北朝鮮レストラン2  2010.8.30.  金森正臣

北朝鮮レストラン2  2010.8.30.  金森正臣

写真2 韓国からの観光客の団体
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北朝鮮レストラン

北朝鮮レストラン  2010.8.30.  金森正臣

 カンボジアは、北朝鮮と国交のある数少ない国である。カンボジアには、北朝鮮のレストランが3軒ほどある。最初に出来たのは、観光の町シェムリアップで、評判が良かったのでプノンペンにも進出してきた。これは軍関係の店であると云う噂である。

 その後3年ほどして、プノンペンにもう一店できた。これは芸術大学系の店だと言う。
いずれも綺麗どころが、接客や踊り、琴などを披露する時間が有る。料理はどちらも朝鮮料理で、ピョンヤン冷麺がおいしいと評判である。北朝鮮としては、ドルが稼げるし、情報の収集に良いのであろう。

 一昨年だったか、年末に突然軍関係の店が閉鎖された。シェムリアップの店も閉鎖された。しばらくして閉店した理由の噂が流れ、シェムリアップの店の誰かが亡命したからだと言う。その後2年ほどして、2店ともに再開された。

 北朝鮮レストランで目立つのは、韓国系のお客さんである。皆さんカメラを持って、一審に写真を撮っている。特に観光客の団体が目立つ。韓国の人たちにとっては、数少ない北朝鮮の実態の一端を見るチャンスなのであろう。多分、お店に来ている人たちはエリートで、北朝鮮の生活の実態とはかけ離れているのであろうが。
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煙草の一本売り

煙草の一本売り  2010.8.28. 金森正臣

 朝の街角で、たばこ売りのおばさんが、モクモクと作業していた。タバコを吸っているわけではない。両切りの煙草に、フィルターを付ける作業をしている。フィルターを付けると、少し高級感が出て高くなるのだろう。

 前に置いた両切りたばこ2本の間に、フィルター2個を付けて茶色の紙で巻く。それを向かって右手の袋に入れ、また次の作業を行う。しばらくしてフィルターの部分の糊が乾くと、2本の真ん中をカミソリで切ると、フィルターたばこ2本が出来あがる。

 カンボジアでも、タバコは箱売りが普通である。しかし貧しい人たちは、タバコを1本買いする。60年以上昔の日本でも、たばこのバラ売りは結構あった。あれこれ違ったタバコの味を楽しめて良いのかも知れない。

 カンボジアは雨季。今日も午後3時半ごろからスコールが来た。日本より涼しくて過ごし易い気がする。
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お見舞い御礼

お見舞い御礼   2010.8.18. 金森正臣
         
皆さま

沢山お見舞いをいただき、ありがとうございました。
色々な皆様にご心配をおかけして、申し訳ございません。

カンボジアに来て2週間が過ぎましたが、日々順調に体力を回復しております。
まだ元に戻るまでには、2-3月かかると思われますが、特に大きな問題もなく仕事を続けています。もっとも、事務所の皆さんにサポートして頂いて、半日勤務のような状態ですが、少しずつは仕事が進んでいます。

これからもボチボチですが、仕事をして行きたいと思います。
今後もよろしくお願いいたします。

ブログ上のあいさつで失礼いたします。
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ガン闘病記  3 雑感

ガン闘病記  3 雑感  2010.8.13. 金森正臣

 体力の落ちてきたのは年のせいであろうと諦めていたが、手術後少しずつ回復してきている状態からすると、ガンのために体力が落ちていた部分もあり、手術以前より良い状態に戻りそうな気がする。手術前には、昨年9月ごろから2kg程度減少していた。検査や手術、術後のリハビリで結局7kg程度減少した。検査の度に、消化管を空にするために、流動食にしたり下剤を掛けたりするから、なかなか栄養が取れない。現在最低のときよりも1kg程度増加してきているから、今後体力は少しずつますであろう。

 ガンになって、保険をかけていたので、これで取り戻せると張り切ったが、結局30年もかけた10分の1程度であった。これだったら積み立てておいた方が良かったかとも思うが、人生はなかなかそうは行かない。20歳代にタバコを止めたとき、積み立てておくとかなり貯まる計算であったが、結局まったくたまらなかった。やはり「とらぬ狸の皮算用」はダメだ。保険も捨てたものではないかもしれない。

 ご心配をおかけしましたが、もう2-3年出来ることをしたいと思っている。
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ガン闘病記  2 雑感

ガン闘病記  2 雑感  2010.8.11. 金森正臣

 今から30年ぐらい前であったと思うが、ガム島で27年間も一人で生きてきた元日本兵の横井正一さんが、ガンになった。その時は早期にご自分で気が付き、医者に行ってガンが見つかった。そのときのコメントに、「自分の体の変調が分からないようでは、ジャングルで一人では生き残れない」であった。
 手術を担当してくださった主治医の先生曰く、「あの大きさのガンは、2-3年ではなく5年以上経っています」とのこと。やはり文明の中に生活していると、勘が鈍っているかとがっかり。

 ガンは、結構体力と気力が落ちるので、注意が必要。かなり以前から、体力が落ちていて、十分に仕事が進まなかった。もちろん気がついたのは、ガンと分かってからで、それまでは年のせいだろうと思っていた。年による老化もあり、明確には分けがたい。しかし、ブログの更新状態を見ても、3年ぐらい前のある所から急に更新のスピードが落ちている。仕事を終わると、すでに体力が余っておらず、早く休みたいが先に立っていた。特に昨年の9月ごろからは、夕方は早く寝たかった。また2-3年前から、悪酔いすることがあり、途中で気分が悪くなった。最後のほうでもそうであったが、結構体調に浮き沈みがあり、一定に保つのが難しかった。私が元気になると、ガンも元気になって、次の日には私が疲れているなどと冗談を言っていたが、状態は結構波がある。気力が落ち始めると、引き込まれる危険がある。気力が落ちたら、ガンが元気になるような気がする。

 体力の回復には、結構日ごろの生活が影響しているように思う。私は小学校のころから、ヤギやヒツジの餌取り、新聞配達、冬には山から薪や炭運びなど体を使ってきた。小学校時代は健康であったわけではなく、学校はいつも長期欠席児童で、担任の先生が進級のために苦労してくださった。中学生になって健康になった。学生時代は山岳部で、よく運動していた。15人の1年生の中でも、最も体力の有った方である。就職してからは、調査で山を歩くことが多く、運動不足はほとんどなかった。しかし、大阪時代の3年半は、運動不足で体調を崩していた。それは愛知に移った38才頃に気が付いた。それから毎朝10kmぐらいを走るようにしていたが、それは調査のための体力作りでもあった。60代を過ぎてから走るのはやめ、5kmぐらいの散歩になった。それでもアフリカの調査では、日に3.6万歩を歩くこともあり、体力は維持できていたと思う。今回もこのような体力が、回復におおいに役にたっていると実感している。
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ガン闘病記 1

ガン闘病記 1     2010.8.10. 金森正臣

 癌になった。もう70歳だから、不思議はないね。でもお陰さまで手術をし、無事?(無事でもないか)カンボジアに戻れた。まだ体力が十分ではなく、のらくら働いている。日本より暑くないので、夜などもすごし易い。昨年9月から、ガンがあるらしいと気が付いていたが、何となく伸びていた。5月に帰った時に検査をし、入院して手術。

 事の顛末は、昨年9月に排便時に出血があった。鮮血の状態から、直腸の終わり付近にポリープかガンがあるだろうと思っていた。出血は3日ほどで止まったので、しばらく仕事。11月にもう一度出血があったが、2-3日で終わった。1月に帰った時に、市の健康診断で、便に潜血ありとのこと、いよいよガンかと思った。5月に帰るのでその時にと、主治医と相談。

 今回5月11日に帰国。直ぐの簡単な検査。精密検査を20日に予約。
6月1日からさらなる精密検査。内視鏡が肛門から入らないほど大きなガンが、S字結腸にあることが判明。そのために造影剤検査やCTスキャンなど色々さらに追加。検査のたびに食事を制限し、消化管内を空にしないとならないから、結構体力を消耗。6月13日の週は、家でゴロゴロ状態。

 6月20日入院。22日手術。
 手術は、腹腔鏡下手術(王貞治さんが同じ方法で手術したと言う)で、してもらうことになる。約7時間の手術で、終了。S字結腸付近をかなり大きく切り取り(15センチぐらいと他に下降結腸のポリープ除去。S字結腸から肝臓方面に向かうリンパもとる。約1.5Kg)、腸管の縫合部分に内圧が高まらないための肛門から管。しかし、辛うじて人工肛門にもならず(肛門の上に僅かながら腸管が残っていたので下降結腸と縫合できた)、後のことを考えると生活が楽。手術前の説明では、2-3割の確立で人工肛門の可能性とのこと。
24日から歩行開始。食事は、2-3日病人食であったが、以降はだんだん普通食。胃が悪いわけではないから、腸に詰まらないように、結構しっかりしたセルロース食。術後数日で、タケノコの煮物やワカメが出てびっくり。歩行は内臓が引っ張られる感覚があり、姿勢が悪いがなかなか治らない。

 退院は、7月4日。以降は家でリハビリ。何が問題だったかと言うと、最初は、排便が思うように行かないこと。突然便意が起こると我慢が出来ない。それは当然と言えば当然。出来上がった便を保存しておくS字結腸が無いのだから、上から落ちてくると出すより仕方ない。また食べると、消化管が刺激を受け、排便ムードになる。なんだかウシやヤギになった気分。草食動物は、口から肛門まで消化管がかなり詰まっているのか、食べると落とし始める。
 しかし、日毎に新しい状態に慣れるのと、神経のほうも現在の状態に適応して、だんだん楽になる。毎朝散歩をして体力の増強に努める。疲れると寝て、起きては食べる、の繰り返し。3週間目からは、出来るだけ朝夕散歩。でもこのころから猛暑になり、夕方の散歩をあきらめる日もあり。カンボジアより暑い。

 7月の終わりから、帰りのチケットの手配をするが、混んでいてなかなか入れない。ようやく8月3日のチケットを予約。当日は思っていたよりスムーズに、カンボジアに到着。CIESFの皆さんに出迎えていただき、家に到着。
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遠野物語 2.マタギのこと  

遠野物語 2.マタギのこと  2010.8.2. 金森正臣

 遠野物語に、マタギのことが出てきた。東北から信濃までぐらいの日本の北の山地に生活していた狩猟を生業とした人々である。私は、小学校に上がる頃から高等学校卒業までを、長野県の八ヶ岳の北の山麓で育った。村の一番奥の集落で、冬になると熊撃ちを専門に行う猟師が3人ほどいた。その一人は家も近く、特に可愛がってもらった。研究をするようになって、子どものころに熊が獲れた時に見ていた儀式は、マタギのものであったと気がついた。

 「遠野の物語」のマタギの話の中に、木の枝を使って、自分の通った跡を他の人に知らせる方法があることが載っている。どの父系の人がどの方向に行ったかを、通路の脇に残して行く。このような方法はアフリカでもあり、伊谷純一郎さんの「チンパンジーの原野」(1993 平凡社)に出てくる。255ページには、木の葉に切り取りを入れた絵が描かれている。切り込みで動物を表し、その動物は家系を表している。狩猟ピグミーのキャンプでの話で、葉の向きによって行く方向を表している。また、葉の古さによって、どのくらいの時間が経って居るかも知ることができる。見事な情報伝達である。同じような山の中での情報伝達方法が、異なる大陸で使われていることは、基本的には人間が同じような思考過程を経ているように思われる。

 今から40年以上前に、新潟県と福島県の県境付近を調査に2ケ月ほど歩いたことがある。尾瀬ケ原の国立公園地域を広げるための調査で、私はこの付近の環境を、小哺乳類から調査する役割であった。調査では、一人だけキャンプをすることが多かったので、キャンプの助っ人が3人付いてくれた。そのうちの2人は、マタギの仲間で、冬の熊撃ちの話や山での生活の話を沢山聞かせてもらった。その頃は、まだ自分の専門以外にはほとんど興味を持って居なかったので、多くの情報を聞き逃していた。それから15年ほどして、彼らが最後のマタギたちであったことを知り、もっといろいろ聞いておけばよかったと悔やまれた。

宮沢賢治の「なめとこ山の熊」に出てくる、小十郎はマタギを描いたものと思われる。人柄や生活は、まさにマタギのもの。
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