忠犬「ハチ公」渋谷駅広場

忠犬「ハチ公」渋谷駅広場    2019.05.25.



先日雨の激しい5月21日に、東京に出かけた。その日はあまりの雨の激しさと理事会があったので、ハチ公には会えなかった。近くに泊まって次の朝、渋谷駅に出たのでハチ公の広場に回った。雨上がりで、朝も早かったので人影はまばらだった。

数年前にハチ公に会った時には、15人ほどの白人旅行者に、やはり白人のガイドがハチ公について熱心に語っていた。聞いている方もかなり熱心で、写真を撮りながら取り囲んで見物していた。その後も外国人観光客が多いことは聞いていたが、この銅像を見れば明らか。前足のあたりは磨かれて、ブロンズの色がそのまま出ている。およそ60年前、私は井の頭線の駒場の農学部に通っていて、大塚の本校から移動するときには、よく渋谷を通った。当時は周りに木もなく、ハチがぽつんと石の台座に乘っていた。

私が小学校4年の時に飼いだした「ベル」はほぼ同じ大きさで、ハチによく似ていた。ただし雑種でテリヤが少し混じっていたので耳は垂れていた。銅像を見ると、会った時にベルがする仕草が良く出ている。やや耳を後ろに引いて目を細め、小さくうなりながら尾を振りながら腰を上げる。今にも尾を振り出しそうである。学生の頃の印象では、像はもっと黒く、全体的に腹部のような色をしていた。ベルは私が10歳の時に6歳で我が家に来て、26歳まで生きていたから、22歳まで生きたのであろう。あまり家に帰れなかったので、渋谷を通る時にはよく見によった。

渋谷の駅付近もかなり変わった。学生時代には東横の井の頭線は、デパートと道を挟んで向かい側にあり、ガード下には安食堂が並んでいた。中華料理で「屯」と言う店があり、レバニラ炒めとご飯で30円であった。ここはラーメンもあったがとんこつの白いスープ、新宿西口の小便横丁のラーメンは、しょうゆ味でどちらも30円であった。JRのガードをくぐって宮益坂の上の青学の正面に財団の会議があるので時々歩く。以前にあった「志賀昆虫社」は無くなり何となく寂しい。学生時代にはなかったが「国連大学」に並んで長らく開いていた「こどもの国」も、昨年あたり閉館された。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

スミレ  花の記憶

スミレ  花の記憶  2019.05.08.

最近我が家のベランダで、スミレが沢山咲いた。すでに花はほとんど終わってしまった。囲碁の世界では、中邑菫さんが大活躍で世間を楽しませてくれている。

子どものころにはあまりスミレに興味はなかったが、大学に入学して山岳部に入り、最初に友人と2人で山に行ったのが、三国峠から谷川岳であった。ゴールデンウィークのころであったと思うが、稜線にはまだ雪が残っていた。平標から仙の倉山を過ぎ、万太郎山付近であったと思うが、ムシトリスミレが咲いていて感動し、しばらく見ていた記憶がある。
この時の友人はすでに故人になってしまったが、谷川岳の稜線で雷雨に会い、お互いに髪の毛が立って、背中のピッケルが細かく青光しているのを見て、ピッケルを稜線に立てて、少し下のくぼ地に身を伏せて、雷雲をやり過ごしたことがった。彼はかなりの変わった食性で、甘いものや羊羹が大好きで、スキーに行って1日に5回も汁粉を食べたり、大きな羊羹を1本食べてしまったりした。山菜では、ウドではものたらず、シシウド(通常はアクが強く食べない)が好きだったりした。
山岳部時代は、主に高山性のスミレが印象に残っている。キバナノコマノツメ、ミヤマキスミレ、タカネスミレなど、黄色のスミレが楽しかった。

菅平に勤めるようになって、たくさんのスミレを見た。特に実験所の構内には、ニオイタチツボスミレが多くあった。元は放牧地であった場所であるから、1メートルぐらいの土塁が周囲を囲っていたし、中にもいくつか残っていた。この土塁には、カラマツやシラカバの木が自然に生えており、適当な日陰も作っていた。この様な場所には、ニオイタチツボスミレが多く、ネズミの観察のために座り込んでいると、ほのかに匂ってきた。
我が家のベランダのスミレは、繁殖力が強く数は増えて、たくさん花を咲かせるが、匂わないのがチョット残念。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

サクラ 3  花の記憶

サクラ 3  花の記憶    2019.05.01.

