ランの花が咲いた

ランの花が咲いた  2019.02.20.

昨年の暮れから花芽を伸ばしていた、デンドロビウムの花が1月30日に咲き始めた。どなたからか頂いた鉢の続きで、もう10年ほども我が家にあるように思われる。手入れが十分ではないのだが、毎年良く咲いてくれる。今年は40-50もの花が咲くのではないと思われる。

この花は、花芽が成長し始めてから時間がかかり、1月ほどもかかるように思われる。昔北大の苫小牧の演習林を実習で利用させて頂いていたことがあった。そのとき演習林長の石城先生が林内を案内してくださった。説明の中に、成長の早い木は寿命が短く、遅い木はゆっくりとして寿命が長いと言う話をしてくださった。そのことを思い出しながら、楽しんでいる。花は咲いてから、20日ぐらいは優に持つ寿命の長い花だ。 

次の写真は、咲き始めてから2週間ぐらいたち、花は満開に近くなった。花の数は40以上もあるのであろう。毎朝見るのが楽しみである。

デンドロビュウムのバルブから出た芽を、鉢に移しておいたものも咲く気配である。4-5年前から、バルブから芽が出ると鉢に移していた5年ほど前の最初のものも、15-16の花芽をつけている。遅くまで外に置いたので寒かったらしく、咲き方も遅い。まだ1ケ月はかかりそうである。

今朝見たら、3年ほど前に芽を出した株も、3-4枚の葉しかつけていなかったバルブに2つの花芽を持っていた。多分こちらは開花までに1月以上かかり、それからしばらく楽しませてくれそうだ。

デンドロビュウムは、春になるとアミに入れて外につるし、時々水をかける程度である。乾燥にも強いし、ずぼらな私の管理にも耐えている賢い花である。アフリカで見ていたランの仲間は、本当に乾燥に強い。乾季には、木の上で6ケ月も雨が無いまま耐える。石の上にも張り付いて、乾季を超す。根などは完全に乾いているように見えるが、スポンジ状の組織が周囲を覆い、水分の蒸発を防いでいるようだ。
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おにぎり

おにぎり    2019.02.18.

コピーのためにコンビニに行ったので、ついでに昼食をおにぎりにした。子どものころおにぎりが好きでなかったので、いろいろ思い出がある。遠足にはおにぎりであったが、あまり食欲がわかず、それでも腹が減るので頑張って食べていた。今のおにぎりは上品で、具も良くなかなか旨い。

卒業して就職したところが菅平で有ったので、調査のためによく根子岳(2207m)に登った。冬になるとおにぎりが凍り付き、外側が白くなっていた。口に入れてもボロボロして、溶けるまで味が無い。寒さの中で結構大変であった。
ある時、賄いのおばさんが休みであったので、一緒に行く若い技官とおにぎりを作った。ノリをふんだんに使おうと、一つのおにぎりに一枚のノリを使った。ところが食べるときになり、湿ったノリが重なっているところは喰いちぎれずかなり苦労した。おばさんはノリをケチしていたわけでは無く、食べるときのことを考えていたのだと、二人で大笑いをした。

新潟と福島県境付近を、尾瀬ケ原の国立公園に編入しようという日本自然保護協会の1968年ごろの調査に参加した。2ケ月間にわたって、八海山から守門岳・浅草岳、只見ダムなどの地域を回った。只見ダムは、地元でもただ呑川などと揶揄されていた。同行はドイツから帰ったばかりの横浜国大の宮脇昭さんで、大いびきに悩まされた。しかし私はトラップの回収があるので、山中にテントで泊まっていた。助っ人に現地のマタギが3人付いてくれ、いろいろな話や風習を楽しんだ。一人のじいさんは、釣りの名人で毎食イワナを準備してくれた。
八海山付近であったと思うが、旅館ではおにぎりと塩納豆を持たせてくれた。納豆は塩辛く、半分乾燥されていて四角に固められていた。おにぎりは巨大で、野球のボール以上の大きさのものが2つであった。地元の人は、お椀を持って歩いて居り、握り飯を入れて納豆を入れ、沢の水をかけてお茶漬けの様にしていた。当時は美味しいと思わなかったが、今になるともう一度食べてみたいと時々思い出す。

カンボジアの米はいわゆる外米で、粘りが少ない。しかし特別に厳選されたジャスミン米と呼ばれるコメがあり、上手に炊くと結構おにぎりになった。日本からノリを持ってきたときには、おにぎりにして楽しんでいた。中に入れるものは少なく、塩にぎりにしかならなかった。
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子どもの虐待やいじめ

子どもの虐待やいじめ    2019.02.12.

最近子どもの虐待のことが大きな話題になっている。子ども同士でのいじめも起きているが、あまりにも多すぎて大きく取り上げられることは少ない。

これらの問題は共通している部分があるが、あまり話題になっていない。

私は研究の初期に、野外のネズミの個体数の変化を調べていた。大阪に転職したころに、医学部であったので家のネズミについても研究するところとなった。

野外のネズミでは、社会の作り方が様々で、高密度になる種や自分たちで調節して高密度にはならない種類もいる。家ネズミであるクマネズミで実験を行った時に、ある密度まで増えると副腎が肥大し、攻撃的になり、群れが崩壊に向かうことを観察した。これは副腎から出るアドレナリンの働きにより、攻撃性が増し互いに殺しあう結果である。

アドレナリンが増加すると、非常に攻撃的になることは知られている。例えばニホンザルでも妊娠すると副腎が大きくなり、アドレナリンが増加すると思われる。このためメスであっても子どもを持っているメスには、上位の雄でもほとんど手を出さない。これは自然界で、子どもの生存率を上げるために発達した機能であろうと思われる。
社会的ストレスでも、副腎が肥大しアドレナリンが増えることは、クリスチャン女史による「社会ストレス説」として認められている。
現代の社会はストレスが多く、多くの人がストレスを抱えていると思われる。それに加えて、子ども時代に自由が無く、持っている遺伝子情報を十分に発達させられないままに成長する。この様な現象は、ここ100年ぐらいの間に起こったことで、それ以前は自然との接触によって何百万年かの遺伝子情報を自然に育てていた。自分の能力を伸ばせないで大人になると、様々な仕事の場面でストレスは増幅する。
生まれてきた子どもが、最初の段階で接触する保護者との関係も重要である。ここで十分な関係が出来ないと、以降の人間関係を上手くできず、常にストレスにさらされている状態になる。例えば母親が授乳しながらテレビなどに気を取られていると、子どもは母親との良好な関係はつくれない。この様な環境で育った親による育児は、さらに問題を難しくする。現代の社会は、ストレスの増産を行っているように思える。
ストレスが増加し、アドレナリンが増える状況にあると、突然激高に及ぶように思われる。ヒトでの研究は少なく、今後の大きな課題であろう。子殺しや親殺し、いじめなどには関係が深いと思われる。現在は血液などで、体内のホルモンの量が簡単に測定できる時代である。
脳科学者の中野信子氏は、『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書:2017)を書いているが、これは脳内物質からの提言である。
現代のようなストレス社会では、アドレナリンとヒトの行動の関係などの研究がもっとあっても良いと思われる。

話は異なるが、テレビの番組の出演者を観察していると、いかにもアドレナリンの増加に支配されているような表情や発言が多い。正義の味方の様に児相や親を非難しているが、本人の家庭は大丈夫であろうか。題材になっている事件の当事者と、あまり変わらない状況に置かれているように見える。
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世界対がんデー

世界対がんデー     2019.02.10.

がんに対する日が存在するとは知らなかった(多分2月4日)。しかし最近がん患者は明らかに増えており、人生の中の大きな課題になっている。日本人でも、2人に1人はがんになる時代で問題は大きくなりつつある。

様々な治療法が発達して、治療後に長生きする人も少なくない。かく言う私も、2010年に大腸がんになり、7-8時間もかかって手術を行って頂いたおかげで、現在も元気に生活している。

がんの治療法は進化したが、心の安定を保つことも重要である。がんは細胞の自殺によって起こると言う説もあるくらい、精神的安定は重要である。ところが実際には、医学の現場ではなかなかこの分野の取り組みが進んでいない。一つには治療の現場では、西洋的な理論が優先しているために、全体を捉えられる人材が不足している。カウンセリングや精神医療的方法を取られているが、死に対する認識は不十分であると思われる。と言うのは、実施する本人の死に対する認識が不十分であるためと思われる。生と死は、日常的に同じものであり、常に両者を認識している必要がある。ところが通常の日常では、死を意識している場合は少ない。死の重要性は、医療がいかに進んでも、死は必ず訪れるのであるからである。がんで大きく問題になるのは、今でもかなりの確率で死にいたると思われ、患者が死の恐怖におののくからである。本来生きていると必ず、確かに死が来るのであって、逃れる術はない。それであるにも関わらず、現在の日本人の生き方は、死から離れすぎている。私の子どものころは、祖父や祖母を家で看取り、死と直面して生活していた。これらの経験から自然に、死についての認識は深まっていった。昔でも死を恐れている人はいたが、恐れない人もおり、どちらが人生の師になるかは自然に感知していた。

がんになってみると、いろいろと新しく認識することもある。私は、2010年に手術をしたのであるが、2007年ごろには下血があり、がんであろうことは認識していた。当時カンボジアでの仕事が忙しく、すぐには死なないので日本に帰ってからと思っていた。このころに右の耳垢が粘るようになり、不思議だと思っていた。本来耳垢に粘性があるのは、劣性遺伝子で、非常に少ない形質である。左耳は普通の耳垢であるが、右が粘ってあまり取り出せない。日本に帰る毎にいろいろなミミカキを買い求めて、トライしてもうまく取れない。ある時ごっそりと大きな耳垢が、ほとんど5ミリ程度の筒状に抜けてきた。あまりにも見事なものだったので、しばらく机の上に飾っておいた。アフリカで調査していたころ、野火の走った後の原野を歩き回ると、ハナクソガしっかりと筒になる。「鼻くそが、指輪に抜ける、サファリかな」(サファリは、旅行、旅などを意味する)なんて句を詠んで、ヒンシュクを買って居たことを思い出した。
耳垢の粘りは、2010年に手術をしてからは、すっかり姿を消したので、がんの影響であったろうと考えている。

鼻くそついでであるが、カンボジア人は、鼻の穴が大きい。最初に名古屋大の先生とカンボジアに行ったときに、鼻のあたりを手で覆い、このあたりに問題があるのでカンボジアには美人がいないといっていた。確かに鼻の穴が大きい。市場などでは、おばさんが鼻の穴を親指でほじっているのを見かけて、私も親指を入れてみたが入らなかった。日本人にはなじみの薄い顔であるが、慣れると意外な面が見えてくる。鼻があぐらをかき横に広がっているが、笑った笑顔はかわいらしく、表情が豊かである。日本のテレビなどで見かける美人は、いかにも表情が薄く、内容まで軽薄に見える。多分何をやってもカンボジア人の生活の実践力には遠く及ばないからであろう。

がんは確かに死に近い病気ではあるが、がんにならなくても必ず死ぬのであるから、普段からもっと死と取り組んでおくことが人生の良い過ごし方であると思われる。生きたようにしか死ねないであろうから。
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住所

住所      2019.02.09.

岐阜市で同じ番地に250戸ほど家があるところがあったと言う。今回市が新しい番地を考えて、問題を解消したと言う。すでに長く続いている郵便は良いとして、救急車や消防は困ったことであったろうと想像される。

最初に就職した菅平は、高原で涼しい環境が受けて、別荘地として開発された。当然集落からは離れた林の中であった。開発会社は、中心に事務所を構え、どこかから事務員を雇った。

ある時火災が起こり、皆さんが鉈を片手に駆け付けた。事務所で聞くと「への15番地」とか言うのだが、集まった現地の人はだれもどこか分からない。事務員は、現地の土地の名前を理解して居ないので、意思が全く通じない。現地の人はそれでも手分けして、大洞の頭だとか、堂の入りだとか探した。約1時間も駆け回ってやっと現地についた時には、幸いにも風向きの関係で火は下火になっていた。

私が小・中学校を過ごした村も時々山の火災があり、子どもたちも戦力として火事場に出向いた。山火事はほとんど冬場なので、大人からサカキやソヨゴなどの青い葉の木を切ってもらい、火の端をたたいて回った。なかなか危険な作業で、松林などは風向きによっては、急速に火が走る。隣村では、小学生が火に巻かれて死んだことがあったが、その後も子どもたちの出動は続いた。人手が足りなくて助けになったことであろうし、そのくらいの危険を乗り越えるのが大人への道であったろう。今の子どもたちに比べると、勉強はできなくても実践力はついていたように思う。
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卵かけご飯

卵かけご飯      2019.02.08.

最近テレビなどの情報では、卵かけご飯が流行っていると言う。それ専門のレストランまであると言う。

終戦後の子どものころには、卵は貴重品でなかなか食べられなかった。病気の時やお祭りに、特別に食べられる程度であった。卵好きだった私は、病気をしても卵が食べられるようになるとたちまち元気になっていた。

卒業して就職した山の中の実験所は、集落から3-4㎞離れており、職員は5人ほどであった。賄いのおばさんがいて3食作ってくれていたが、朝食はいつも生卵、味噌汁、焼きのり、漬け物であった。数年するとすっかり卵かけご飯が食べられなくなり、結婚しても50歳ぐらいまでは食べられなかった。食べられるようになったのは、アフリカに3月ほどいて帰国後のどこかのホテルの朝食バイキングからである。何とはなしに食べていて、自分でも驚いた思い出がある。カンボジアの生卵は、ニューカッスル病がある可能性があるので、基本的には食べない方が良い。しかしこの菌は、熱に弱いので熱湯に殻ごと入れて、1分ぐらい置いておくと問題はなくなる。多くの国で生卵を食べないのは、この病気によるリスクのためである。

卵はやはりご馳走ではあるが、ワニの卵は少し変わっていた。

学生のころ、環状線の大久保の近くの職安の付近に「立ちんぼ」(早朝、職安を通さずにトラックが来て、作業者を集めて行く)の集まるところがあった。そこではリヤカーにコンロを積んだ飯屋が来て、3円とか5円単位でご飯を盛ってくれた。2円のたくあんに3円の味噌汁ぐらいなら10円で飯が食えた。卵はかなり高く10円ぐらいしていたように思う。高くて買ったことはなかった。

今買い物に出かける場所の近くに、「まいどおおきに食堂」と言う関西風の食堂がある。釜で炊いたご飯が売りで、おかずは棚から取り出して、会計をしてもらう。ここには生卵があるので時々卵かけご飯になる。

大阪で勤めていた市大の医学部は、阿倍野にあり裏手は西成区のあいりん地区であった。大学から数メートルの坂を下ると、そこは阿倍野銀座で、酔っ払いがごろごろしていた。毎年法医学教室に、300体以が運び込まれていたが、多くは肝硬変を患っていた。法医学教授の助川先生と仲が良かったので、時々呼び出されて付き合った。
阿倍野銀座には、いくつかの食堂があり、おかずを自由にとり、ご飯を希望量買って食べる形式のところがあった。生卵も置いてあった。煮魚などを買ってご飯を食べていると、向かいに座ったおっちゃんが、終わるころを見計らって、煮汁を貰ってもいいかと交渉に来る。彼はその煮汁をご飯にかけて食べていた。その頃の食堂に比べると、今の食堂はかなり清潔感にあふれている。
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富士山

富士山  2019.02.07.

CIESFの10周年記念の会の往復に、新幹線から富士山が見えた。行きにはやや雲がかかっていたが、帰りには快晴で頂上から雪煙が上がっていた。雪煙は、温度が低く雪が粉雪になり、風が強いと巻き起こる。写真の富士山は、わずかに雪煙が舞い上がっている。

富士山には2度ほど登っているが、いずれも雪のある時である。

最初に登ったのは、日本山岳会からの依頼で北欧からの客人の案内であった。山岳部の1年上の先輩と一緒だった。相手はスウェーデンかノルウェー人で、英語が通ぜず、一日中言葉が通じない、珍妙な山行きであった。

2度目は、2年生の冬(1960)、富士山で大きな遭難があり、1年先輩2人と捜索に出かけた。大沢崩れで早稲田の山岳部の学生や社会人が雪崩に巻き込まれ、捜索の応援であった。富士吉田口に夜中に着き、暗闇の中を歩いて5合目まで着いたときは朝だった。腰にパラシュートの細紐で作った雪崩紐をつけて、横一列に並んでソンデ(鉄の長い棒で雪の中を刺して探す)を行った。2-3日で捜索は終わり、次の日は快晴で天狗尾根から頂上に向かった。氷の原をアイゼンで快適に上り、頂上で裸になったことを覚えている。

アフリカにいると言葉の通じないのは日常のことで、あまり意識はしない。しかし愛知県でも経験した思い出がある。現在京都大の総長をしている山際さんが、ポルトガル人かスペイン人だったと思うが、若い女性を受け入れていたことがあった。三河地方でサルの調査をしていた時に、3日ほど預かってくれと言うことで、学生の調査に参加してきた。Rの発音の巻き舌が強く、学生も注意されて困っていた。英語はできないのでほとんど会話はないが、身振り手振りとイラストで何とか楽しく3日間を過ごした。新城市の山中の神社に寝泊まりして自炊だったので、印象が深かったようである。ヨーロッパではサルを観察できることはほとんどない(スペインのジブラルタル海峡に近い山に少しだけいる)ので、日常的に観察できる日本の学生を羨ましがっていた。

体験したことはほとんど忘れていない。人生の豊かさは、重要な体験を多く持つことによるように思われる。
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CIESF10周年記念祝賀会

CIESF10周年記念祝賀会   2019.02.06.

理事をしている公益財団法人CIESFの10周年記念式典が、2月1日に東京の青年会館で行われた。支援者やこれまでの関係者が、200人ほども集まった。(写真は篠原大使の挨拶)

カンボジアの首都プノンペンで、大久保秀夫理事長にお会いしたのが2008年3月頃だったように思われる。その前年に私は、プノンペンの中心部で交通事故にあいまだ杖を突いていた。それから10年も経っていた。最初は、高等師範学校の1室を借りて電話を置き、NGOの登録を行った。予算もないので、事務員を一人雇い、看板も無く誰も事務所を分からない状態だった。その後1年したころに、全権大使の篠原勝弘氏が参加くださり、一気にカンボジアの中で存在感が増した。
現在はホームページを見て頂くのが分かりやすいが、教育を中心に大きな組織になっている。

私は、カンボジアに関わりだして20年になる。2003年からは、個人で支援をはじめ、2008年は退職金も尽きたので、8月に帰国の予定で持っていた物も整理を始めていた。個人の支援になってから、多くの友人の支援で、高等師範学校の理科の先生たちを日本の大学の修士課程に35名ほどもお願いした。広島、岡山、愛教大など、奨学金から支援頂かなければならず、大変お世話になった。その頃の教官がそれぞれCIESFの支援にも良く働いてくれ、現在が成り立っている。人生は分からないもので、計画とは異なっても、結果が良くなることは有り難いことである。
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