昆虫食

昆虫食    20181.09.21.

最近世界食糧計画(WFP)が、昆虫食を進めるような情報を流しているようである。これからの世界の食糧事情を考えると、得られるエネルギーが多いということであろう。

以前に(1960年代の終わりころ7-8年間)、ユネスコが主催してIBP(International Biological Program) と言う世界的調査があった。これは地球上の植物がどの程度の光合成をし、動物がどの程度生きているかという調査であった。私はまだ駆け出しであったが、仲間に入れて頂きいろいろと面白い経験をした。特にこの時にできた人脈は、人生の中で貴重なものになった。数年後その調査を世界中で集計し、人間が地球上で生きることが出来る人口は。およそ80億から120億ぐらいと算出されたと覚えている。

生態学から考えると、植物が光合成したエネルギーは、草食動物によって食べられる。次にその動物を食べる動物は、草食動物の食べるエネルギーからすると100分の1程度しかエネルギーが回ってこない。何故ならば、草を食べる動物が成長するには、呼吸もするし糞もする。また種が継続するためには、子どもも育てなければならない。それらを考えると、次の動物に回せるエネルギーは多くない。この様に次の動物に回されるエネルギーの効率を、転送率と言う。ハマチをイワシで育てて食べると、イワシを食べる100分の1ぐらいしかエネルギーは回ってこない。

昆虫の中には、動物食のもの(例えばタイやカンボジアで食べられているタガメ)もいるが、かなり多くのものが草食である。カンボジアではかなり色々な昆虫を食べている。カンボジアで一般的なコウロギは、草食のものが多い。田んぼが広がる地域では、1夜に30㎏も集めている人もいる。やわらかい佃煮の様になっていて、市場や夜のレストランに売りに来る。ゲンゴロウやタランチュラー(昆虫ではないが)もよく食べる。

アフリカでは、連れて歩いている部族によっては、トノサマバッタなどを食べる。細い枝を持っていて、トノサマバッタが飛び出すと叩き落す。それを焚火であぶって食べている。アフリカではしばしば大発生して、作物などが荒らされることもある。
ハチの子は、蜂蜜とともに多くの部族が食べている。ミツバチの子どもを巣から取り出すのは、鍋にお湯を沸かしその中に巣ごと入れると、蜜蝋の巣は溶けてハチの子が出る。ハチの巣を採集した時には、蜜と一緒に子の入った蜂の巣を食べる。こうすると胸が焼けないで、沢山食べられると言う。
アリも好んで食べられるが、結婚飛行で飛び出すメスだけである。チンパンジーは、蟻塚の中のありをつり出して食べているが、主に働きアリである。アフリカにはかなりアリが多く、油断をしていると、逆に食われてしまう。

カミキリムシの幼虫は、かなり広い地域で好んで食べられている。アフリカでもアジアでも、かなり好まれているが、幼虫は木の中に食い込んでいるので、木を割らないと取れない。なかなか面倒な虫だが、いれば必ず食べられてしまう。幼虫をそのまま火の中に入れると、スーと伸びて、丸太のようになると旨い。アジアでは、生で食べるのを見かけたこともある。

私は長野県で育ったので、昆虫食には小さい時から慣れている。地中に巣を作るクロスズメバチ(ヂバチとかヘボと言っていた)は、秋に積極的に探してとる。イナゴなども食卓を飾っていた。水生昆虫のムラサキトビケラやオオヤマカワゲラも結構普通に食べていた。しかし量を集めるのはなかなか大変で、どちらもイワナなどの釣り餌になることが多かった。

昆虫とは異なるが、ラオスではオタマジャクシを朝の市場で売っていた。聞いてみると食用だと言う。確かに川の中のコケなどを食べており、エネルギー効率は良いであろう。
私の最初の赴任地に、かなり変わった男が住んでいて、ヤマアカガエルのオタマジャクシを集めていた。どうするのかと聞いたら、バケツの中で泥を吐かせて、網の上で干し、タタミイワシのようにして食べると言っていた。案外うまいのかもしれない。しかし日本では、あまり一般的ではない。
小学校の4年生の時に、モズのヒナを飼っていて、エサに困ってオタマジャクシを食べさせたら、下痢をしていた。以来、オタマジャクシは、何か消化できないものがあるように思っていたが、そうでもないのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蝶豆:クリトリア 



蝶豆:クリトリア  2018.09.20.

最近農協の直販所(付近の農家の皆さんが、直接商品を持ってくる)に、気になるマメ科の植木鉢があった。以前にどこかで見た花のように思い気になっていた。かなり目立つ奇麗な花をつける。

名前は、クリトリア。マメ科の蝶豆と訳される。かなり種類があるようであるが、カンボジアで見ていたものと同じようだ。カンボジアでは、バッタンバンと言う北西に近い都市で調査していた時に、畑の境の藪に沢山咲いていた。つる性で藪を作り、かなりよく咲く。

印象に残っているのは、花の美しさだけではない。何かの薬になるからと、日本から来た人に頼まれて、プノンペンで探した。カウンターパートに聞いてみると、オルセーマーケットと言う、市民マーケ十の北側に、薬草を売る一角があり、そこにあるだろうと言う。英語は全く通じない市場であるので、カウンターパートを頼んで行って見た。

青色の奇麗な色を残したまま乾燥されて、ガラス瓶の中で保存されていた。2-3㎏の量を買ったと思うが、あまり高くはなかった。何に使うのかも覚えていない。

もう50年も以前のことであるが、奇麗な青色の花は、最初の赴任地の菅平でも思い出がある。ある秋に植物生化学の助手の方が見え、キキョウの花だけを摘んで歩いていた。花好きの賄のおばさんに小言を言われながら。背負いかごに毎日多量にとってきて、アルコールで抽出していたように覚えている。冬になって彼が再び来て、アントシアンだと言って、美しい透明な針状の結晶を見せてくれた。もしかしたら、クリトリアの青い花にもアントシアンなどが含まれているのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

海外を目指す若い皆さんへ

海外を目指す若い皆さんへ   2018.09.18.

私は偶然の機会から、いろいろな国で調査を行うことが出来た。
各地で会った若者たちを振り返ると、国外で最も必要と思われる二つの事項が教育されていないように思われる。第一は、観察を沢山し、具体的にする必要があり、これによって感覚が研ぎ澄まされる。もう一点は、自分が何に興味を持っているか確かめる必要がある。好きなものがあると、継続することが出来、次第に理解の内容を深めることが出来る。

観察力について
最近の厚労省の調査で、若者の7人に1人がインターネットなどの依存症であると言う。インターネットなどに依存していると、周囲を観察することはほとんどない。以前にも書いたが、カンボジアから戻ってきたときに乗った中部空港からの電車で、ほとんどの人がスマートフォンを使っていて驚いたことがある。

外国に出た時に自分の身は、自分で守らなければならない。その安全の一番基本になることが、自分の置かれている環境の観察である。ヒト、物、状態などを一瞬で見極めて、自分の安全を守らなければならない。これは普段からの観察の訓練によって、かなり観察力が増す。私な小学生のころ、一人で山に行くことが多く、マムジやクマなどかなり沢山いたので、恐怖心もあり周囲の状況に神経をとがらせていた。単に目に限らず、音や臭いなど総力戦で周囲の状況を確認していたように覚えている。この経験は、外国に行くようになって、非常に役立っている。

知らない国に降り立った時に、まず必要なことは安全の確保である。動かないわけには行かないし、動くと危険は自然に増える。南アフリカのヨハネスブルクなどは、一目で緊張感が募った。また昼間でも油断のできない、ケニヤのナイロビも印象に残っている。後ろからついてくる足音に、神経を研ぎ澄ませながら、博物館に通ったこともある。いずれもこちら側が事前に気が付いていると、危険は避けることが出来る。同じホテルに泊まっていた日本人が、目の前の道路で襲われ、、大金を取られている。命を落とさなかったのが幸いである。
自動車で移動中に自動小銃を突き付けられて、金品を奪われたことも何回かある。原野の中でボスのところまで来いと、銃の男たちが乗り込んできて、ボスのキャンプまで連れて行かれたこともある。観察が十分にできると、どの程度の交渉が可能であるかも判断できる。

専門を深める
海外でもう一つ大切なことが、自分で専門を持つことである。日本で情報を駆使して専門をつけようと思っても、専門家にはなれない。自分の興味を持っていることを、絶えず気にかけていると自然に専門性が出来てくる。自分の興味を持っていることであれば、自然に継続することが出来て深められる。頭の中だけで面白そうだと思うことは、長続きしない。始めたことは10年もすると、理解が進む。20年ぐらいすると、自分の考えたことが実行できるようになる。仕事をするにはやはり20年ぐらいは必要に思われる。
私で言えば、小学3年ぐらいまで消化器系が弱く、十分に食べられなかった。また戦後の時期は食料が乏しく、十分に食べ物がなかった。また学生時代も貧乏で、十分に食べることが出来なかった、このような生育環境が幸いして、食に強い興味があり、どこの国に行っても食材を売る市場を見る習慣が付いた。そのことによってその国の生活の仕方や仕組みが、理解できることが多い。例えば、カンボジアとラオスは隣り合う国であり、共に仏教国である。しかし主食にはかなりの違いがあり、同じ米食でも、ラオスは餅米が多く、カンボジアはウルチ(普通のご飯に炊く米)が多い。これは農業の形態にも表れており、ラオスでは焼き畑などの陸稲が多いが、カンボジアは水稲である。当然農民の働き方も異なる。このことは一緒に働くときに、かなりの違いを生み、仕事をするときにいろいろと役立つ。


これから海外を目指す皆さんは、是非自国にいる間にできることから始めて、少しでも対応力をつけて出かけて頂きたいと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

テニス全米オープンと文化的相違

テニス全米オープンと文化的相違   2018.09.14.

テニスの全米オープン決勝で、大坂なおみさんが優勝して、日本は大喜びに沸き返っている。決勝の舞台で繰り広げられたセリーナの行動は、文化の相違をはっきりと現していた。

アメリカの現在の文化は、欧米から運ばれた遊牧民を起源とした文化である。遊牧民の文化を理解するには、松原正毅のユルック上・下(中公新書)を読むと良く分かる。遊牧民は、基本的に各自が別行動で、集まるのはヒツジの繁殖の交尾だけである。明日の搾乳をより多くするためには、各自が別々な場所で草を食べさせないとならない。同じ場所で出会うと、言い争いながらでもヒツジに草を多く食べさせようとする。基本的に次に会う機会はほとんどないから、如何に言い争ってもあまり気にすることはない。その場でいかに優位に振舞うかが、基本行動となる。謝るようであれば、その償いは自分でしなければならない。遊牧民から始まった欧米の文化は、基本的に言い争に勝つことを目的としている。セリーナの行動や攻撃の言葉は、このことをよく表している。

日本などの農耕文化は、いつも同じメンバーが顔を合わせることになり、喧嘩をすると次の日も顔を合わせることになる。土地を持って移動できないから、喧嘩をするよりは協調を旨とする。大坂なおみの言葉や行動は、日本の文化をよく表している。

宗教にも多くの差があり、遊牧起源の文化は、一神教が多い。土地と結びついて農耕文化は、多神教が多く、異なる神々を容認する。

韓国の場合には、基本は農耕文化であったと思われるが、ジンギスハーン以来遊牧民の影響を受けてきたと思われる。私が調査に訪れた時に、私のもとに留学していた南さんがいつも一緒だった。多くは南さんの学生も一緒で、キャンプ時などには炊事をしてくれた。食事代を渡すと、肉を買うときに内臓が多く、その調理方法も十分理解していた。韓国では例えばウシの腸などは、内容が詰まったまま売られており、その処理方法も十分に技術を持っていた。日本人でそのような技術を持っている人はほんの少数で、一般的な文化ではない。

日本の教育の中では、このような基本的なことをあまり教えていないように思われる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

スポーツ界の問題 

スポーツ界の問題  2018.09.13.

日大のアメフット部・アマチュワボクシング・体操の暴力とパワハラなど様々な問題が噴出している。いずれも元一流の選手などが絡んでおり、不可解の点も多い。

あまり議論されていない問題を取り上げてみる。すごい努力をして成績を上げても、そのことで人格が格段に成長するというものでは無い。これは勉学や研究でも同じで、成績が良くなったからと言って、人格の向上が付いてくるものでは無い。この点をスポーツ界などでは、誤解しているように思われる。オリンピックで金メダルなどを取ると、まるで人格まで完成したかのように錯覚しているのではないであろうか。オリンピックのメダリストなどの、自殺者は意外に多い。ヒトは、幸せのために努力して生きており、自殺の苦しさを知っている人であれば、自殺が人格の完成に如何に離れているかを知っていよう。