子どものころ集落に3人ほどのクマ撃ちの猟師がいて、毎年30-70頭程度のクマを捕ってていた。その内の最も良く捕る猟師が、家の近くにいた。飼っている犬、ハチは熊捕に優れた犬で、よく働いた。私に良くなついていて、クマが捕れるといつも案内に家まで来た。行くとクマの肉をご馳走してくれた。その猟師さんの持っている鉈のケースが、ホウの木で造られており、外側をサクラの木の皮で巻いてあった。使い込まれて皮が奇麗で、憧れていた。
どこかの家のお茶筒にもサクラの皮で巻いたものがあり、なかなか美しかった。
その後仕事についてから、各地を歩くとサクラの皮を使った装飾はいろいろ見られた。例えば、秋田の大舘の曲げワッパは、ヒバの薄板を曲げた弁当であるが、留め具としてサクラの皮が使われていた。森吉山に調査に行った折に買ってきた覚えがある。また大井川上流の大学の演習林に行ったときに作業員の人が持っていた弁当が、曲げワッパで生漆が塗られていた。黒くてサクラの皮は装飾の意味はなさそうであったが、丈夫そうであった。こちらは丸形の弁当で、上下合わせると十分5合の飯が入りそうな大きさであった。
新潟・福島県境の調査の時には、ついて手伝ってくれたマタギの方からワッパ汁作ってもらった。サクラの皮で止めたワッパに、水と味噌、キノコと山菜のミズ(ウワバミソウ)、ウルイ(ヤマギボシの葉柄)、イワナなどを入れ、河原の石を拾ってきて焚火で焼き、3回ほど入れると立派な味噌汁になった。

子どものころサクラの木は、硬くて滑らかになるので、ソリの材料として使っていた。作るのも、滑るのも楽しみで幾つか持っていた。この滑らかさは、彫刻や版木に良く使われている。韓国の国宝の寺である海印寺に行ったときに、国宝の大蔵経があった。当時修業を始めていたので、興味を持って般若心経を探した。般若心経の部分は、サクラの材で表は墨が塗られて黒光りして奇麗だった。しかし裏の部分は、板の特徴が読み取れサクラの板と判別できた。小さいころから炭焼きなどの手伝いをしていたので、多くの材はその切り口や板の表面から判別できるようになっていた。手ぬぐいよりやや大きな布に印刷された、般若心経を買ってきた記憶がある。日本ではお寺の多くは人里になるが、韓国では儒教の集会所は里にあるが、仏教のお寺の多くは山の中にあり、登るのは結構大変であった。
サクラの材は、古い木は独特の色を持つので、軽井沢の寄せ木の装飾や箱根の寄せ木の装飾でも見たことがある。

子どものころに、年末になると火の用心の当番が回ってきた。数人で夜半に拍子木を叩きながら、「火の用心」と大声をあげながら集落を回った。この時に使っていたのがサクラの木で、乾いた良い音がした。後に拍子木は、サクラの木が良いと聞いたことがある。サクラは身近な木で、昔からよく利用されていたようである。

その他にも、草木染めをしている方に聞いたときに、サクラの花の開花前の若枝を使と、桜色になると言っていた。
サクラの木は、燻製の燻す材料としても優れている。学生のころに豚1頭を解剖実習で使い、後で加工実習を行ったが、ハムやソーセージの燻製はサクラの枝を集めてきて使った。

ところで、フサザクラと言う木があるが、これはサクラの仲間ではない。乾燥すると非常に硬くなる木で、昔は二階に上がる階段などに使われていた。狂いも少なく良い材料であるが、大工泣かせであると聞いたことがある。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )