マスコミは、物質経済の減速は、悪ととらえている。テレビや新聞などで、豊かな生活を宣伝しているが、精神的貧しさは隠しようもない。精神的に貧しいから、物に頼って精神の貧しさを忘れようとしていることに、注意しなければならない。グルメ志向も同じで、何処の店の何が有名だとか、何処どこの材料が美味いとか言うのに頼るのは、自分の舌に頼れないからである。自分の舌に自信が持てれば、一番おいしいものを食べる方法は、自分自身の体のコンデションを整えることであることに気が付くであろう。高価な選りすぐられた料理が美味いわけではない。それにおぼれていると、健康を害する。自分に合ったものが美味いことが、分からないと他人の評判で判断する。そこには既に自分の人生を失っている。自分の人生は、自分自身の責任である。道元禅師は、「無常迅速、生死事大」と言って、人生で最も大きな課題は、すぐ目前にある「死」であると諭している。この問題に取り組まない限り、豊かな人生は無い。生は死と表裏一体で、切り離すことができないから。
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マスコミと人生について 3

マスコミと人生について 3                   金森正臣

 地球温暖化の問題として、炭酸ガスの削減が問題にされることが多い。しかしマスコミの論調は、削減と言いながらどのように炭酸ガスの排出を少なくしたエネルギーを作り出すかに向く。太陽光エネルギー、風力発電、波力、地熱など様々な開発を当然するべきだとしている。ついには、核エネルギーはクリーンであると言った議論まで行われている。議論はエネルギーを使い続けることを前提としている。

 確かに現在の生活を維持するためには、沢山のエネルギーがいる。しかし実際に必要なエネルギーは何であろうか。我々はエネルギーを使って、何を得てきたのであろうか。

 戦後の直ぐには、田舎では風呂の水汲みから薪運びまですべて人力に頼るしかなかった。小学校の高学年になると、毎日の風呂の水汲みに川から風呂桶まで、30回は往復しなければならなかったことを覚えている。水道が出来た時には、本当に楽になったと嬉しかった。ただしまき運びは当分無くならなかった。しかしこれらの労働が、自分の体を作っていることには気が付かなかった。就職してからのフィールドワークでも、他の人に劣らない体力に恵まれていたのは、多分小さい時の労働に起因していることは確かであろう。

 小学生の体力測定結果が、年々落ちていたのは以前の話で、現在は下げ止まりだと言う。前回も書いたが、子どもたちが仕事をしなくなって体力が落ちているのは明らかであろう。スポーツは盛んになって、体力は付いているように見えるが、自分に任された仕事をするのとは異なる。責任感と家族への連帯感などから、工夫し努力する。褒められることや競争心だけで行うスポーツとは異なる。スポーツと労働では、人格の醸成についても異なる点が沢山あると思われるが、ほとんど見落とされている。

 エネルギーをたくさん使って、何を得られたかは、各人の視点によって理解は異なる。体力や体の使い方は、使うことによって発達する。年を取ってみると、人生の全体が見え始め、エネルギーを使うことによって、失ってきたものもはっきり見えるようになる。

 現在は、あらゆる物が手に入るほど物質に恵まれている。戦後の子どもの時代には、教科書さえも無く、鉛筆などは年に1-2本が配給される程度で、手に入った時の喜びは今でも明確に思い出せる。現在の子どもたちには、そのような喜びが減っているように思われる。エネルギーを使い過ぎると、このような現象が起こると思われる。

 あらゆることを正確に見つめないと、エネルギーを使うことの正体は、明らかにならない。現代風に使うことに踊らされていると、肝心のことを見失っていることもある。
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