若い人のコミュニケーション能力

若い人のコミュニケーション能力
 
生徒が学校でいじめられていて、様々な情報があったにもかかわらず、担任はそれを生かすことが出来なかったようである。また親の虐待についても、先生が適切な対応ができない例などいくつかの事例がみられる。
 
原因は何であろうか。第一に考えられるのは、観察力の不足である。これは前回(2019.07.07.)に書いた。
 
第2に考えられるのは、コミュニケーション力の問題である。
コミュニケーション能力には、二つの異なった側面がある。一つは成長段階での発達、二つ目は自己訓練による発達である。最も影響するのは、生まれた間もなくの初期段階での人間関係であろう(「0歳児が言葉を獲得するとき」 正高信男 中公新書などが参考になる)。授乳時の関係がその後に大きく影響する。また核家族になるにしたがって、親子の関係が単純になり、さらに西洋的教育が関係して二元対立的な思考が多くなったと思われる。この結果、関係性が単純になり、コミュニケーションの成長の要素が少なくなった。ヒトの関係性は、複雑な要素が関連しており、二元論的思考では発達が著しく遅れる。コミュニケーション能力は、訓練されることによって向上する。どのようにしたら相手からいろいろな情報が得られるか。現代は、苦労して獲得する社会的基盤も弱くなり、人間関係が単純化した。経済的に裕福になり子どもは幸福のように思われるが、成長の過程で成長を助ける要素が意外にも少なくなっている。我々の子ども時代は、貧しくて生きるのに必死であったが、様々な人間関係に接することによりコミュニケーション能力は明らかに向上した。
 
コミュニケーションには、会話の言葉以外の要素が大いに関係している。言葉は手段であるが、人間は必ずしも本心を語らない。心理学者のユングは、人はペルソナを被ると言っている。即ち一人でいる時と、2人以上でいる時は明らかな行動に違いが出る。二人以上で社会性を持った時には、一人でいる時とは異なる行動や言葉になる。ユングは、二人以上でいる時に起こる変化を、劇で使う仮面(ペルソナ)に例えて示している。本音では無く、相手との関係が顔を出す。動物でも1頭の時と複数の時では、行動に変化が起きる。例えば1頭でいる動物はほとんど鳴かないが、複数になると声を出す。この人間関係での変化を読み取れないと、相手の現状を知ることはできない。
 
コミュニケーション能力は、声だけではなく、表情の読み取り、音声の感情の変化、わずかな行動の変化などあらゆる物事の総合である。これらを使う能力が落ちると、他人の意思を読み取り、必要な情報を得る能力も落ちる。この結果、相手の状況は読み取れず、自分が勝手に理解した範囲で判断するから、児童・生徒の困っている状況を、把握することが出来ない。更にコミュニケーションの能力が落ちる人は、状況を同僚に伝えることも上手では無く、共有することが出来ない。この様な現象が実際に起こっていることが感じられ、解決のためには、組織的に動くことも大切であるが、コミュニケーション能力を向上させることが基本となろう。現役の先生であっても、この訓練を必要と思われることは多い。先生たちは、順調に進学してきた人が多く、様々な状況の経験が少ない。現場には研修が義務付けられているようであるが、この様な研修も行われているのであろうか。私は大学にいたころに、多くの臨床心理士の方の実習場面に付き合ってきた。相手の状況を理解するには、待つことの大切さを常に心がけてきた。実習に来ていた方々は、自分の良いと思ったことを止められて大いに困っていたが、自分の思いよりも一瞬待って相手の状況を読むための方法である。現在の教育の中では、この様な訓練の場が不足しているように思われる。
 
それとは別に、コミュニケーション不足はいくつかの問題を引き起こしている。最近話題が多い、引きこもりなどもこの問題と関係している。相手に上手に意思が伝えられないと、いる場所が無く安全な家に引きこもることになる。
中学生同士が受験勉強をしようとして集まり、相手を刺し殺してしまった事件もあった。これなども相手にもう少し意思を伝える能力があったなら、起こらなかったように思われる。教科書を隠す程度のトラブルは、我々の時代にも普通に存在していたが、大きな事件にはならなかった。確かに喧嘩になり怪我をするぐらいのことはあったが。
父親が息子の受験の問題で、刺し殺してしまった事件もあった。これなども明らかに意思の疎通が、不十分であろう。また自分お思いだけで息子の意思を尊重しない父親の存在も、なかなか未発達の人格を感じられる。
兄弟間で刺し殺してしまった事件も、報道されている。
大阪にいたころ(約40年前)に感じた、核家族化、価値の単純化などがやがて問題を引き起こすであろうと思っていたことが現実になっているように思われる。
 
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住所

住所      2019.02.09.

岐阜市で同じ番地に250戸ほど家があるところがあったと言う。今回市が新しい番地を考えて、問題を解消したと言う。すでに長く続いている郵便は良いとして、救急車や消防は困ったことであったろうと想像される。

最初に就職した菅平は、高原で涼しい環境が受けて、別荘地として開発された。当然集落からは離れた林の中であった。開発会社は、中心に事務所を構え、どこかから事務員を雇った。

ある時火災が起こり、皆さんが鉈を片手に駆け付けた。事務所で聞くと「への15番地」とか言うのだが、集まった現地の人はだれもどこか分からない。事務員は、現地の土地の名前を理解して居ないので、意思が全く通じない。現地の人はそれでも手分けして、大洞の頭だとか、堂の入りだとか探した。約1時間も駆け回ってやっと現地についた時には、幸いにも風向きの関係で火は下火になっていた。

私が小・中学校を過ごした村も時々山の火災があり、子どもたちも戦力として火事場に出向いた。山火事はほとんど冬場なので、大人からサカキやソヨゴなどの青い葉の木を切ってもらい、火の端をたたいて回った。なかなか危険な作業で、松林などは風向きによっては、急速に火が走る。隣村では、小学生が火に巻かれて死んだことがあったが、その後も子どもたちの出動は続いた。人手が足りなくて助けになったことであろうし、そのくらいの危険を乗り越えるのが大人への道であったろう。今の子どもたちに比べると、勉強はできなくても実践力はついていたように思う。
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CIESF10周年記念祝賀会

CIESF10周年記念祝賀会   2019.02.06.

理事をしている公益財団法人CIESFの10周年記念式典が、2月1日に東京の青年会館で行われた。支援者やこれまでの関係者が、200人ほども集まった。(写真は篠原大使の挨拶)

カンボジアの首都プノンペンで、大久保秀夫理事長にお会いしたのが2008年3月頃だったように思われる。その前年に私は、プノンペンの中心部で交通事故にあいまだ杖を突いていた。それから10年も経っていた。最初は、高等師範学校の1室を借りて電話を置き、NGOの登録を行った。予算もないので、事務員を一人雇い、看板も無く誰も事務所を分からない状態だった。その後1年したころに、全権大使の篠原勝弘氏が参加くださり、一気にカンボジアの中で存在感が増した。
現在はホームページを見て頂くのが分かりやすいが、教育を中心に大きな組織になっている。

私は、カンボジアに関わりだして20年になる。2003年からは、個人で支援をはじめ、2008年は退職金も尽きたので、8月に帰国の予定で持っていた物も整理を始めていた。個人の支援になってから、多くの友人の支援で、高等師範学校の理科の先生たちを日本の大学の修士課程に35名ほどもお願いした。広島、岡山、愛教大など、奨学金から支援頂かなければならず、大変お世話になった。その頃の教官がそれぞれCIESFの支援にも良く働いてくれ、現在が成り立っている。人生は分からないもので、計画とは異なっても、結果が良くなることは有り難いことである。
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私大の医学部の入試問題

私大の医学部の入試問題   2018.12.18.

私立大学の医学部の入試は、以前からいろいろ問題を含んでおり、簡単には変化が無いと思われる。私が43年ほど前に大阪市立大学の医学部に転出したころ、付近に生物の研究者がいなかったので、理学部や付近の私大医学部の生物担当者らのゼミに参加していた。

医学部は、設備や病院にかなりの費用が掛かり、卒業生の子弟からの寄付は重要な財源であった。そのため卒業生の子弟で入試の点数が足りない受験者はいいカモで、1点100万円とも言われて追加合格を行っていた(ちなみに私の月給は20万に満たなかった)。

私学の教授は、まともに雇うと経営が難しくなるので、どこかの国・公立大学などのリタイヤ組が多く、大学に常駐しているのは少ないようであった。従って大学の教育力も、そこそこに低下する。かなりエネルギーの落ちた教授は、教育力も低くなる場合が多い。また、大学の教育では、授業以外に、人間性や考え方を伝えることが重要であるが、あまり学校に居なくては、学生は学びようがない。

医学部の学生は医師の国家試験のために多くの労力を払うために、一番いろいろ幅広く吸収するべき若い時期に、国家試験の詰め込み教育に終始する。十分に余裕のある学生は問題ないが、やっと医学部に合格したような学生にとっては、国家試験以外の様々な幅広い教養を身に付けるのはかなり難しい。例えば、私の居た医学部は国家試験の合格率が高く、90%を超えており常にベストテン入りして居た。ところが非常勤に行っていた京都大学は、国家試験の合格率は80%前半ぐらいで、ベストテン以下であったように覚えている。しかし学生には余裕があり、天体観測が好きで花山の天文台に入り浸っている学生やクマが好きで青森まで出かけてクマ観察に明け暮れている学生がいた。聞いてみると国家試験ぐらいはいつか受かるから心配していないとのことであった。私のいた医学部の学生は、合格率は良いがそこまでの余裕は見られなかった。

順天堂大学の医学部の説明で、女子はコミュニケーション力が高いという発言は、論文さえ正確に読めない教授が学部をリードしていることを露呈して、ヒンシュクものである。まして卒業生が十分な教育を受けていると思うのは、早とちりの気がする。現在の医者は、患者が十分に吟味してかかる必要がある。

一般に私大の医学部は、国家試験の合格率でランク付けされる。ワースト10未満ぐらいになると、大学であらかじめ予備試験をして、あるレベルに達しないと国家試験を受験させない。それでも合格率は上がらず、大学のランクは下がる。私の知っている限りでも、12年間も在籍しても、国家試験に通らず医師になれない学生が2-3割出ることも珍しくなかった。努めている友人に聞いてみると、それでも実家に帰って医学部卒の理事(医師になれなくても医学部は卒業できる)として病院を経営すれば、結構目的は果たせるようである。大きな病院などを持っている卒業生は、いくら金をかけても子どもが医学部に入れれば採算は合っているようであった。

この様に、私大の医学部の入試は昔からあまり公平と言える状態ではなかった。こんなことを何十年もしていれば、感覚が鈍くなっており、今回の私大医学部入試問題はそれが明るみに出たと言うことであろう。

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大学入試の問題 

大学入試の問題  2018.12.12.

いろいろな大学の医学部で、入試の不透明さが報道されている。特に女子受験生に不利な採点がなされている場合が多い。これは大学の姿勢の根幹に関わることで、軽い問題ではない。
入試の問題の誤りや採点の誤りとは、異なる次元の問題である。

私学も、国民の税金から多額の補助がなされている。当然の結果として、国からの補助金はすべてカットすべきである。単年度ならず、複数年度にわったてカットされるべきものである。
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見かけと競争の社会 

見かけと競争の社会   2018.11.07.

現在の日本社会は、見かけと競争で満ち溢れている。これにはマスコミの影響が大きい。
テレビの報道が始まったころに評論家の大宅壮一氏が、一億総白痴化だと言ったが、まさにそのようになってきている。

人生はそれぞれ自由であるが、自分の人生は自分自身で守らなければ、だれの責任でもない。インターネットもテレビも、見ている間はほとんど十分に考えることは行っていない。そのまま時間だけは過ぎ、人生の部分が失われてゆく。そのことにあまり気付かないまま、人生を消失する。人生の終わりが近くなると、そのことが重要な意味を持つことに気が付く。特に死を見つめるようになると、一層である。私は幸いに30年ほど前から、自分の人生を見つめる機会を得たので、それほど焦りはない。

テレビや新聞を見ていると、その見かけだけの内容に驚くことが多い。いろいろな広告も、ほとんど見かけを意識したものが多く、自分がいかに見えるかに終始している。テレビの人気者も、見かけだけで、ほとんど人生の内容を感じることは少ない。年を取ると老いるのであって、若く見える必要はない。多くの広告が、若く見えることを主体としている。例えば白髪染めで若く見えたからと言って、人生の内容が若くなるわけではない。髪を増やして若く見えても、その人生が充実するわけではない。若い人たちに授業をしていた時も、人から褒められてもけなされても、自分のやったことが変わるわけではないことを常に意識するように話していた。

