大使館推薦奨学生の面接

皆様

ご無沙汰致しておりました。
ワークショップの報告がまとまらず、前後が逆になりますが、7月末にしたちょっと変わった体験を先に報告させて頂きます。
今日は9月11日ですが、雨期の終わりに近くかなりまとまって雨が降ります。気温は下がって、生活はし易くなっています。
それでは以下報告です。

大使館における大学院修士過程奨学生の面接について
                    2005.8.20.
                NIE サイエンスアドバイサー 金森正臣

はじめに
途上国に置いては、日本の大学に留学を希望する人々は多い。日本側からすれば、途上国の発展に寄与するため、帰国後本国の発展により有用な人材を選考しなければならない。カンボジアの様な教育環境が十分に整備されていない国に置いては、様々な問題が手探りの様な状況で行われている。
今回偶然に、日本の大学の修士過程に留学を希望する人材の面接に関わったので、幾つかの問題点についてまとめた。今後試行錯誤しながら、より良い人材の養成が行われることを願っている。
日本への留学は、様々な形があり、今回の報告は大使館推薦と言われている部分である。文部科学省が各国大使館に依頼して、留学希望者を選定し、日本の大学に推薦して受け入れられれば留学が可能となる。他にも、JICEが行っている、指定大学への留学や日本の大学が直接人選して文部科学省に推薦する大学推薦などがある。また、県・市などや財団などが行っているものもある。

選考のおよその手順
選考の過程全体を明らかには把握していないが、大使館で面接する学生は既にカンボジアの教育省に於いて第一次の選考を通った学生である。およそ半分の数が篩われて、大使館に書類が回ってくると聞いている。この中で日本側の筆記試験と書類選考を経て、約半数が面接に到達する。聞くところに依るとカンボジア側に置いても、大学の成績や志望動機など提出書類が選考の対象になっている様である。
カンボジアの大学における成績は、かなりの問題点があって選考の基準として適当であるかは疑問が残る。大学の授業内容がどの様になっているかが明らかではない。何人かの大学教員は、適当な授業が行えるか疑問がある。更に試験問題の作成にも問題があり、授業内容について理解しているかどうかを問う様な問題が作成されているか疑問がある。単に関連した様なことを聞く問題も少なくない。また後述の学生の履歴の項の様に、取得単位数が多く(1年間に2つの大学に於いて70単位以上も取得している可能性がある。これは日本の学生の取得する年間取得単位数の倍近い数値である)、まともに学習できる状況にはない。この様な結果の成績を基準として選考した場合に、日本において多くの学習が可能な人材を選考できるかは疑問である。しかしながら、現在の所他に適当な選考材料が存在しないため、この成績に頼らざるを得ない。

面接員について
日本大使館で行われた面接試験には、当初大使館から2名(2等書記官、専門調査員)、在カンボジアのJICA専門家2名(カンボジア日本協力センター所長、RUPP日本語コース専門家)、筆者の5名の面接官が予定されていた。7月19日に大使館で行われた事前打ち合わせの際に、筆者の働いているNIE(National Institute of Education)の教官で、今春鳴門教育大学で博士号を取得して帰国したヘン・メインさんを推薦し、面接官として採用頂いた。彼の日本での7年間の経験が、今後の選考でも有効に働くであろうと考えたからである。この中で、日本での研修者の受け入れの経験があるのは、日本協力センター所長と筆者の2名である。
文部科学省からは選考基準として幾つかの注意事項が示されている。
幾つかの例を挙げると、【(a)日本留学に対して、明確な目的意識を持つ者。(b)環境適応性のある者。(c)国際理解に富む者。(d)積極的に日本語を学習しようとする意欲のある者。(e)申請書の記載事項中、特に別紙「専攻分野及び研究計画」が詳細、かつ具体的に記述されているか否かを留意すること。留学の目的が具体的かつ明確であることが重要である(従って、「日本に行ってから指導教員の指導を得て研究計画を決める」といったような記載の研究計画は不適当である)。また、大学の配置に当たって、最も重要なのは、「研究計画」、「最終出身大学の成績証明書」及び「卒業証明書」であることにご留意願いたい。】以上の他にも様々な項目があり、全体では12項目ほどが上げられている。
言葉で示された注意事項は、留学生の受け入れ経験があると、どの様な問題か具体的に理解できる。経験が無いと一応言葉の上では理解は出来るけれども、実際に選考の基準として何を見たらよいかは、かなり難しい問題である。特に(a)、(b)、(e)などについては、経験がなければ判断が難しいであろう。
(b)環境適応性のある者などの判断は、引き受け側としても大きな問題である。問題が起こると、研究や教育の指導よりも大きな労力を要し、かつ成果が上がらないところとなる。主に健康上のトラブルと精神的なトラブルが考えられる。健康上の問題は、医師に任せることが出来るが、精神的な問題が起こると単純には行かない。筆者の経験では、その間本来の自分の仕事である学生の指導や研究も行えない状況に陥ることがある。これらを面接の段階で完全に除去することは困難であるが、臨床心理学的判断の出来る者が参加すれば、ある程度は少なくすることが可能であろう。
(e)の「研究計画」については、着眼点、内容が妥当であるか、研究の順序が適当であるかなどある程度の判断が出来ることが望ましい。しかし後述する様に、カンボジアの状況は「研究計画」の内容が理解できる程度にまともに書ける状況にはなく、判断の材料にすること自体に問題もあると思われる。
「研究計画」に関しては、study program と訳されており、学習計画と思われるプランを書いた受験者もいた。もしこれを修士過程の研究計画として示されると、受け入れ側の日本の大学教官は、修士学生の研究計画として受け入れることは困難と判断すると思われる。「研究計画」は、research planとした方が、適当な様に思われる。
カンボジアの様な小国の大使館で、これらの人材を確保することにはかなりの困難があろう。教育全体に様々な問題を抱えたカンボジアでは、奨学生の選考に際しては日本から受け入れ経験のある大学教員などを招聘するなど、特別な配慮が必要と思われる。もちろん一般事項を評価する委員も必要であり、全員が専門家である必要はない。

 面接における幾つかの視点
 面接において筆者が重要視したのは、精神的安定度である。順番は付け難いが、問題を抱えている受験者を見分ける様にした。特に問題を抱えている人材さえ見分けられれば、後はほとんど同格であろう。これと関連している事項が、柔軟性である。緊張が高く、柔軟性に欠けると適応力にも影響してくる。また、学習能力とも深く関係する事項である。文部科学省の選考基準(b)に関する事項である。
現在のカンボジアの大学卒業者を見ていると、知っていることと理解していることの区別ができない。即ち、使えない知識を沢山持っていることに気付くことができない。従って、日本に留学した当初のカンボジアの留学生は、修士過程の内容を理解することは困難であろうと思われる。その際に柔軟な思考で、適応方法を探れることがその後の発展に大きく関係する。最初のつまずきをクリアーできないと、本人にとっても苦労であるし、指導者側も苦労する。
 柔軟な思考の持ち主は、学習能力も高く、他人からの吸収に優れている。自分の学習分野以外についても、吸収することができる。日本において単に修士過程を終了するだけでなく、様々な側面を見聞きし、カンボジアと比較しながら判断できることが重要である。人材の発展性から見た場合に、この様な人材が、カンボジアとして有用と判断できるのでは無かろうか。
 柔軟性に優れた人材は、他の人からの意見を聞くことに関しても優れている場合が多い。この様な人柄は、他の人からの信頼性も高く、指導的立場に立った場合に力を発揮できることが多い。帰国後の活躍を考えると、カンボジアにとって有用な人材であり、選考の重要な視点になる。
 これらの全てを短時間の面接で、完全に行うことは不可能であろう。完全には行えないにしても、より良い選考をするために、今回は中学校レベルの簡単なテストを目の前の白板で行って貰うことを計画した。これは、試験結果の点数を見るためではなく、受験者の注意がテストを行うことに移行した時に起こる、無意識の内面が行動に表れるのを、行動学的側面から観察できるからである。多少の手違いがあって、白版は準備できなかった。それでも面接の場面で座った机上で、テストを2題ぐらいして貰うことによって幾つかの問題は垣間見ることができた。簡単なチックや軽い赤面恐怖などを持った事例が観察された。
 受験者の学力については、面接ではランク付けすることは難しい。特に様々な分野が含まれていると、相互比較が困難である。大使館で行った試験、或いは中学生レベルの基礎的事項について、10題程度を出して、結果を比較することも今後必要かも知れない。これらは、面接における選抜の資料としてだけではなく、奨学生が決定して後の日本側の指導教官に対する依頼事項の資料としても重要と思われる。

