カンボジアのにわか造船所

カンボジアのにわか造船所  2013.2.27.  金森正臣

プノンペン市内で、アジアの大河メコンとトンレサップが合流する。その合流点の脇に、にわか造りの造船所が出来ていた。いつからあったかは明らかではないが、少なくとも昨年の末には存在しなかった。大体この場所は、メコンが増水している時は、5メートルは水の下になる。写真1の昨年の8月の増水期には、向かいの中洲との間を行き来するフェリーの船着き場になっていた。

写真2のにわか造りの造船所は、下は川底を平らにしただけで、舗装も何もしてない埃だらけの土の上。この上で船を作のだから、カンボジアの技術もなかなかである。もちろん下は水平になっている保証はない。工作道具もいたって簡単で、酸素ボンベらしきものが転がっているのと、電溶の器具があるぐらいで、他には何もない(写真3)。クレーンも見当たらないし、底が台の上に有る様にも見えない。どの様に作ったかを想像すると、どうやら船底から作り出し、だんだん上に作って来ている様だ。カンボジア人は、日本人では出来そうもない技術を持っている様だ。出来上がりは、写真1の様なフェリーになるのであろう。
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いじめ問題3 体罰・いじめ問題 

いじめ問題3 体罰・いじめ問題      2013.2.16.  金森正臣

大阪の高校で、体育系の部の指導者の体罰が原因と思われる自殺があって、世間で色々取り沙汰されている。実際を見た訳ではないが、新聞報道やネットで見る限りでは、これは「いじめ問題」と同じ線上に存在する。またオリンピックの柔道などでも、暴力指導が問題になっている。

幾つかの問題が目につく。体罰と部の強化の問題。スポーツの抱える問題。学校内での教師の擁護論。自殺に至った生徒の問題。橋本市長の発言など。正臣会で皆さんにお話したことの整理と、多少の不足分を加えた。

1)「体罰」
1、教育には、基本的に体罰は必要ない。教育は、基本的に人生をより良くするためにされるものであって、この過程で人格をゆがめられると悲惨である。人生は自己啓発によって、自ら作り出して行くものであって、外部からの強制・体罰では人格は伸びない。体罰をする教師は結構いるが、指導力が足りないから体罰になる。厳しくすると言うのであれば、まず自らが自分の人生の向上のために厳しくなければならない。指導者が向上していないようであったら、指導される側は、モデルが持てない。指導される側は、指導者の向上のために自己努力している姿を感じて、モデルとしながら自己の向上をすることが出来るようになる。指導者は、される側の状況を良く理解しながら、その時に必要な向上・発奮材料を示して行く。これが行えないと、無理矢理にさせる指導になり、脅かしや暴力になる。
2、学校時代や若い時は、人生の基礎を作る時期である。人生の基礎は、伸び伸びと人格を伸ばすために使われなければならない。スポーツの勝敗は、人生の役にはあまり立たない。なぜならば、優勝の喜びや勝敗の喜びは、時間とともに薄れて行き、その後の人生を支える役には立たないのは、オリンピック選手の自殺が多いことからも伺える(後述)。
3、人生は死までの全体で評価する必要がある。若い時の成功では、満足し、安心して死ぬことはできない。人生は最後に、幸福だった、満足だったと言うために生きている。その為には、自分の人生は自分で創造して行く必要がある。他人のものまねや強制では、自分自身は作れない。原因は人間には個性があり、個性は各人が異なるからである。


2)スポーツの抱える問題
1、スポーツ選手は、一流でも問題を抱えている場合が多い。東京オリンピック以来、40年ぐらいが過ぎる。その間にオリンピックは10回ほど開かれており、日本のメダル受賞者も、ロンドンが平均ぐらいとすると、3-400人になる。オリンピックのメダル受賞者などは、スポーツでも一流と言われる人たちである。しかし、このオリンピックメダリストの自殺率は異常に高い。知っている限りでも、メダリストで2名の自殺者が居り、日本人の平均率よりははるかに高い。自殺と言う人生の結末は、人生の中でも最も悲惨なものであろう。我々は、悲惨な結末のために人生をしているのではなく、幸福な人生のために行っている。スポーツで一流でも、人生について大きな欠陥があることは容易に想像がつく。現在では社会人の半数以上の人が、自殺を考えたことがあるから、自殺を考える場合の苦しさは、理解できる人が多いであろう。
2、スポーツでは、勝敗にこだわり、努力していることを、人格の形成に努力していると錯覚を起こしやすい。優勝者は一流と言われるが、人格的に成長していない場合も多い。指導時に暴力が伴うのは、熱心だからではない。指導するだけの人格も実力(特に指導の)も無い、技術だけの人間が指導を行うからである。教育も指導も、最終的に相手を動かすことができるのは、人格である。もちろん人格の完成には時間がかかるから、若い人は駄目かと言うとそうではない。人格の未完成な人でも、自分の人格に対して厳しく鍛えている人は、相手が自然に動く。即ち、指導者に必要なのは、相手に厳しくする事ではなく、自分の人格向上に厳しくなければならない。そのことによって、教えられている人は、自分自身を鍛える方法を学び、強制ではない自己啓発の道に向かうことができる。この自己啓発の手本を示せないから、指導を受けている方は、どのようにして向上するのかが具体的に見えてこない。その迷いに対して、指導能力の不十分な指導者は、言葉や実際の暴力によって、強制するところに陥る。熱心に指導したからつい手が出たのではない、指導力のなさを強制で補おうとするからである。スポーツの指導者は、自身の自己啓発のためにどのように努力しているのか疑問である。特に無意識に暴力に頼る(熱心な指導と言う言い訳で)状態は、明らかに自分の無意識に対する理解が足りないことを物がっている。
3、スポーツでは、競争と人に称賛されることが主体になり(他人の評価)、本当の自分を見つけることが難しい。人生は自分が主体である。人の評価で自分の評価をしていると、評価者が変わるごとに人生の方向性が変わり、一から出直すことになる。自分が自分の主人になっていないから、いつも外部の評価を気にして精神的に不安定になる。これらが、スポーツでの成功者が、自殺しやすい状況を作っているように思われる。
 もちろん暴力をもって指導しても、ついて来る選手もおり、それによって指導が適当であったと評価するのは、早計である。家庭での教育が十分ではなく(現代社会では、このような家庭が半数以上あると、私は思っている)、自己が育っていないと、外からの強制を欲するようになる。しかし、人生は、いずれ自己の力で切り開かなくてはならない時期が来る。そのような時期に、自分をしっかり持っていないと、仕事も人生も向上がなく、堕落して行くことになり、最も苦しむのは自分である。周囲からはいかに貧しく見えても、本人は生き生きと人生を過ごしている例は多いが、現代社会ではこのような人に目を向ける人は少ない。自立を育てることのできない親は、強制する指導者を望むことが多く、自分が家庭でするべき役割を、外部に依存する傾向がある。また自己が家庭で十分に育てられていない人は、外部からの強制に頼る傾向が有り、強制されることを良としている。外からの強制によって、自分を育てようとするからである。このような家庭での育て方の不足が、強制する指導者を望んだり、保護者が暴力の指導者を擁護したりすることになる。
4、強くなるためには、ある程度厳しいのは当たり前であると言う保護者の問題
 子どもの自立は、家庭で行うのが基本になる。その上に外部との関係で、自己が形成されて行く。ところが自立の十分でない親は、家庭において子どもに十分な指導が出来ない。これは子どもの親への評価を、親が気にする場合に起こりやすい。親は子どもと生活を共にする時間が最も多いし、子どもの全ての主導権を持っている。しかし子どもとの関係が十分に作れていない親は、子どもからの評価を気にして十分な指導が出来ない。その結果、本来親がするべき子どもの自己規制の基準作りを、外部に依存して自分は優しい親を演じている。このような場合には、指導に暴力があっても良い指導として応援することが起こる。このような保護者は、無意識の補償作用として、部活動のサポートや熱心に指導者を助ける保護者であったりする。
5、いじめとの共通点
 強くなるためには暴力も容認する保護者と子どもの関係は、いじめのグループの保護者と子どもとの関係と共通点がある。いずれの関係も保護者が、子どもの自立を十分に育てていない。いじめの場合には、子どもの自立が育っていると、子どもはある程度危険になると、他のグループに移動することができる。このような例は、かなり沢山ある。しかし自己が育っていないと、自分で決定することが出来ず、いじめグループから逃げ場が無くなって自殺する。いじめグループの構成員はいずれも自立が育っていないために、いつ自分がいじめられる側になるかと不安を持ちながら、グループから抜け出す決定を自分ですることができない。このような傾向は、暴走族のグループにおいても見られている。
自殺には様々なメッセージが込められていて、自宅であるいは保護者の近くで自殺する場合には、保護者に向かって自分の育てられ方に対しての抗議のメッセージが強く込められている。自分が自殺した後に、誰が一番苦しむべきであるかを自殺者は無意識の中で感知している。いじめで自殺させられた子どもの保護者は、被害者であるように振る舞うことが多いが、自殺した子どもにとっては、一番の加害者なのである。日本の文化では、「半官贔屓」と言う言葉があり、弱者に対して批判することはしない。しかし、この点について見過ごすと、問題の解決法を誤る。
 スポーツの指導の中で暴力があっても容認する保護者は、自分の家庭における自立の教育の不足を指導者に求めており、この点でいじめ問題を引き起こす保護者と共通点がある。

 3)スポーツでの成果と教師の評価
1、 成績が良ければ評価される:その裏の側面は見逃しやすい。
スポーツでは、結果がはっきり出ることが多い。即ち勝てば官軍である。分かり易いので、この評価法に頼り、人格がどの様に成長して、人生の役に立つようになっているかは見過ごされやすい。分かりにくい子どもの人生に役立つ指導結果よりも、はっきりしている勝敗の結果で評価することが正しいとされる風潮を生む。
2、体罰でも強くするためと評価する父母の問題:自分の家庭で、十分な指導が出来ていないために、教師の厳しさに依存している場合がみられる(前出)。子どもの中にも、自立が十分でない子どもは、外部からの強制によって自分をなんとか成り立たせており、無意識に外部からの強制を欲している。
3、自分の指導力を大会の成績で評価されようとする教師:指導力が十分にないと、厳しい指導(体罰など)に頼る場合が多い。指導力の十分でない指導者は、勝敗によって評価されたる以外に方法がない。本来の人生の役に立つ指導は、目に見えない場合も多い。勝敗で評価されようとする指導者は、人からの評価で、自分の価値を見出そうとしている場合に多い。自分自身を自分で十分に認めることが出来ない結果、外部からの評価で自分の存在意義を見出そうとしている。自己肯定が、不十分な場合が多い。このような外部からの評価は、評価者が変わると評価が変わる。従ってなるべく同じ場所で、仕事を続けようとする。成績を残しているので、継続が当然であると言ったことにつながる。このように他からの評価で動く指導者は、自己の育て方が不十分で、いじめグループの構成員と同じ問題を抱えている。

