年寄りの老婆心

年寄りの老婆心      2009.4.26. 金森正臣

 先の結婚観で述べたように、若い人たちが理論的にものを考えていることは理解できる。年寄りの老婆心から言えば、それが全体性に欠けているために、人生の最終段階において、苦労するのではないかと言うことである。

 日本人の年間の自殺者が、3万人を超えると言うことは、その一端を暗示しているかに思える。年配者ばかりではなく、若い人にも自殺者は多い。人生の最終章ばかりではなく、かなり早い時期から、問題が生じている。先日カンボジアからの帰国に、初めて韓国周りの飛行機を使った。数年前にも韓国に行っているが、インチョン空港入ったことが無かったので、一度行きたいと思っていた。今は韓国のウォンが円に対して安く、日本人客で賑わっているとは聞いていたが、かなり旅行客が少ない空港で、元気な日本人のおばさん達が多かった。年季の入ったおばさん達は、自分勝手でにぎやかであった。それを聞きながら、自分自身もかなり年季の入ったオジンではあるが、なかなかあの様にはなれないと、妙に感心したりした。おばさんたちの身勝手な振る舞いは、その楽しさも伝わってくるが、この人たちが子育てをしたことを思うと、現在の若者たちの総合的思考力の欠如は、仕方ないのかもしれないと納得もした。

 戦後の日本は、西洋列強に追いつき追い越すために、西洋的近代科学の導入を素晴らしいものとして受け入れた。そこには批判的精神はほとんどなかったと言える。分かり易く、普及しやすい法則科学は、多くの人の信ずるところとなった。しかしこの法則科学には大きな欠点が有り、全体性についてはほとんど理解できない。このことについては、多くの人が、学問が進めば全てが理解できるようになると思っているところがある。まじめに議論されることもあるが、多くの専門家も科学の出発点の弱点を理解していない。

 西洋近代科学を教育に取り込んだことは誤りではないが、その欠点を理解せずに教えたことは、大きな誤りと言える。その教育の結果、今日の多くの日本人が、全体性の理解に疎く、部分の理解に優れているとあたかも理解に優れていると錯覚していることは、人生の最後になって気がつくことになる。或いは気がつかないまま、人生の最後を苦しみの中で終わることになる。人生は総合的なものであって、部分だけ良ければ幸せに終われるものでは無い。
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カンボジア国際教育支援基金のホームページ

カンボジア国際教育支援基金のホームページ 2009.4.22. 金森正臣

昨年8月から参加している「カンボジア国際教育基金」(CINESF)のホームページができました。目的・活動内容や組織の概要が載っています。
私も現地リポートを書くことになっています。現在まだレポートが間に合っていないために、ブログの記事を流用しています。4月の末からは、専用に現地リポートを書く予定です。現在日本におり、派遣する先生たちへの説明会などをしてきました。5月にも中旬にもう一度説明会を開き、その後に希望者によるスタディーツアー、9月ぐらいから現地に派遣になる予定です。

やはり日本の春は良いですね。明日またカンボジアに出かけます。
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若者の結婚観

若者の結婚観      2009.4.15. 金森正臣

最近の若い者は、と切り出すと、昔から老人のたわごとと相場が決まっている。最近若い女性たちと、結婚について話をすることが何回かあった。そこで気になったことが、最近の若い人たちの結婚に関する考え方である。どこか我々の考えていたことと違ってきていて、結婚が難しくなっていると感じ、しばらく考えていた。

 結婚観に関する話は分かりやすいし理論的なのだが、一部分の論理にこだわり、全体性でものを見ていない。そのために確かの様に聞こえるが、人生の全体として結論が出されていない。現在の生活や近い未来の状況や、自分のしたいことについての考えが大部分で、死ぬまでが人生であることが考えられていない。これは理論的思考、特に科学的思考が陥る欠点で、部分は理解できるが全体を理解できない特徴を示しているように思える。