受験生の学歴
書類から判明した受験生の学歴に関して、日本とはかなり異なった状況が見られた。
小学校が数年前(7年前までといわれている)までは5年間であり、従って高等学校までの学歴が11年間になる。現在では日本の受け入れ大学側も、高等学校までの11年間の就学年数を受け入れる方向にある。以前には大学院でも就学年数が足りないと判断されていた。小学校への入学年齢は、日本の様に一律ではなく、入学する学校の校長先生の判断に任されている。書類で見る限りでは、4歳児の小学校入学が17人中2例見られた。従って大学卒業年齢も若くなる。
また多くの小学校では、教室数の不足などにより午前の部と午後の部で学童が入れ替わる。このため高学年になっても、日本の様に授業数は多くならない。市街地では、更に夜間部の存在する3部制のところもある。
更に大幅に異なる点は、2つの大学に同時に在籍することは普通に見られる現象である。大学1年生時に、次の大学にも入学し、1年程度ずれているが、2つの大学を卒業してしまう。大学では、135単位から162単位程度を取得しており、各単位がどの様に設定されているか不明なところもある。しかしながら科目毎に時間数で示されている大学もあり、これから推測すると日本の時授業時間数と単位計算の間に大きな相違はないと思われる。但し、日本では、講義1時間に対し2時間の予習復習、演習では1時間の予習復習を前提としているが、この様な規定はなく、単に授業に出ている時間のみで計算されている様に思われる。
更に履修内容として上げられている単位は、ほとんどが専門科目であり、一般教養の様な内容を示す単位はほとんど無い。希に関連した外国語がある程度である(例えば、商学部における商業英語など)。
この様な教育体制の問題として起こることが幾つか上げられる。特に学習内容がどの様になっているか、教師の力量にかかっている部分が多い。その教師の力量も日本の様に質が揃っているわけではない(もちろん日本でもかなりの差はあるが、カンボジアの場合には、正規の教育過程を経ていない教師も居る)。この結果、大学卒業生であっても、小・中学レベルの学習内容が理解されていないことが多い。記憶に頼り、ライセンス取得を目的とした勉強は、実際の場面で役立たない。

カンボジアの奨学生の問題点
基礎的学力
面接の場面で出題した中学生レベルの問題の解答から、図らずも受験生の問題の一部分が浮き上がった。例えば、数学の帯分数と真分数の足し算は、10人に2題ずつ出題して、正解はゼロであった。回答過程が分かる9例を分析すると、全て帯分数を仮分数に直す時点で、誤りが起こっている。その後通分するところはできている。即ち、帯分数を仮分数に直さなければならないことは知っているが、どの様にするかが明らかではない。ある者は、整数部分と分子の積を分子としている。仮分数と真分数の加算は8人が正しく行っているので、誤りは最初の部分による。
物理分野の電池と電球の3つの回路から、もっとも明るい回路を選ぶ問題では、6人に出題して正解が1人、誤りが5人、内1人は手付かずであった。日本では小学校で電池と豆電球で遊ぶところから始めて、電圧や抵抗を理解して行く。カンボジアでは、教材としての電池や電球がないため、回路だけで教えられている。このため実感はなく、時間が経つと忘れてしまうのであろう。また、高校の先生でも電圧、電流、抵抗の関係が理解できていない例を多く見ており、本や黒板上だけではなく、実物で学習する必要性を感じている。
化学においては、水素が酸素と反応する場合と炭素と酸素が反応する場合の化学式の完成と出来た物質を問うた。5人に出題し4人が化学反応式について正解であった。しかし出来た物質に答えたのは、1人だけで4人は回答が無かった。出来た物質について回答が無かったことに付いては、2つの場合が考えられる。一つはできない場合であり、他の一つは問題を全部読み取ることが出来ず、半分だけ回答した場合である。後者の場合には、不注意であり学習上に問題を残す。
カンボジアで教えていると、教えたことに対する理解が十分でない場合が多い。即ち、10のことを教えると3-4程度のことしか伝わらない場合が多い。注意して観察すると、彼らの注意力が散漫であり、十分に聞き取れていないことが多い。カンボジアの先生の授業を観察していても、同じことが観察され、生徒の注意力は十分ではない。日本の生徒より私語も少なく、静かに聞いていることが多いのであるが、かなり注意は他に逸れていることが観察される。化学式の物質につての回答のないことは、この様な現象と関連している様に思われる。
この様な基礎的部分のできない現象が、修士過程を受験しようとする理科や商学部希望者に共通している点は、日本での学習の上で大きな問題となる。
筆者がカンボジアで最初に学校を視察したのは、1999年である。小、中、高等学校の50以上のクラスを見学した。各クラスは、50-75人程度おり、教科書は1-2冊、ノートはほとんど見かけられなかった。シソワット高校を見学した折りに、1クラスに2-3人の生徒がノートと教科書を持っていた。授業は、先生が黒板に書いたものを、生徒全員が唱和して覚える形式がほとんどであった。生徒を指名する先生もいたが、多くは板書したものを読ませるだけであった。
この様な状況と今回の試験の結果を考え合わせると、帯分数を仮分数に直してから分数の加算を行うことは学習しているであろう。ノートや紙などの練習材料が十分ではなく、ほとんど復習できなかった状態のため、きちんとした手順が忘れられたと思われる。カンボジア人の能力が高いことは、市場なので垣間見ることができる。カンボジアのリエル、アメリカのドル、タイのバーツ、ベトナムのドンなどが流通している。字を知らないために署名のできないおばさん達であっても、鶏や魚の目方を量りながらこれらの通貨に対して正確におつりを渡すことができている。練習さえすれば、彼らは十分な能力を持っていると思われる。
カンボジアの留学生のこの様な現状での学力問題は、2つのトラブルを予想させる。一つは受け入れ先の指導者の戸惑いである。現在カンボジアの状況を熟知している日本側指導者は少ない。大学院レベルと理解して取りかかると、簡単なホームワークを、なぜ学生がやらないかが理解できない。筆者も初期にはその様な誤りをおこしたことがあった。平均値の出し方を知っているか確かめて、簡単な平均値の計算を、ホームワークとして課したのであるが、なかなか提出されなかった。聞いてみると平均値を出したことはあるが、出し方を忘れており自信がなかった。その結果、誰かが出してくるのを待っていた。セッションの中で行ったところ、十数名いた全ての参加者が計算の方法を思い出し、次からは確実に提出される様になった。また、教員養成学校の先生であっても、物差しの使い方が分からずに、大きさが測定できない状況にあった。物差しなどの教具が不足しており、使ったことがなかったのである。受け入れ指導者側のこの様な戸惑いは、問題に対する情報があって理解さえしていれば、対処の仕方などの予想をすることができる。他の一つは、学生側の問題である。不十分な理解のまま、先に進むとレポート段階でつまずきが起こる。その結果、カンボジアの一般的方法である文献の単なる書き写しとなり、単位の認定がされない。その場合に学生としては、なぜ単位が認定されないのかが理解できない。
この様な問題のためには、教官・学生双方にカンボジア側からのサポートをすることが有用であると思われる。
学習方法の相違
カンボジアの教育問題の一つに、記憶中心の教育方法がある。小・中・高等学校を通して、先生自身の経験が記憶中心である。これは上座仏教の寺における経文の学習の方法の影響もあろうかと思われる。教科書・教材・教具の不足がそれに拍車をかけている。その結果、学生はほとんど考えることをしない。従って、物事を理解したり、全体性の中での位置付けなどを考えたり、相互の関連性を考えることがほとんどできない。資料を見て、それから何かを考えることは、ほとんど訓練されていない。
カンボジアの大学では、ほとんど研究が行われていないために、当然学生にも研究指導は無い。特にカンボジアの教育は、その内容が十分ではない(筆者のホームページhttp://blog.goo.ne.jp/kana_mori/を見て頂くと、この2年間に観察した事項の一部が掲載されている)。志願者が十分に自分の専門分野について理解出来ていないために、(a)の「明確な目的意識を持つ」や(e)「専攻分野及び研究計画」を書くことは極めて困難な現状である。
日本の修士過程では重要な要素として研究活動が行われるので、思考することを初期から訓練しないとならない。
日本で修士レベルの勉強をするためには、指導者側も学生側も、この点(基礎学力の問題)を理解しないと大きなつまずきの原因となる。

日本における希望大学について
 日本で学習する場合に、どの大学を希望するかを面接の中で聞いた。多くの受験者が2-4校を上げた。主にインターネットなどで調べている様である。
 今年度から日本の大学も文部科学省の指導で従来とは手続きの方法が変わり、大使館における選考を通ってから、大学側と連絡を取り、受け入れ許可を受ける様になった。事前に直接教授と連絡することはなく、大学の学生課などが窓口になって受け付ける。このため受験者の中には、大学の内容について理解していないと思われる回答もしばしば見られた。
 インターネットはかなり普及しており、町中でもインターネットカフェーが大流行である。しかしながらその使用方法については、十分とは言えない。例えば、日本の大学の現状についての認識は十分でないと思われる。一般に大学院であれば、引き受ける指導教官の専門でカバーできる範囲には限度があり、例えば生物学であれば何でも引き受けられるといった状態にはない。従って、教官のホームページなどから研究内容を探り、自分がどの教官についた場合に、自分の希望する内容が研究できるかを判断しなければならない。
 カンボジアでは、大学であってもあまり研究活動は行っていないため、研究の指導も十分ではないと思われる。この点は提出された「研究計画」でも重要な問題となる点であり、大学の選択においても問題になる。これによる問題点として、第一に自分の研究したい内容がどの点にあるのかが明らかではない。第二の問題として自分が選択したい内容が何処にあるのかを調べることが困難である。
 カンボジアの一般的な傾向として筆者のいるNIEにおいても、一つの物事を調べる場合に、ある事柄が分かるとそこで調べることが終わってしまう。色々な方向から調べる、異なった立場から調べることはあまり行われない。これは従来のカンボジアにおける教育が、記憶を主体に行われており、理解する、論理的に考える、相互の関連を考える様なことは行われていないためであろう。このためある事柄が分かると、それで十分と理解されていると思われる。
以上の点については、今後留学希望者に対する適切な支援を行わないと、カンボジアからの奨学生を引き受ける教官が少なくなり、結果として奨学金を受けられる学生が少なくなると思われる。

今後にどの様に反映させるか
 今後のカンボジアからの留学希望者に対する、支援の幾つかの視点をまとめておきたい。
 1)応募者に対してどの様な支援が必要か
 応募希望者に対して、日本の大学の現状を説明する必要があろう。これは大学院希望者だけではなく、学部、高専、専門学校希望者についても同様であろう。カンボジアの教育システムと日本のシステムとの相違、実際に希望する分野をどの様に探し出すかなど。これらについては、日本人が行うよりも、日本に留学した経験者から説明して貰うのが適当であろう。日本人が当然と思っていることも、カンボジアの人にとっては分からないことも多い。現在カンボジアには、日本に留学して帰国した人々の会がある。これらの会と連絡を取って支援を要請するのが適当であろう。
 2)留学生に対して、より有益な学習が出来る様支援する
 留学が決まり、日本で学習を始めてからの支援も重要である。文化の相違や習慣の相違による理解が難しい事柄について、カンボジアからの支援体制が有効であろう。日本での学習帰国者に協力を得て、インターネットなどで相談に乗れる様なシステムの構築が有効と思われる。また留学生同士が連絡でき、相互に相談できることも学習上有益である。かつての研修で、1大学に1人の場合よりも、複数の研修者が居る場合の方が活動範囲も広がり、様々な経験ができることが認められた。1大学に1人であっても、相互に連絡が取れると、様々な情報が共有できる。
これは次に述べる引き受け教官への支援となる事柄でもある。
 3)日本における引き受け教官に対する支援
 日本において留学生を引き受ける教官が、必ずしもカンボジアの現状を理解しているとは限らない。大学院希望者であるから、ある程度の学力があると判断する人もあろう。実際に引き受けてみると、かなり難しいことを知っているが、基本的なことについて理解できていないことに気付くにはかなりの時間を要する。例えば、カンボジアの留学生は、研究とは「他の本から情報を書き写してくる」と理解している場合が多い。また簡単な平均値やグラフが書けない場合もある。これらの問題は単にトレーニングの相違に起因している場合が多く、理解して指導すればトラブルは著しく少なくなる。
 留学生を引き受けている教官が、カンボジアサイドの支援体制と連絡でき、相談できる組織が望ましい。また、引き受けている教官相互が、連絡や相談可能な状態が良いと思われる。


今回の報告は以上です。
面白くも何ともないので、近くカンボジアで遊んでいる状況を報告致します。
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