大学などでも研究者の専門業績の成果と人格はかなり離れている。以前に広島大学であった助手による上司殺しなどを見ても、そのようなことが伺える。多くの研究者は、研究成果を求めるが、努力すればそれによって人格も形成できると錯覚している。大学などで見ていても、7割の人は錯覚を起こしているように思われる。

スポーツでも勉強や研究でも、そのことに一途に向かっていると、他のことについて配慮している時間がない。従ってその視界は狭くなり、自分の人生について十分に考える時間がない。自分のしていることだけですべては完結すると思っており、その他のことについて深く考える時間がない。このことが人間を狭く小さなものにしている。そのことに気が付かないまま、努力している成果に気を取られ、他のことが理解できなくなる。人格の形成や自己を高めるためには、そのための方法を別に手に入れなければできない。特にその成果によって、他の人々から評価されると、人格まで高まっているような錯覚を起こしやすい。

今回関係した人々の、テレビでの表情を見ていると、如何にも何かの欲に取りつかれて、自分自身が振り回されているように見える。権力の座に就くとあのようになるのかと、年金暮らしの下流老人にとっても自己反省の良い材料である。

ところで、日大のアメフット部の学生の訴えと、体操の女子選手の訴えではかなり異なる印象を持っている。体操の訴えでは、当人がマインドコントロールされているように思われる。暴力と優しさによってマインドコントロールがなされており、本人の表情の精気が感じられない。暴力をふるっているコーチの後ろ姿からは、明らかに怒りと興奮が見てとれる。言葉の無い動物と長く付き合っていると、その心の動きは体に現れることは明白である。訴えられた体操界の重鎮であるお二人も、自分の何かの欲が出ていることは、自身で気が付かないところであろう。

ボクシングの問題では、言葉の相違を強く感じた。私には韓国人の友達がたくさんおり、40代のころにはたびたび調査に行っている。その際にある市の教育長さんから聞いた話であるが、韓国は自分たちで国を作ったことがない。いつも他国から人が来て国を作り、国民は国から守ってもらえることはなく、自分で生き延びるのが原則であった。そのため、日本とは同じことわざでも、意味の取り方がかなり違うと言う。例えば、「長いものに巻かれる」という言い方は、日本ではマイナスなイメージとして使われる。しかし韓国では、積極的な意味があり、長いものに巻かれても生き延び、再起を図ることが良いこととされていると言う。韓国では、家系を示す姓の数は少ない。しかし各姓は、同族意識があり、まるで家族の様に振舞う。留学していた南さんに連れられて、田舎で調査しているときにそんな経験をしたことがある。南さんも初めて会う人であると言っていたが、ずいぶんとお世話頂いた。
それとは別に、言葉の使い方の相違も文化によってかなり異なる。我々は、フランスの自由・平等・博愛という精神を聞いている。大使館の公使でフランスを専門としている方に伺った話では、この解釈がかなり異なる。日本人は、博愛についてすべての人に向けたものと理解しているが、フランスでは各自の縁者に向けたもので、決して全体に向けたものでは無いと言う。韓国の姓の様に、自分の関係する縁者についての概念があるようである。アマチュアボクシングの元終身会長が言っている、「選手を愛して行ってきた」という言葉は、確かに本当であろう。しかし日本人の感じるように全体に向けたものでは無く、自分に関係の深い選手に対する愛であるように思われる。
韓国では、歴代の大統領が起訴されることが多い。いずれも親族などが絡んでいて、縁者に対する文化が関係しているように思われる。
言葉の使い方は、文化によってかなり異なり、自分流に解釈してもなかなか全体像は見えないように思われる。特に遊牧を起源に持つ文化は、我々土地に結び付いた農耕の文化とはかなり異なる。

最近は、日本体育大学の駅伝の監督のパワハラ、ウエートリフティング関係のパワハラなどスポーツ世界では、話題に事欠かない。

大きな原因に、指導者の人格の形成が不十分な現実があるように思われる。指導者や教育者は、完成していないまでも自分の人格を磨くことに常に注意する必要がある。自分の持っている物以上には、相手に伝えることはできないのであるから。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

カラカサタケ



カラカサタケ   2018.09.12.