 人生の目的もあいまいで、国際的な援助関係で働くことが重要な要素になっていて、自分の人生をどのように構築して行くのかがほとんど考えられていない。人生を考えていないわけではないが、よりキャリアーを築くために、次の資格や大学院での勉強が考えられることが多く、自分自身の人格をどのようにして磨くのかはほとんど出てこない。あるいは、勉強することによって人格も磨かれると考えられている節がある。人を援助することは、自分の持っている以上のものは出せない。自分の人格を磨かなければ、一見華やかの様に見えても、相手のためになることは少ない。知識や経験と人格は別物である。もちろん経験によって人格は磨かれるのであろうが、安易な経験では自分を磨くことにはならない。私は高校生から大学生時代に、自分の人生には3つの仕事が有ると考えていた。第一には、自分が社会に対してする仕事であり、第二には、社会の単位としての家庭を持ち社会の一部を担うこと、第三は、次の世代を育てることと思っていた。それとは別に、自分の人格を完成するように努力することが、上の3つの目的を果たすことに必要不可欠であると考えていた。特に人生は、死を持って最終章を締めくくるのであるから、これを十分に理解できなければ、全ては打ち壊しになると思っていた。どんなに途中の人生が良くても、終末がご粗末では人生全体が粗末になる。小学校の時の状況が良かったからと言って、人生全体をそれで乗り切ることはできない。生きて来たようにしか死ねないのが、人生である。自分を鍛えるのは、最後の死に向かって必要だからである。

 もう一点違和感を覚えるのは、結婚の相手に対して、完成されたものを想像しているように思われる点である。自分のしたいことは認めてほしいと言う、願望が強い。お互いに若いのであるから、欠点を補いながら相性を調整して行くのが、人格を磨くことになる。若いからお互いに欠点があって当然で、自分の思い通りにならないからこそ、自分が磨かれる。子どもに対しても同じで、自分の思うようにならないから自分を鍛えてくれる材料になる。大人同士であったら、そのような軋轢は無く快適であるが、人生の豊かさは著しく少なくなる。
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日本のマスコミの誤り 

日本のマスコミの誤り       2009.4.9. 金森正臣

 日本はマスコミが幅を利かせて、いろいろな価値観がマスコミに振り回されているのを皆さんあまり気にかけていない。マスコミに遅れると、時代に遅れたかの様な錯角を起こしている。マスコミは、本来の日本の大切にしていた価値観を崩し、方向性のないままそれが新しいことかの様に、庶民に押し付けている。

 日本の文化の根底は、本質的なものが何であるかを見詰めるところに特徴がある。例えば、茶道、華道、剣道、柔道などどれを取って見ても、その技術だけではなく、人格を完成するところに目的が有る。職人さんの世界も同じである。従って、その修業に終わりはなく、どこまでも追及するのが本来である。これらは多くの面で、特に禅宗の仏教の影響を受けていると思われる。仏教の修行には終わりがなく、死に至るまで自分の修行である。

 ところがマスコミで取り上げられるスポーツ選手などは、皆さんに元気を与えられる様なプレーをしたいと言うのが最近のはやりである。これは自分がどの様に見られているかに重点が置かれ、自分を鍛えることからは遠い。自分の評価を、外に頼っており、自身の評価では無い。外部からの評価に重点が置かれると、評価する外部者が変わるごとに右往左往して、評価される方向に変化しなければならない。これが一般庶民の価値観になりつつあり、自分自身の信念で人生をすることが出来なくなってきている。目標が定まらずに、絶えずせかされた様に、ストレスや不安を持って人生を過ごすことになる。確かに人生は迷いの中にあるのではあるが、不変な確かなものを求めている場合とは、明らかに異なる。

 マスコミ嫌いだからマスコミにケチを付けている訳では無い。安心して自分の人生を行うには、不可欠な重要な点である。
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カンボジアの正月

カンボジアの正月   2009.4.2.        金森正臣

 カンボジアの正月は、クメール・ニューイヤーと呼ばれており、仏歴で行われる。毎年多少ずれるが、今年は4月14日から16日までの3日間である。しかしカンボジア人は、正月を楽しみにしており、前後合わせて1週間は休みにする。しかも4月に入ればもう気分は正月。

 既に3月の末から、若者たちは夕方街かどに集まると、正月の遊びを始める。ダンスや正月特有の伝統的ゲームが有り、その練習を始める。小学校の子どもたちは、水をナイロン袋に入れて、投げつけあって楽しんでいる。本来水をかけるのは、11月の水祭りの遊びの様に思われるが、以前から正月に行われる。乾期が最も進んだ時期で、水の掛け合いは涼しくて気持ちがいいのだろう。本番になると水と白い粉が登場し、頭から白くなったりしている。

 正月までにはまだ10日以上あるが、街角では既に地方に帰る若者の姿が見られる。大きな荷物を持って、バス停までバイクタクシーで行き、そこから目的地の乗り合いに乗り込む。バスは高いので、多くはトラックを改造したものにぎゅうぎゅう詰めで乗る。屋根の上まで乗り込むから、長距離の移動で疲れて転がり落ち、毎年多くの人が死亡する。それでも故郷に安く帰るために様々な工夫を凝らす。

 大学生達は、既に3月の内に帰り始めた人もいる。遠い地方だと1日では帰れず、2-3日かかる。毎日運航しているとは決まっていないし、次の週になるとかなり混み合う。戦後の日本でも、同じような光景が見られた。集団就職で上京した人たちや田舎から上京した学生は、正月に郷里に帰るのを楽しみにしていた。集団就職組は大きな荷物を抱えて、列車に乗っていた。でも日本では、休みになるまでは帰れないので、年末の列車の混み様は尋常ではなかった。それに比べるとカンボジアの正月の帰省は、なんとなくのんびりしている。
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日本の教育上の誤解

日本の教育上の誤解          2009.4.1. 金森正臣

 今朝テレビのニュースを見ていたら、今日から「ゆとり教育」が廃止されて、学校での学習時間が週1時間程度多くなると言う。以前には、詰め込み教育でゆとりがないことが問題視され、「ゆとり教育」が始まった。有識者会議に出席している人たちは何を見て、考えているのだろうか。本当に子どもたちを見ているのだろうかと、疑問に思うことが多い。

 日本は、西洋の法則科学を取り入れて、100年になる。その結果、多くの人が、法則科学に乗って意見を述べ、それが正しいように錯覚している。以前にも書いたが、法則科学は、部分の理解には優れているが、全体の理解には適していない。科学の判断の基準になる法則性は、肉眼で見られる三次元あるいは四次元の世界にとらわれていることが多く、さらに複雑なことになると理解が不可能になる。例えば人間の成長は、四次元の世界で捉えられる様な簡単なものでは無い。

 子どもの学力が上がらないのは、時間数の問題では無い。この様な意見を述べると、面白く学べなければ、興味が持てないから、面白い授業をする必要があるといった意見が述べられる。これもある側面では正しいが、やはり全体をとらえていないように思われる。戦前の授業が面白い授業を目指していたとは思われないが、多くの子どもが正常に育ち、多くの学者が育っている。現在の子どもたちの学力が上がらないのは、意欲が低く、探究心に欠けるからである。小さい時から自由が無く、人間関係も希薄である。

 多くの家庭が、子どもを大事にしているように見えるが、本当の意味で大事に育てている例に出会うことは少なくなった。最初の授乳から始まる人間関係の構築は、意外に単純だが見落とされている[正高信夫「ゼロ才児が言葉を獲得する時」中公新書]。ここで親を信頼できるようにならないと、以降は親に気を使って迎合する「良い子」を演じることになる。この様な子どもは、自分で自由に自分の持っている遺伝子能力を伸ばすことが出来ない。その結果、「意欲」が育っていないことが、根本の原因であろう。そこに気がつかなければ、いつまでたっても対症療法の域を出ず、基本の問題には到達しない。

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