 4)学校内の組織が、大会の成績などを重視する状態
1、指導者が、学校の名声を得たとして不可侵的存在になる(部活動の優先など):児童・生徒を育てる本来の状況ではないにもかかわらず、そのことが十分理解できていない。本来の評価の基準を自分で作れない校長などや教育委員会などが陥る、誤りである。即ち、本来教育や指導の中で育てるものが何であるのかを、理解できていない人々の集まりの問題である。
2、部活も含めて授業の指導は、児童・生徒の成長を主体にするべきものである。特に校長の力量が大きく影響する場合が多い。私も現職中に、2-300人の小・中・高の校長先生に会ったが、自分の評価基準を十分に説明できる先生は2-3%である。多くの校長先生は、一般に社会で非難されない程度の評価基準に従っており、少し複雑な問題になれば、自分で説明することが出来ない。これは先生と言う職業の特性で、若い時からクラスを持ち、お山の大将になってしまうために、自己を鍛えるための方法を持たないし、自己研さんの経験もない。本来教育者は、相手の人生に向き合う仕事で、自分が自分の人生に向き合わないと相手に示すものがないのであるが、知識や技法で潜り抜けてしまう人が多い。自分の人生にしっかり向き合っていない人が上に立つと、その下で働く人はその影響を強く受ける。
3、教育委員会の人事が、影響する場合も多い。先生の評価は、教育委員会が行っている。上の2で述べたような環境で育った先生は、自分の意見をしっかりと持った人事評価をできない。教育委員会は、先生が構成員のほとんどを占めている。

 5)自殺に至る生徒の問題
1、もちろんいじめる生徒の問題はあるが、自殺に至る生徒の問題はあまり研究されていない:多くの場合に、保護者との生き詰まりがある。「半官贔屓」の日本人は、問題の根本を直視しない(前出)。
2、現在の日本人の多くは、幼児からの成長期に、遺伝子の持っているプログラムが消化されていない。人間は太古以来、自然の中で育つことによって、遺伝子上に載っているプログラムを、使えるようにしてきた。遺伝子上には、獲得するべき能力のきっかけだけが乗っており、成長の段階を追って学習するようにできている。これは直立や複雑な社会を持つようになり、多くの学習が必要になった「ヒト」の特徴である。まだ1-2歳の段階で、意欲を高めるためのきっかけが出てくる。しかし現在の社会では、環境が制限されており、親が子どもの意見を尊重していないと、封殺してしまう。このようにして育つと、良い子であっても、生きる意欲に問題がある場合が多い。このような問題を抱えた現代人は、出産の低下とも関連している。途上国の女性を見ていると、この様な問題はほとんど抱えていない。政府の子育て支援の取り組みなどは、まったく的外れな政策が多く、出産率が向上しないのは当然である。出産はどの動物にとっても、非常に危険は時間で、強い意欲がないと成し遂げることはできない。
3、自殺する子どもは、遺伝子上に載っているプログラムを十分に消化していない。多くの報道に見られるように、「良い子」の場合が多い。優しかったり、思いやりがあったり、大人にとっては良い子に映る。真に自己の育っている子どもは、結構扱いにくい。この様な自己主張のある扱いにくさを、現在の大人は十分に容認していない。

6)大阪市長の問題
1、市長は、問題の根本を調べていない。全職員の入れ替えや入試の中止によって、何が改善されるのか。そのことによって何を改善しようとしているのかは、全く見えない。
2、全員を入れ替えれば、問題は起こらないか。そんな方法で、改善できるところは少ない。経験を活かしながら、改善するところは多いはずである。また現在のメンバーが存在するところで十分に検証しないと、問題点は不明のまま経過してしまう。
3、入試の中止は、入学希望者の希望が無視されている。この様な中学生の意向の無視は、弁護士である市長の人格の歪みである。自分の選挙へのプレゼンだけで、物事を考えている。
4、税金の無駄使い:1)、1年間学生のいないことの無駄、2)、移動による再構築までの無駄、3)、使用していない校舎などの維持費。
5、決断したように見える市長の発言は、選挙民に対する票の獲得のスタンドプレーに過ぎない。具体的方法を持っていない。維新とは何、以前の発想も票目当てに過ぎない。選挙民はごまかされている(船中策など)、斬新なようだが内容は何も無い。
(その後、高校の問題は、やや違った方向に動いたが)
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