人生の締めくくりは「死」である。この問題が、人生の集大成としての課題になる。そのことに気づくのが早ければ、少しは対応する方法が生まれる。しかし死の直前であると、対応の仕方が無くなる。この問題は、人からの評価では何の解決にもならない。自分自身でしか対応できない。このくらい明白な問題はないのだが、意外に多くの方が真の意味に付いて語らない。多分語る内容が無く、語れないのであろうと思われる。有名な作家の方で仏教者を自任しておられる方も、大変な人気を集めているのであるが、あまりにも貧弱な内容で参考にはならない。多分得度した時の指導者が十分ではなく(この方も立派な僧籍の方であったが)、本来の修業が出来なかったのであろう。良い指導者に合うことは、現在の日本ではかなり難しい。

この様な社会の状況を反映したか、現在の日本は競争に明け暮れている。スポーツばかりでなく、文学や芸術、果てはレストランまで、様々な賞等を設けてランク付けを行っている。これは上に述べた、自分の課題に向き合っていない真実の価値が理解できない人々によって、人の評価に頼ることに依存する結果の現象と思われる。もともと芸術や文学などは、個人の感性によるものであって、各自の受け方が基本のものである。このことは、民芸なる言葉を広げた柳宗悦の著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んでみると良く理解できる。

各個人の自立があって成り立つ部分を、競争などのランク付けで目を奪われるのは、自己の存在が危ういことを示している。この様な自立を損なっている現代の社会では、全てが人の評価に頼って判断していると思われる。親がこの様な状態であると、子どもも自己の確立が難しく、自殺などが起こりやすくなると思われる。このことを十分に理解していないと、人生を誤ることになる。友人の早稲田の教授は、アジアの国々と比べて日本の若者は踏み出す勇気がないことを嘆いていたが、このような現象を反映している。
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海外を目指す若い皆さんへ 3

海外を目指す若い皆さんへ 3   2018.10.03.

前回海外を目指す若い皆さんへ 1で、観察について、具体的方法を述べなかった。これは私に迷いがあって、示さなかっただけである。学生への授業の場でもいつもそうであるが、具体的に観察事項を述べた方が、聞く側としては効率が良い。しかし、場合によっては、その方法に縛られると、視界が狭くなり各自の独自性を損なうこともある。

しかしながら観察は、それほど楽なことではない。自分で方法まで開発するには、長い時間を要する。最初の段階の一例をあげておいた方が良いかと思われる。

観察するのには、二つの大きな意味がある。第一は観察眼を養うことであり、第二は自分の特性を知ることである。観察は繰り返すことにより、次第に物事が具体的にいろいろな側面が見えるようになる。これは繰り返すことが重要で、簡単には進歩しない。

最初に取り組むのは、毎日3-5分間を決めて、自分が見ているものを記録することである。ここでは見ていることを、言葉で置き換えて記録することが重要である。繰り返していると次第に言葉に置き換えられるようになり、簡単に記録することが出来るようになる。また次第に記録が細部まで行くようになる。1週間に一度ぐらいの割合で、記録を読み返してみると、次第に記録した場面を思い出せるようになる。半年程度実施すると、かなり観察力が付いてくる。できれば数人で記録を発表し議論すると、効率が良い。
記録の整理は、単なる観察(見ていることの記録)、現象の記録(定性的:何が起こっているか。例えば多くの人がスマホをいじっているなど)、現象の割合(定量的:スマホをいじっている人の割合:観察何人中何人)など、様々な段階がある。

次に3-4ケ月したら、観察した記録の種類を整理して見る。例えば、食べることとか、異性に関すること、服装、動物に関すること、風景、季節などいくつかの共通点にまとめてみると、自分の特性が見えてくる。
このことは、自分の特性を理解する上でも重要である。仕事は少なくとも10年単位で考えないと、思うように勧めるのは難しい。長期間できるのは、自分の適性に合ったこと以外は無理であろうと思われる。その適性を見るうえで、観察の整理が役に立つ。

多くの若い人から、困っている人を助けたいと言う意見を聞く。人を助けるには、まず自分が自立していないと困難である。自立していない人の助けは、相手を巻き込んだ自己満足の援助であって、心理学的には「共依存」と呼ばれる状態になる。相手に対して必要な援助にはならない。十分に注意する必要がある。

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海外を目指す若い皆さんへ 2

海外を目指す若い皆さんへ 2  2018.10.02.

先月の新聞の投稿欄に、イギリス在住の大学院生から「宗教に文化 世界を知る教育を」と言う投稿があった。要旨は、「あなたの国の宗教は」と問われて、何と答えますか。グローバルな人材育成が推進されている今、様々な国と自国の文化や歴史、宗教を知ることの重要さを、学校教育を通して伝えてゆく必要があるのではないか、と言う意見であった。

いろいろな国を歩いていると、宗教の違いに出会うことが多い。しかし日本人は、あまり宗教を意識している人は少ない。いろいろ宗教的な拘束を、自分自身が持っていても気が付いていない場合もある。
宗教を持っていないのは、宗教に自由なようであるが、外国においては、物差しを持たずにものを測っているようなもので、相手の宗教に対しても理解が低くなる。文化についても同様で、自分の国の文化を理解していないと、相手の国の文化も理解が難しい。

日本の伝統的な文化を何か学んでおくと、いろいろな理解に役立つ。例えば私は高校生の時から剣道をしていて、のちに直新陰流を習ったことがある。深く理解していたわけではないが、かなり仏教の教えが入っていることを感じていた。このような理解は、他の国の文化を理解するうえで、いろいろと役立っている。表面に流れる文化とそれに影響を与えているものが、重層化していることを理解することが出来た。
また偶然の機会から、無宗教であった私が、仏教を学ぶ機会があった。最初から仏教に出会ったわけではなく、無宗教としての内観に出会い、そこから仏教の教えに繋がって行くことを得た。

その結果、日本の文化の底流に仏教が深く関わっており、様々な点で思考の中に影響している。言葉上のものもあるが、精神の内面に深く刻み込まれているものも大きい。私の両親は、ほとんど無宗教で、特に仏教には縁が薄かった。住んでいた村には、曹洞宗のお寺があったが、坊さんが酒好きで、村民からも嫌われていた。そのためかほとんどお寺の記憶はない。しかし、父は、木喰仏が好きで学生時代に撮影した写真が、居間に飾られていた。説明はなかったが、30年も後になってその写真が、丹波の清源寺にある木喰さんの自刻像であると知った。その穏やかなほほ笑みは、今でも印象に残っている。案外このころの印象が、後に仏教に出会う基を作っていたのかもしれない。

少し仏教を理解するようになると、共存のための宗教であることに気が付く。一神教と異なり、多くの仏、菩薩などが含めれている世界観は、他者の存在を許容する上で重要に思われる。日本における神道も同様に、多神教である。動かせない土地に縛られる農耕社会に適した宗教であることが理解される。

同時に、一神教について学ぶと、その起源が共存しなくてもよい社会に発生していることが学べる。

宗教の問題は、相手を理解する上で、重要な問題であると思われる。現在の学校では、教えられる先生がほとんどいない。自分で意識的に学ぶしかない。現在の日本には、58000もの寺があると言われている。過疎化して住職のいない寺も増えている。多くの寺は葬式仏教になっており、釈迦仏の真の教えを伝えているところは少ない。良いお坊さんに出会うのは、宝くじに当たるよりも確率が低い。おまけに自分自身に見る目が無いと、どれが本物であるかも分からない。しかし自分が心掛けていると、いつか真の仏教に出会うことが出来るであろう。


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海外を目指す若い皆さんへ

海外を目指す若い皆さんへ   2018.09.18.

