いじめ問題 5 教育委員会の問題 はだしのゲン

いじめ問題 5 教育委員会の問題  2013.11.13. 金森正臣

「はだしのゲン」騒動から見る教育委員会の問題 

「はだしのゲン」の島根県の教育委員会の騒動は、どうやら収まった様だ。しかし今までのところ、教育委員会の手続きや開架図書か閉架図書の問題などは論じられているが、肝心の問題は置き去りにされている。

 教育委員会の問題は、手続きの問題ではない。子どもの成長を理解していない先生たちの問題である。いじめにも共通する。
 今回の問題の発端は、教育委員会が市民から「はだしのゲン」は、残酷な描写が有り子どもにはふさわしくないと意見を出され、閉架図書に移したことに有る。なぜ閉架図書に移したかを考えると、教育委員会が子どもには残酷な描写はふさわしくないと考えたからであろう。残酷の描写にもいろいろあるが、「はだしのゲン」は、戦後の当時に有った現実を子どもたちに伝えて、戦争の現実に目を向けさせることに有る。故意に残酷や性的描写によって子どもを刺激して、興味をそそろうとしているのとは異なる。私もかなり以前に読んだだけで、記憶は曖昧であるが、それだけに残っている印象は長い時間に消化されて、全体として誤ったものでは無く、作者の意図がハッキリとしている。
 その作者の意図と教育委員会の解釈の相違は大きくないと思われる。しかし、教育委員会の先生たちは(多くの教育委員会は先生で構成されている)、子どもに残酷な本を読ませると、残酷になると思っている点である。
 犯罪でしばしば、何かの本の手口を真似て犯行に及ぶ例が有る。だからと言って、犯罪がその本の影響で起こったわけではない。犯罪を起こす素地を持った人が、何かの不満を発散するために機会を伺っていて、たまたま本の手法を真似しただけである。異なる本に出会っていると、異なる手法で行ったであろう。犯罪に至るのは、本によって起こるのではなく、その成長の過程に起こっている。本は実際には犯罪を引き起こす誘発剤にはなっても、その根源にはなっていない。「はだしのゲン」を子どもたちに読ませても、残酷にも犯罪者にもならない。もし成ったとしたら、それは本の影響ではなく、生育過程に受けた他の状況によるであろう。
 そこのところを理解できなくて考え違いをすると、今回の様な対応になろう。

 教育委員会は、いじめ問題についても、ただいじめを無くすことだけを考えており、どの様な経過でいじめに至っているかは、深く考えられていない。またどこの社会にもいじめはあり、子どもの成長に一定の役割を果たしていることも理解されていない。
 そもそも、いじめは悪であると言うが、善悪の起源も、その本質も考えていない人が多い。善悪の起源は古く、ヒトがヒトとして独立する以前から存在する。動物は初期には、各自が独立して生活しており、群れは持っていなかった。単独で生活している時には、生存は全て個の責任であって、どの様な方法かで生き残らなければならない。この段階では、善悪は存在しない。全ては自己の責任である。ところが進化が進むと、群れが誕生する。母子による群れとペアによる群れが起源であろうと推測されるが、他にも起源が有るかもしれない。群れが出来ると、善悪が生じ、群れを維持できなくする行動が悪になり、群れを維持する妥協が善となる。群れを維持する妥協と書いたが、個はそれまでの自分の生存のために何をしても良い状態から、群れのメンバーと共に生きる道を選ぶようになった。自分を生存させるための行動は、本能であり、餌を自分のものとする行動やセックスである。群れを作ると、多くの群れのメンバーとこの点で衝突が起こる。そこを妥協して群れのメンバーとして、群れに依存するのがメンバーの役割となる。その行動を妥協と表現したのである。チンパンジーの群れを研究したフランソス・ド・ヴァールは、「仲直り戦術」(どうぶつ社:1993)を書いた。チンパンジーは、生きる力となる本能を消失することなく、衝突した後に仲直りをする手法を手に入れ、大きな群れを保っていると述べている。この研究は、ヒトの成長を考える上で、重要な示唆に富んでいる。現在の子どもたちの成長環境を考えると、ほとんど真面に喧嘩をする機会がない。喧嘩は悪であると決めつけられて、直ぐに大人の干渉の対象となる。このことによって子どもたちは仲直りの方法を手に入れられないまま、大きくなり力が強くなる。大人の目から逃れる知恵が付いたころには、既に力が強くなっており、一方的にいじめる結果になり、自殺も起こり易い。まだ小さい時から、喧嘩やいじめを体験することによって、その対処法が手に入ってくる。その機会がないまま大きくなることが、現代の子どもたちの大きな問題である。
 もう30年ぐらい以前だったと思うが、ある小学校に教育実習生の研究授業を見に行った。体育の4年生の授業で、バスケットボールを使ったゲームが行われ、いくつかの班に分かれてした結果、ある班で意見が衝突して喧嘩になった。実習生はあわてたが大きなことにはならず、終了した。校長先生や教頭先生と校長室で話した時に、校長先生は、担任が左翼系で普段の学級経営がなっていないからあの様になると、憎々しげに言った。私は全く違う感想を持っていたので驚いた。子どもたちが喧嘩を始めても、担任はあわてていなかった。子どもたちはそれだけ伸び伸びと自分の感情が出せ、最後には仲直りが出来ていった。その担任の度量の大きさに感激して帰って来た。しかし、校長の子どもの成長に関する感性の悪さは、後味が悪く今でも鮮明に覚えている。教育委員会は兎角この校長先生の様に、事なかれ主義がもてはやされる傾向が有る。このようは問題が、「はだしのゲン」についての、松江の教育委員会の対応にも表れているように思われる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )