言葉の壁と経験の壁

言葉の壁と経験の壁

 

以前にも書いたような気がするが、言葉には伝える限界がある。ユングは、同じ体験をしたものであれば、同じ言葉が同じ意味を持つが、体験が異なると同じ意味を持たないことに気が付いていた。

 

先日ある席で、若い人に自分の幅を広げるように進言した。その時に話しながら、意味が伝わっていないであろうと感じていた。その後しばらく考えていたが、やはり意味が伝わっていない無駄な話であったと反省している。

実際には何が間違っていたのであろうか。自分自身を振り返ってみて、思い当たることがいくつかある。自分がどのように世界を広げていったかを振り返ってみると、小学生時代に行き着く。どこでどのようにして自分の人生の幅を広げていったかを考えてみるといくつかの特徴がある。良く読書からいろいろな広がりを持つようになったっと書かれているが、これはあくまでも文章の上での出来事である。人生を振る反ってみると、本当は体験と組み合わさっていないと人生は広がっていない。

 

小学生のころ貧しかったので、一生懸命に仕事を探しながら生活した。またもらった仕事を再び続けられるように、いつも細心の注意をしていた。このころからどこに次の仕事があるかと注視していた。このことがいつも自分に必要なことをキャッチするアンテナを張る習慣になっていた。

もう一点は、自分が何をしたいかである。したくない仕事もしなければならないことも多いが、常に何がしたいかを考えていた。いやな仕事をしながら、なぜ嫌なのか、なぜ気が載らないのかを常に考えていた。このことによってアンテナにかかった情報が、自分に必要なものかを即座に判断できる様になったいた。

 

この結果、どこで何に出会っても、即座に決心がつき、新しい世界にも適応できるようになったものと思われる。

経験の少ない若い人に、世界を広げるように進言する場合には、もう少し具体的な話が必要であったと反省している。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

猛暑は去ったがナマケモノが残った

猛暑は去ったがナマケモノが残った

 

ここのところ35度を超すような猛暑は去りましたが、ナマケモノだけは残り健在。ごろごろしていましたが11日(金)に安城に行き、大好きな立派なイチジクを沢山いただき、楽しんで元気が出てきた。やはり食いしん坊の私には、食べ物か。

 

そろそろ秋らしくなったら、少しは働かなくては申し訳ない。

それでなくとも、健康のために朝の散歩をしながら、小学生の頃を思い出し、健康のために体を動かさなければならないのは情けない。子どもの頃にはとにかく食べるために働き、如何に休みを取るかが課題であった。生産性のない散歩など考えたこともなかった。

それでも散歩をしながら、人の家の生け垣のバラや花々の匂いなどをかぎ楽しめることには感謝している。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

骨壺と塩 

骨壺と塩  

私は、20年ほど前から骨壺を持っている。皆さん断捨離などと言って、持っているものを死ぬ前に捨てて、死の準備をすることは流行っているようだが、死ぬときに本当にいるものは、棺桶や骨壺である。棺桶も20年以上前から準備してあって、戒名もあるから死後の準備は万端である。捨てるものなどは、業者に頼めば全てお金で解決できる。

 

写真の骨壺は、ある時友人の陶芸家が、誰かから骨壺を頼まれたから一緒に作っておこうかと言ってくれた。有り難くお願いすることにした。その時に、使うまでは塩でも入れておいたらと言う話をしたので、現在では塩が入って食卓にある。骨壺の大きさは、直径が8センチ、高さが8センチである。蓋は乗せると静かに中の空気が抜けて収まる。中の塩は、ペルーで買った塩で少しピンクがかっている。アンデス山脈は海から隆起した山であるから、いたるところに塩が出る。観光で有名なウユニ塩湖などもその例で、山の上に塩の湖がある。

このピンクの塩は、マチュピチに行ったときに近くに塩作りの村があって買って来た。山の中腹から水が湧き出していて、この水に塩分が含まれている。山の斜面に小さな水田を沢山作り、その中に流して水分を蒸発させている。朝食の目玉焼きなどにかけて食べているが、結構気に入った味である。

これとは別の4000メートルぐらいの場所で、ジャガイモに泥をつけて食べたことがある。動物ではいろいろのミネラルが入った土を食べることが知られている。南米でもペッカリーやバクが土喰いで知られている。ヒトがなぜ土喰いをするのかは、あまり知られていない。小さなボールに泥の液があり、茹でたジャガイモをつけて食べた。特に塩分は感じられず、変わった味もしなかった。ジャガイモは、ピンポン玉の半分ぐらいで、一口で食べられる大きさであった。この農家では、クイ(テンジクネズミ)やアルパカを飼育していた。

 

タンザニアでは、首都から調査地に入る道のわきに、岩塩を掘っている場所がある。タンガニーカ湖に流れ込む一番大きな川のマラガラシの脇にウビンザという町があり、ここで岩塩を掘ってマラガラシ川の水に溶かして、水田に引き込んで干している。この行程で漏れ出した水が所々で乾燥して塩になっているので、通りかかったときには少々頂戴する。マラガラシには、ワニもカバも住んでおり、時々見かける。当然彼らの排泄物も入っているが、そのために旨くなっているような気もする。

 

オーストラリアの中央を南北に走る道の近くには、塩の湖があり、乾きあがって一面白く堆積しており、ブルドーザーで押して大きなトラックに積んでいるところがある。かなり広くて、見渡す限りの塩の堆積である。近くを走る国道沿いにも、塩が氷のように30センチもの厚さになって浮いているところもある。ここに流れ込む小さな川の脇に塩が堆積していたので、少々頂いて旅行中の調理に使った。かなり美味しい塩でもっと持って来るのだったと後悔した。

 

カンボジアでは、塩はコッコンと言う海辺の町で作っている。潮の満ち引きを使って塩田に海水を入れ、乾燥させて結晶させている。塩が堆積してくると水を止めて乾燥させるので、最後はかなり埃っぽい塩になる。家では、瓶に水と塩を入れ飽和状態にして置き、上の埃の部分を取ってから使っていた。天然の塩の味は悪くない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )