金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記
金森先生のカンボジア日記
新聞の川柳
新聞の川柳
今朝の新聞の川柳に、「花盛り、セクハラ会見、恥の花」と言うのがあった。この地方では3町の町長さんが、セクハラやパワハラで辞任する羽目になった。どの会見もあまり反省は無く、川柳の通りであった。
どの方もそれなりに才気に優れていて、町長になったのであろう。しかし持って生まれた才能だけに頼って生きてくると、自分を振り返る余裕はない。町長に選出されるぐらいの人は、それなりに資質があり、それまでの人生ではあまりつまずきが無かったのであろう。大学の教員でもよく見かけるが、自分の持って生まれた才能だけで生きてきた人は、つまずきもなく順調に来たのであろう、自分の権威にしがみつき顧みることは難しい。
人生の豊かさは、いろいろな成功ではなく、自分の人生を振り返り、模索することで出来上がってくる。自分の本質を知らない人生は、浅く軽い。いろいろ悩むことは、それこそが人生を豊かにする方法である。人生は周囲との関係で出来上がるが、作るのは自分の人生への探索である。豊かさはそこから生まれる。
教育大学に入ってくる学生さんを見ていると、多くの人は小学校などではかなり優秀である。その素質で生き抜いてくると、多くの困難を抱えている子どもたちへの理解が少なくなる。皆さんは如何であろうか。
人生の目的
人生の目的
人生は漫然と過ごしている。しかし実際にはなかなか目的がつかめない。目的がはっきりすると、良いかと言うと必ずしもそうでもない。鈴木大拙師が、聞き書きした本に、田舎で何の教育も受けなかった老婆が、深い悟りの世界に居て人生を素晴らしく生きている記述がある。
鈴木大拙氏は、禅宗の人であるが、聞き取りをした老婆は、浄土真宗の人で、親鸞聖人の教えを、地道に実践してきた人である。
人生に必要なことは、教養ではなく個人の生活から作り出される。皆さん心平穏な日常を送っているであろうか。平穏な心を得るには、日常の心の持ちようが重要であろう。常に自分の心の有り様を見つめて、怒りや比較を戒める必要がある。有名になる必要も皆に知られる必要もない。ただ自分の人生を歩くだけであろう。
人生はどの様に作られるか
人生はどの様に作られるか
最近の社会は、おのおの主張が異なると、互いに相手の非をつき、つつきあい状態になる。社会全体が異常になっていると思われる。動物では環境許容量よりも、数が多くなるとこの様な現象が起こる。
人生では、いろいろの人と出会い、影響を受けて、様々な選択がなされて行く。しかしよく考えると、どのような選択をするかは、決して偶然ではない。それまでの経験によって、選択されるものが変わる。多くは最初の親との関係によって、次の選択が左右される。保育園レベルでは、まだ本人の選択意志は明らかにはならないが、どのような友達ができるかで既に影響が出ている。心の安定も、このころには既にみられる。
その後成長して様々な人と出会い、自分のモデルとなる選択をしてゆく。このころには、基礎がどこにあるかは不明なようであるが、以前からの積み重ねが効いてきている。最も悲惨な状態は、モデルになる相手を見つけられず、孤立化して孤独化することであろう。
全ての基本は、生まれてすぐからの影響で決まってくるように思われる。その後の影響は、時間を経るにしたがって、薄くなるように思われる。
病院の検査
病院の検査
1月30日に総合病院で、内視鏡検査を受けた。大腸に2個のポリープが見つかり切除した。昨年の夏から5㎏ほど減り続けていた体重の減少が止まり、ポリープの影響だったらしい。その後2月は毎週のように検査があり、ようやく3月8日に結果聞くことになった。
胆管に結石があるものの、施術を進められたが、先も短いし必ず詰まると言うものでもないので、そのまま放置することにした。炎症が起きたら緊急に駆け込めばよいかぐらいに思っている。そのへんは医学部に居た経験が役になっている。
その後次第に体調も回復し、現在はかなり生活が楽になっている。貧血も少なくなり、散歩のときに息切れも少なくなった。しかし年ではあるので、体力が回復するとまではなかなか行かない。
しかし毎日散歩をし、花を眺め、鳥の声聞き、風にあたっていると幸せを感じる。しかしその原点は、意外に幼少の時期の経験にある。学校の行き帰りに、クマと出会ったり、イワナを捕まえたり、栗拾いやキノコ採りに明け暮れた子ども時代の経験が、現在の幸福感を作っているように思われる。
研究者魂
研究者魂
北海道にはネズミの研究者が多く、遊びに行くのが楽しみであった。北大の大学院に居た
小林恒明さんは、北海道のネズミの染色体の研究をしていた。それまでアカネズミとされていた北海道のアカネズミに、染色体の多様な(これが珍しい現象)ハントウアカネズミが混じっていることを見つけ出し、面白く話を聞いた覚えがある。
私が大阪市大にいた頃に頼まれて、京都大の授業に行くことになった。行って見たら小林さんがいて、二人で手分けして理学部と医学部の学生の動物解剖の実習をすることになった。そこには教室主任の「洞窟学ことはじめ」の吉井良三先生がおられ、河道屋で昼食をご馳走になったことを覚えている。また高校生の時から知っている両生類の松井正文さんもいて、懐かしかった。
その後小林さんは透析をするようになって居たが、よく部屋でベトナムコーヒーご馳走になった。底にコンデンスミルクの入ったコーヒーは強烈で、カンボジアに居たときには、時々思い出した。何時の頃だったか、研究室にベッドを持ち込み、顕微鏡の仕事に疲れると、しばらく休んでから再開していた。
彼は退職前に、研究室で亡くなっていたことを聞いた。この様な研究者魂は、なかなかなもので、私の様になまくらな者にはまねができない。
子ども支援の事例研究会
子ども支援の事例研究会
新年度も始まり、皆さま子ども支援にご奮闘中と思われます。
先月31日にお伝えしましたように、今年度も子ども支援の事例研究会を行います。
4月14日(日)が最初ですので、ご参加ください。臨床心理士の方も毎回複数参加されますので、相談もできます。
2024年度 事例で学ぶ児童生徒支援
開催日時
・第2日曜日 13時30分~15時30分 年8回
4/14(日) 5/12(日) 6/9(日) 9/8(日) 10/13 (日) 11/10(日)
1/12(日) 2/9(日)
*学期末の7月、12月、3月は休みます。
*夏休みの8月は、箱庭を作る会の予定です。詳細は後日お知らせします。
場所
・安城カウンセリングルーム
安城市御幸本町10-5 シャンボール安城1103号室
*JAあいち中央の西側マンションの11階です。駐車場はアンフォーレの駐車場(2時間無料)、又は、御幸本町市営駐車場を使ってください。徒歩1~2分です。
白い石鹸
白い石鹸
普段風呂場で、髭すりに白い石鹸を使っている。白い石鹸には思い出があり、いつも思い出して感慨深い。
東アフリカのタンザニアで調査していたころに、多くの湖に出会った。タンザニアは、アフリカの地溝帯にある部分があり、1000メートル級の岩盤の上に、多くの湖がある。一番大きなタンガニーカ湖もそうであるが、流れ出す川がない。従って、雨期には水がたまり、乾季には少なくなる。ルクワと言う大きな湖で出たとき、そのため水辺が、10キロメートル以上も移動する。我々は乾季に調査に行くので、当然水は少なくなっている。
夕方少年たちがウシを連れてきて水を飲ませている。少年たちも一緒にその水を飲んでいる。私たちが連れていたタンザニア人のトラッカーたちは、この水は腐っていると言って飲まずに沸かしていた。体を洗うために石鹸を持って湖に出たが、足のくるぶしより少し深いところで、石鹸を落としてしまった。いくら探しても手当たりが無く、ついに無くしてしまった。
日本では沢山あることを、湯水のごとく使うと言うことがある。日本の水道水は、湖の水とは違い、かなりのエネルギーがかかっている。それを思うと役に立たなくなった年寄が、沢山のエネルギーを使うことに、なんだか後ろめたさを感じる。
河井寛次郎の家
河井寛次郎の家
先日テレビで博物館になっている、河井寛次郎の家の放送があった。テレビでは、如何に家が彼の思想を反映しているかを、多く解説していた。
しかし私が興味を持ったのは、家の長押の様なところに、数枚の皿が飾られていたことである。
その中の1枚は、「馬目皿」でかなりいい大きなものであった。河井寛次郎も、民芸の仲間でしたから、馬の目皿があっても不思議ではない。
馬の目皿には思い出があり、子どもの頃に家に1枚あった。その後イヌの食事用に転用されていた。焼き物の好きな上司がいて、欲しいと言うので少し欠けた皿をあげた。喜んで修理され、自宅の食事で使っていたようだ。
馬の目皿は、江戸の後期に、庶民の器として量産され、多く使われていた。しかしやや厚手で、重い上にあまり丈夫ではなかったので、最近ではほとんど見かけない。愛知県に来て瀬戸の焼き物仲間が出来てみると、いろいろ分かったことがあり面白かった。皿の縁の部分に描かれた馬の目の数に特徴があり、窯元では10枚ごとに奇数の目を描いて、生産量を把握していたようだ。うちの皿は目がいくつあったのであろうか。
エプリルフール
エプリルフール
今日は4月1日、エプリルフールである。
思い出すのは、心理学者でユング分析家の河合隼雄元文化庁長官である。遊び心が豊の方であった。嘘つきクラブなるクラブを持っていて、4月1日にはたわいもない嘘を皆さんに配信して、驚かせて楽しんでいた。ちょうど臨床心理士の資格について議論しているころで、なかなかユニークな発想であった。
私は、お兄さんの河合雅雄先生との付き合いが多く、こちらもユーモア―の溢れる人ではあったが、ちょっと方向が違った。なかなかユニークなご兄弟で、お付き合いが楽しいご兄弟であった。