ニラの卵とじ

ニラの卵とじ

 

今朝はニラの卵とじを食べた。懐かしい味である。

貧乏であった小学生のころ、春になると畑の土手のニラを摘み集め卵とじにしてもらうのが楽しみであった。卵は飼っていたニワトリが産んでくれた。

野生のニラは、細くて量が少ない。しかし味は強く、卵とじは強い印象がある。また春を告げる食材として、楽しみであった。

 

現在のニラは、グリーンベルトなど太く大きく、味も悪くないが、子どものころの味に比べるとやや劣る。

 

料理の味には、長い様々な経験の積み重ねがあり成り立っている。今の様なインスタントな味は、蓄積されるのであろうか?

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日本人の変化  自分の人生

日本人の変化  自分の人生

 

最近気になる人に会った。その結果、いろいろな人の行動や表情を見ていると、多くの人が自分の人生から離れているような気がすることに気が付いた。

 

現象として、自分の人生を持っていない人ではないかと思われる。自分自身のしたいことをするのではなく、理想と思われる人物像を想像し、その像に合わせて行動している。注意してみていると、テレビで活躍している人に多い。最近私が会った人は、いかに自分を理想像に近づけようかと話し、行動するので、本人の意思が感じ取れない。また本人がどのように生きたいかも感じることはできない。

 

社会生活では、特に困ったこともなさそうであるが、人生の終わりになると困ったことになろう。無意識の心理学的には、ヒトの多くは社会生活では自分の本心ではなく仮面をかぶり、トラブルを少なくする効果がある。しかしもともと自分の本心を自覚していないと、認知症になる確率が高い。

 

どの様にして、このような現象が多くなったか。多分本人の中の興味がまとまっておらず、なんとなく社会に適応してきた結果であろう。この現象は、子どものころに自然と接する機会が少なくなることによって起こっていると思われる。私は40年以上前から心配していた。そのために子どもを野外に連れ出す活動をしてきた。自然には人工的な水田や畑であっても、先生や家族が準備する教材とは異なった多様性がある。ジャン・ジャック・ルソーもこの自然の多様性に気が付いていたようで、子ども時代に自然と接触することを進めている。この自然の多様性に接することによって、子どもたちは興味が喚起され、自分の興味についてまとまりが出てくる。これは自然科学に限らず、文学でも芸術でもこの興味についての集中力が必要になると思われる。この興味こそが、意欲である。

 

現代の子どもたちは、自然に接することから離れて久しい。家族が意識的にしている家庭では、結構自分の興味に集中することができる子どもたちがいる。子ども時代の遊びは、意外なところに影響すると思われる。

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機心

機心

 

最近、鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波文庫:青323‐2)を読んでいたら、「機心」という話が出てきた(p212)。ほとんど聞いたことのない言葉で、色々調べてみた。

 

広辞苑によると、「いつわりたくらむ心」、「機を見て動く心」、「活動を欲する心」となっている。大辞林によると、「機を見てはたらく心」「はかりごとをめぐらす心」となっている。

 

「荘子」の外編「天地」にある、はねつるべに関する話である。今からおよそ2000年前に中国では、既にはねつるべ(水などを上げる道具)が使われていた。

農夫が井戸から水を汲んで、畑にまいている。通りかかった人が「はねつるべという水を上げる機械がある。使ってはどうかと」と勧めると、農夫は首を振った。農夫は「機械に頼るものには、機心がある。この機心を自分はきらうゆえ、それを利用しないのだ」と言った。

 

また同じ本の、東洋の心(p198)には、スエーデンのラーゲルクイストと言う作家の作品の中に出てくる「神」は、ユダヤ系の神ではなく、平凡な一老樵夫が出てくる。一生を通じて、同じ仕事に精を出している樵の老人である。「何故に、こんな不平等で、悲苦の連続である世界を造ったのか」と詰問されるのに対し、何の造作もなく「それは自分の精一杯の仕事なのだ」と答えて、樵を続けている。

 

この二つの話を考えてみると、鈴木大拙禅師の思考は、辞典のような意味ではなく、人間の生きようとしての原点についての考察であろう。即ち、人生の中で、効率とか効果ではなく、自分の生まれてきた意義を得られるような、ただひたすら働くことを見つけることの意義であろう。

私が最初に指導を受けた師匠は、若いときに習字の先生になろうと一生懸命に練習していた。しかしある時どなたかの字を見て、「これは人格が出る。人格を磨かなくてはならない」と考えて、修行して悟りを得た。その後、商売に成功して財を成す。しかし自分は、お金の管理のために生まれてきたのではないと感じ、商売はすべて店員に譲り、「内観」の普及に努めた方であった。鈴木大拙禅師の考えと同じように思われる。

 

人生を考えるうえで、出だしを間違えるといつまでも目的にたどり着かない。機心が働くと、最終的には現代人が、不安に迷いイライラしている現状に行き着くように思われる。

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オリンピックのごたごた 前委員長の問題

オリンピックのごたごた 前委員長の問題

 

オリンピックの前委員長の問題は、女性蔑視で終わっている。しかしながら内容から見ると、他の側面からも検討をしておく必要がある。

理事長を女性に変えることで、一件落着としているが、問題はそれほど単純ではない。

 

歳をとると認知症の現象が加わってくる。元委員長も、映像から見ても明らかに活性が落ちており、言動も認知症の傾向がみられた。認知症の傾向が出てくると、様々なことがスローになって、若い時より指導力は落ちてくる。そのことは自分の無意識が良く自覚しており、その補償作用が出てくる。手っ取り早いのが、他のものを低く評価して、自分の価値を高めようとする現象であろう。特に長いことトップにいて、自分の内面を振り返る時間の無かった人に顕著な傾向である。

 

このような面からみると、女性蔑視の発言は、女性の欠点を挙げているようだが、実際には見下げる対象は女性でなくとも良い。また委員長が女性になったから問題が解決したわけではない。アスリートは、意外に自分の内面を見つめることが少ない。オリンピックに出場者でも、意外に自殺者が多い。このことは自分の内面への向き合い方が、あまり進んでいないことの一端であろう。だから委員長が女性になったからと言って、全体像が改善されたわけではない。

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エプリルフール

エプリルフール 

 

今日は、エプリルフール。もうだいぶ以前のことになるが、心理学者の河合隼雄先生は、この日を楽しみにしておられた。「嘘つきクラブ」なるクラブを主宰しておられ。4月1日には、いかに上手に嘘をつくかを争っていた。我々はそこまで余裕がないので、羨ましい限りであった。

 

お兄さんの河合雅雄先生も冗談の好きな方で、面食らうことがあった。20年ほど前に霊長類研究所の所長をしていた杉山幸丸さんの退官記念のパーティーの時に、近づいてきて一言、「私最近悩んでいるんだよ」言われた。その2年ほど前にがんをされたと聞いていたので、お元気そうで何よりですと言った。そうしたら、「それで悩んでいるんだよ。死ぬと思ったら元気になって、死なない病気にかかったんではないかと悩んでいる」と言われた。現在でもお元気でご活躍のようで、何よりと思っている。

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