私は偶然の機会から、いろいろな国で調査を行うことが出来た。
各地で会った若者たちを振り返ると、国外で最も必要と思われる二つの事項が教育されていないように思われる。第一は、観察を沢山し、具体的にする必要があり、これによって感覚が研ぎ澄まされる。もう一点は、自分が何に興味を持っているか確かめる必要がある。好きなものがあると、継続することが出来、次第に理解の内容を深めることが出来る。

観察力について
最近の厚労省の調査で、若者の7人に1人がインターネットなどの依存症であると言う。インターネットなどに依存していると、周囲を観察することはほとんどない。以前にも書いたが、カンボジアから戻ってきたときに乗った中部空港からの電車で、ほとんどの人がスマートフォンを使っていて驚いたことがある。

外国に出た時に自分の身は、自分で守らなければならない。その安全の一番基本になることが、自分の置かれている環境の観察である。ヒト、物、状態などを一瞬で見極めて、自分の安全を守らなければならない。これは普段からの観察の訓練によって、かなり観察力が増す。私な小学生のころ、一人で山に行くことが多く、マムジやクマなどかなり沢山いたので、恐怖心もあり周囲の状況に神経をとがらせていた。単に目に限らず、音や臭いなど総力戦で周囲の状況を確認していたように覚えている。この経験は、外国に行くようになって、非常に役立っている。

知らない国に降り立った時に、まず必要なことは安全の確保である。動かないわけには行かないし、動くと危険は自然に増える。南アフリカのヨハネスブルクなどは、一目で緊張感が募った。また昼間でも油断のできない、ケニヤのナイロビも印象に残っている。後ろからついてくる足音に、神経を研ぎ澄ませながら、博物館に通ったこともある。いずれもこちら側が事前に気が付いていると、危険は避けることが出来る。同じホテルに泊まっていた日本人が、目の前の道路で襲われ、、大金を取られている。命を落とさなかったのが幸いである。
自動車で移動中に自動小銃を突き付けられて、金品を奪われたことも何回かある。原野の中でボスのところまで来いと、銃の男たちが乗り込んできて、ボスのキャンプまで連れて行かれたこともある。観察が十分にできると、どの程度の交渉が可能であるかも判断できる。

専門を深める
海外でもう一つ大切なことが、自分で専門を持つことである。日本で情報を駆使して専門をつけようと思っても、専門家にはなれない。自分の興味を持っていることを、絶えず気にかけていると自然に専門性が出来てくる。自分の興味を持っていることであれば、自然に継続することが出来て深められる。頭の中だけで面白そうだと思うことは、長続きしない。始めたことは10年もすると、理解が進む。20年ぐらいすると、自分の考えたことが実行できるようになる。仕事をするにはやはり20年ぐらいは必要に思われる。
私で言えば、小学3年ぐらいまで消化器系が弱く、十分に食べられなかった。また戦後の時期は食料が乏しく、十分に食べ物がなかった。また学生時代も貧乏で、十分に食べることが出来なかった、このような生育環境が幸いして、食に強い興味があり、どこの国に行っても食材を売る市場を見る習慣が付いた。そのことによってその国の生活の仕方や仕組みが、理解できることが多い。例えば、カンボジアとラオスは隣り合う国であり、共に仏教国である。しかし主食にはかなりの違いがあり、同じ米食でも、ラオスは餅米が多く、カンボジアはウルチ(普通のご飯に炊く米)が多い。これは農業の形態にも表れており、ラオスでは焼き畑などの陸稲が多いが、カンボジアは水稲である。当然農民の働き方も異なる。このことは一緒に働くときに、かなりの違いを生み、仕事をするときにいろいろと役立つ。


これから海外を目指す皆さんは、是非自国にいる間にできることから始めて、少しでも対応力をつけて出かけて頂きたいと思う。


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スポーツ界の問題 

スポーツ界の問題  2018.09.13.

日大のアメフット部・アマチュワボクシング・体操の暴力とパワハラなど様々な問題が噴出している。いずれも元一流の選手などが絡んでおり、不可解の点も多い。

あまり議論されていない問題を取り上げてみる。すごい努力をして成績を上げても、そのことで人格が格段に成長するというものでは無い。これは勉学や研究でも同じで、成績が良くなったからと言って、人格の向上が付いてくるものでは無い。この点をスポーツ界などでは、誤解しているように思われる。オリンピックで金メダルなどを取ると、まるで人格まで完成したかのように錯覚しているのではないであろうか。オリンピックのメダリストなどの、自殺者は意外に多い。ヒトは、幸せのために努力して生きており、自殺の苦しさを知っている人であれば、自殺が人格の完成に如何に離れているかを知っていよう。

大学などでも研究者の専門業績の成果と人格はかなり離れている。以前に広島大学であった助手による上司殺しなどを見ても、そのようなことが伺える。多くの研究者は、研究成果を求めるが、努力すればそれによって人格も形成できると錯覚している。大学などで見ていても、7割の人は錯覚を起こしているように思われる。

スポーツでも勉強や研究でも、そのことに一途に向かっていると、他のことについて配慮している時間がない。従ってその視界は狭くなり、自分の人生について十分に考える時間がない。自分のしていることだけですべては完結すると思っており、その他のことについて深く考える時間がない。このことが人間を狭く小さなものにしている。そのことに気が付かないまま、努力している成果に気を取られ、他のことが理解できなくなる。人格の形成や自己を高めるためには、そのための方法を別に手に入れなければできない。特にその成果によって、他の人々から評価されると、人格まで高まっているような錯覚を起こしやすい。

今回関係した人々の、テレビでの表情を見ていると、如何にも何かの欲に取りつかれて、自分自身が振り回されているように見える。権力の座に就くとあのようになるのかと、年金暮らしの下流老人にとっても自己反省の良い材料である。

ところで、日大のアメフット部の学生の訴えと、体操の女子選手の訴えではかなり異なる印象を持っている。体操の訴えでは、当人がマインドコントロールされているように思われる。暴力と優しさによってマインドコントロールがなされており、本人の表情の精気が感じられない。暴力をふるっているコーチの後ろ姿からは、明らかに怒りと興奮が見てとれる。言葉の無い動物と長く付き合っていると、その心の動きは体に現れることは明白である。訴えられた体操界の重鎮であるお二人も、自分の何かの欲が出ていることは、自身で気が付かないところであろう。

ボクシングの問題では、言葉の相違を強く感じた。私には韓国人の友達がたくさんおり、40代のころにはたびたび調査に行っている。その際にある市の教育長さんから聞いた話であるが、韓国は自分たちで国を作ったことがない。いつも他国から人が来て国を作り、国民は国から守ってもらえることはなく、自分で生き延びるのが原則であった。そのため、日本とは同じことわざでも、意味の取り方がかなり違うと言う。例えば、「長いものに巻かれる」という言い方は、日本ではマイナスなイメージとして使われる。しかし韓国では、積極的な意味があり、長いものに巻かれても生き延び、再起を図ることが良いこととされていると言う。韓国では、家系を示す姓の数は少ない。しかし各姓は、同族意識があり、まるで家族の様に振舞う。留学していた南さんに連れられて、田舎で調査しているときにそんな経験をしたことがある。南さんも初めて会う人であると言っていたが、ずいぶんとお世話頂いた。
それとは別に、言葉の使い方の相違も文化によってかなり異なる。我々は、フランスの自由・平等・博愛という精神を聞いている。大使館の公使でフランスを専門としている方に伺った話では、この解釈がかなり異なる。日本人は、博愛についてすべての人に向けたものと理解しているが、フランスでは各自の縁者に向けたもので、決して全体に向けたものでは無いと言う。韓国の姓の様に、自分の関係する縁者についての概念があるようである。アマチュアボクシングの元終身会長が言っている、「選手を愛して行ってきた」という言葉は、確かに本当であろう。しかし日本人の感じるように全体に向けたものでは無く、自分に関係の深い選手に対する愛であるように思われる。
韓国では、歴代の大統領が起訴されることが多い。いずれも親族などが絡んでいて、縁者に対する文化が関係しているように思われる。
言葉の使い方は、文化によってかなり異なり、自分流に解釈してもなかなか全体像は見えないように思われる。特に遊牧を起源に持つ文化は、我々土地に結び付いた農耕の文化とはかなり異なる。

最近は、日本体育大学の駅伝の監督のパワハラ、ウエートリフティング関係のパワハラなどスポーツ世界では、話題に事欠かない。

大きな原因に、指導者の人格の形成が不十分な現実があるように思われる。指導者や教育者は、完成していないまでも自分の人格を磨くことに常に注意する必要がある。自分の持っている物以上には、相手に伝えることはできないのであるから。
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