カラカサタケが、散歩道の土手で顔を出した。子どものころよく食べていたハラタケ科のキノコで、カラカサのように大きく広がるのでこの名がある。傘の部分が柔軟で、手で握ると閉じるので、我々はニギリタケと呼んでいた。

しかし土手に生えているカラカサタケは、子どものころに食べていたものとややイメージが異なる。食べていたものはもっと全体に暗色で、茎の部分はヘビのような模様があった。また傘の上の斑点ももっと大きく、暗色だったような気がする。カラカサタケは、かなり種類があるようで、異なる種類かもしれない。中には下痢などを起こす種類もあるようなので、注意したい。子どものころは焼いておろしで食べるのを楽しみにしていた。

毒キノコでも食べることが可能なものがあり、干すことによって紫外線で毒が分解されたり、水溶性の毒はゆでたりすると食べられる。最初の赴任地の菅平では、同じハラタケ科のベニテングダケが沢山出た。我々は茹でるあるいは干して、冬用に囲い、食用としていた。ある時キノコ図鑑を書いていた今関六也先生が見え、皆でベニテングの毒性の試食会をした。ベニテングダケもカラカサタケに匹敵する大きさのキノコで。一人2-3本食べるとややもうろうとしてそれ以上はまずいということになった。酒が入るともっと効き目が多かったように覚えている。呼吸困難に陥るので、注意する必要がある。
ベニテングダケの毒性は、ワライタケの毒性とは異なり、かなり安全のように思われる。志賀高原の北のブナ林で調査していた時に、ワライタケを見つけ少しだけ噛んでみた。強烈なしびれ作用があり、水で洗っても半日ほど口内がマヒしていた。ワライタケは、笑っているのではなく、顔面神経が収縮し笑っているように見えるのであろう。もし飲み込んでいたら、多分内臓が収縮し、かなり危ない状況になると思われた。ブナ林では他に、ツキヨタケなどの毒キノコがあり、毎年死亡者が出る。同じブナにできるヒラタケ(今は栽培物がスーパーで売られている)に間違えられることが原因である。この毒は、煮ても薄れることはない。

カンボジアでは、フクロタケがよく食事に出る。主に鍋物の具として登場するが、野菜と炒められて出ることもある。カラカサタケと同じように、イネ科の植物の枯れ草に出る。農家では、イネわらを牛の飼育のために庭先に積んでおく習慣があり、その周囲に水を撒くとフクロタケがよく出る。ニワトリに蹴散らかされないように、網などをかぶせて保護している。私が務めていた高等師範学校(プノンペンの真ん中)でも、先生たちが実験場の隅に藁を持ち込み、水をかけて栽培していた。市場などでも売られており、かなり一般的なキノコだ。

アフリカでもキノコを食べたことがあり、かなり美味しかった。しかし我々が調査に出かける夏は、タンザニア(南半球)の乾季に当たり、基本的にはキノコはほとんど見かけない。一度雨が降った年があり、老人が採ってきて持ち歩いているのを道路で見かけ、分けてもらった。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

ニガウリ:ゴーヤ 

ニガウリ:ゴーヤ   2018.09.06.

ニガウリにはいろいろの思い出がある。私が初めてニガウリに出会ったのは、小学校低学年で、新しい物好きの父親が、庭の畑に作った。今のものの3分の1くらいで、かなり小さかった。長野県の八ヶ岳の北山ろくで、今の長和町大門(長野県小県郡)の標高750メートルぐらいの場所である。寒さが厳しく積算温度(植物が成長に使える温度)が不足していたために、大きくならなかったのではないかと思われる。子どものころは苦味を苦手としていたし、あまりの苦さに熟れるまでおいた覚えがある。熟すと先が割れ、種の周囲が赤くなり、果肉も黄色くなって苦味はなくなった。レイシと呼んでいたように思う。本当は、ツルレイシと呼ぶべきであったようである。

次に出会ったのは、前回「沖縄」に書いたネズミの調査で、鹿児島に行った時である。夕食によった料理屋で、酒のあてにニガウリの塩もみが出された。あまりの苦さに一箸で遠慮した。しかし、沖縄で出されたゴーヤチャンプルは美味しくて、毎回頼むことになった。そのころからようやく苦味に美味しさを感じるようになった。多分おばちゃんたちの元気に明るい笑顔も、味の決め手だったかもしれない。

カンボジアに行くようになって、ニガウリは身近なものになった。カンボジアでは地方に出かけると、街中のレストランは、料理の入った数個の鍋を並べて、その中から選ばせる。皿に盛ってもらって机に座ると、もう一つに皿が出てご飯を盛ってくれる。ご飯は食べ放題が多く、終わりそうになると女性が飯の鉢を持ってくる。断らないと大盛りにご飯が乗せられる。カンボジア人は大食いで、私の2-3倍は食べる。このようなレストランには必ず、ニガウリの肉詰めをスープで煮込んだ、スガオ・マリヤツがある。
最初は苦味を感じたが、次第に慣れて美味しいと思うようになった。カウンターパートが、暑い時には体を冷やす作用があり、健康に良いと言うし。中に詰められる肉のミンチは、挽き肉機などないカンボジアでは、若い調理人が両手に中華包丁を持って、丸切りの切り株のまな板の上で、調子を取りながら元気よく肉をたたいて細かくする。日本の挽き肉よりも、味が良いように思われる。ショウガなどの調味料も効いて、なかなかな味である。だんだん好きになり、地方に出ると必ず頼むようになった。

自分で調理するときは、コンビーフを買ってきてゴーヤと炒め、卵でとじる。沖縄のおばちゃん達のようには行かないが、思い出しながら楽しんでいた。カンボジアのゴーヤは、かなり大きくて、イボイボは尖っておらず、苦味も少ない。よく行く日本食レストランでも、友人が集まると、メニューに無いゴーヤチャンプルを作ってもらっていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

沖縄 

沖縄    2018.09.04.   

私には沖縄に強い思い入れがある。1960年ころ学生だった私は、東京の小田急線の代々木上原に住んでいた。金がないので友人と2人あるいは3人で、一部屋を借りていた。同じように沖縄から来て、早稲田の史学の大学院にいた山本さん、東京教育大学の史学科の大学院にいた名嘉さんが、一部屋に住んでいた。時々一緒に食事をして話を聞くことがあった。彼らは休暇に沖縄に帰ると、警察が常に監視していると言っていた。当時は60年安保のデモの盛んであった時代で、史学科はその中心的存在であった。そのために返還前の沖縄では、警察が常時監視していたのであろうと思われる。

その後13年間助手をして、大阪市立大学の医学部に転職した。同じ助手であったが、実に自由で、何でも好きなことが出来た。そのころできた友人がいろいろ準備をしてくれ、日本列島の都市のネズミを調査することになった。那覇、鹿児島、松山、大阪、名古屋、札幌などで、各季節に1回位ぐらい調査をしたので、かなり忙しい時期であった。
その那覇での調査は、1976年ごろであったと思うが、まだ1ドルステーキなるものがあって、時々食べた覚えがある。1ドルはまだ360円であったように思う。
沖縄の日本土復帰は、1972年5月15日であるから、4年ほどは経っていたと思う。那覇の繁華街の国際通りを歩いていた時に、前を歩く20代の女性の体型に突然目が留まった。足は細く、ひざが太い。終戦直後の日本人の体形とほとんど同じである。子どもの頃のことは覚えたいないが、研究を始めてから、栄養と体型にも関心を持ち、いろいろ調べていたので、かなり衝撃的であった。本土と同じ時期に戦争は終わっているはずであるが、如何に沖縄の栄養状態が悪かったがが、如実に表れていた。
同時に、那覇から北に向かった時に通過した、嘉手納基地の情景である。国道が通る基地の脇のフェンス沿いに、たくさんの人々が並んでいる。運転をしていた仲根さんに聞くと、基地のために土地を無くした人々が、国道とのわずかな間の土地で、野菜を栽培しているとのことであった。その野菜に食用に持ち込まれたアフリカマイマイが付き、食べつくすので除去しているのだと言う。上を行くF戦闘機の轟音とともに、今でも時々思い出す光景である。
那覇の調査では、いつも事務所の近くのおばさんたちがしている食堂に行った。ゴーヤのチャンプル(ゴーヤの炒め物:コンビーフとゴーヤ)、トーフのチャンプル、なかみ(ヤギの内臓のスープ)など、今でも美味しさを思い出す。親切なおばさんたちの笑い声とともに。

基地の問題は、もっと本土の人(ウチナンチュー)が真剣に考えなければならない問題であろう。沖縄の基地の負担は、想像以上に重い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )