民間援助最前線 2 仮小屋小学校

民間援助最前線 2 仮小屋小学校    2008.2.28. 金森正臣

 地雷除去の後に作られた村は、まだ移住してから日が浅い。さまざまな施設を整えるには時間がかかる。現実としては、子どもは居るから、急いで小学校の建設が行われている。すぐ脇では、仮小屋で小学校の授業が行われていた。

 壁はまったく無く、前方と後方に黒板がある。黒板が部屋の境になっている。壁は無いほうが、風が通りが良く涼しい。先生が3人居て、前方と後方で授業をしている。右手の女の先生が、右手の子どもたちを教え、左手の緑色のシャツの先生が、左手の子どもたちを教えている。同じような年齢の子どもに見えるが、分けられている。つい先日までは、学校が無かったわけであるから、進度別になっているのかもしれない。右手の先生の後ろには、もう一教室があり、若い女の先生が少し大きな子どもたちのクラスを教えていた。その先生も、時々隣の教室をのぞいている。子どもたちはおとなしく座っている。

 教科書を誰も持っていないし、ノートも無い。それでも子どもたちは元気に手を上げている。写真右の先生は算数を教えているようだが、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。そばでは学校の基礎のコンクリート打ちが行われている。

 教室の隅には、先生たちの自炊道具が(と言っても鍋が二つと皿が2-3枚だけ)置かれていた。交通の便は何も無いので、皆さんこの学校に寝泊りしているのであろう。のどかな学校で良い。
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民間援助最前線 1 三つの石を使った「かまど」

民間援助最前線 1 三つの石を使った「かまど」     2008.2.20. 金森正臣

 先週の週末、久しぶりに地方に出かけた。地雷除去のグループで活躍している安田さん(NPO法人:豊かな大地・カンボジア事務所代表)に招待されて、地雷除去後の農村の支援の現場を視察した。ポルポト時代に沢山の地雷が埋められ、最後まで戦いがあった地域である。地雷が除去されて安全になってから、入植した村ではまだ日が浅く、ひどく貧しい。どの家も付近で調達できる材料を使って、手作り。村全体が、床板以外はほとんど板が使えない状態の村は、珍しい。蓄えが出来て豊かになってくると、必ず板を使った家が見られる。それだけ入植して新しいことを示している。部屋もほとんど一部屋で、家の中は丸見え、一目で家財道具まで見渡せる。昨年ある研究者からの依頼で、庭先に植えられている植物を調べたことがある。異なる地方で豊かな土地であったから、家財道具の鍋が著しく多いことが気になっていた。一軒で数個の鍋は普通で、中には十個を超える家も少なくなかった。でもここでは、ほとんどの家が、1-2個程度。貧しさの程度を表す指標になる。

 ガスも電気も使用していなくて、どの家にも庭先に「かまど」が有った。かまどと言っても、石を3つ置いただけ。鍋を地面から上げて、その間で火を焚く。アフリカで使っていたのと同じ構造に懐かしさを覚えた。同時に、最も簡単で鍋が安定する3方の支えは、人類が経験的に生み出した最初の「かまど」の形態であろう。

 アフリカと異なるのは、鍋の下にさらに支えのサナが存在すること。写真のかまどに置かれているのは、サナでこの上に鍋を乗せる。そうすると安定も良いし、鍋もススの付着が少ない。熱帯の植物は、樹脂を多量に含んでいるので、火を焚くと当然ススが多量に出る。鍋にススが付き過ぎると、湯を沸かすのに時間がかかる。黒くなる程度なら、熱効率は良くなるが、板状に付き始めると、熱が鍋になかなか伝わらない。このサナをアフリカで見かけないのは、流通機構の差によるであろう。カンボジアは、タイやベトナムに挟まれ、経済的影響がもろにあり、物質が流れ込んでくる。アフリカの場合には、遠いので簡単には流れ込んでこない。輸送コスト、購買力などの問題がある。カンボジアを支援したくなるのは、この様な周辺の流通機構に巻き込まれ、搾取されるからである。

 簡単に半日見ただけであるが、将来農業が上手く進むと、豊かな村になるであろうと思われた。ポルポトが作ったダム(唯一現在でも使われているポルポトの灌漑事業。多くは測量が不備で、水が流れなかったりした)の上流にあり、カンボジアでは珍しく乾季にも地下水位(地表から地下水までの距離を表す)が高いと思われる。井戸から簡単な仕掛けで水揚げすれば、二毛作が出来る。資金がまだ貯まらない状態にある農村では、ポンプなどで借金することは、自分の首を絞めることに直結する。1980年ごろのエジプトなどでラクダや水牛の労働力を使っていた井戸が有効であると思われる。メコンに洗われることも無く、肥料分が残る。メコンの水に洗われると、作付け以外の時期に、手入れをしても、一度で元に戻ってしまう。この原因によると思われるが、カンボジアの農業は、農地の手入れをする習慣が無い。隣のラオスでは、焼畑で発達したために農耕地の手入れの文化は発達している。カンボジアでも、農地の手入れをして耕作を改良すれば収量は確実に上がる。冠水しても流水が無いこのサイトは、手入れをすれば土地が次第に肥沃になって行く。かなり有望な場所だ。
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蔓延する偽物 日本の現状 3 マスコミ

 蔓延する偽物 日本の現状 3 マスコミ     2008.2.25. 金森正臣

 マスコミは、蔓延する偽物の増加に大きな役割を果たしている。マスコミはその生命線を、人気に頼っている。人気に関係なく経営費を集めているNHKであっても、視聴率を気にして番組が編成される。これはマスコミの特性であるから、新聞や雑誌まで同じであるのは仕方が無い。

 しかしこれが、人々の考え方に大きな影響を与えている。流行歌手などが出現して、たくさんの収入を得るようになった。スポーツ選手が有名になり、普通の人生では得られないような膨大な収入を得るようになった。また有名人を使うことによって、マスコミはそのエリアを拡大して行った。マスコミと有名人は、互いに持ちつ持たれつの関係で、庶民の生活に影響を与え続けた。その結果「受け狙い」が横行し、人生の本質からは、かなり離れている。それに拍車をかけたのが、「民主主義」と言う大衆主義である。大勢の人の望むように政治が行われることは大切であるが、大勢の人が集まれば、そこに人生の本質があるというものでは無い。

 皆さんはマスコミの裏側をご存知だろうか。学生時代にカメラマンの助手をして、テレビや新聞、週刊誌などの人々に接する時期があった。アイドルと言う言葉があったかどうか確かではないが、マスコミでは有名になっていても、結構悲惨な扱いを受けていたことを覚えている。またマスコミの関係者は、いかにして売れるようにするかが目的であって、物事の本質を考えるような余裕は無い。また本質について考えるような人は、なかなかマスコミには馴染めない様な気がする。教育についても、マスコミが関わることによって、ずいぶん本質が歪められて来た。マスコミ自身も、絶えずヤラセ等で揺れている。弱者の見方をするのは良いが、本質を見極めないところで、正義の味方のように振舞われて、多くの人が誤った考え方に陥っている。人を育てることよりも、自分たちが売れることを目的としたマスコミの論調は、最近の教育の質を変えた。教育再生会議も、この範囲の行動でしかない。

 日本の最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の最終講義での言葉は、「真理はいつも少数から始まる」である。自分の人生は、大勢に惑わされること無く、自分自身で見つめなければならない。本質に関わらない批判に振り回されてはいけない。何故ならば、周囲の人が変わるごとに変わるから、ついには自分の本質に近づけ得ないまま人生を終わる。現代は、あまり本質にこだわらないが、人生の最後に想像以上に悲惨になる例が多い。
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怪我による足の退化

怪我による足の退化              2008.02.16.金森正臣

 怪我をして左の足を使わなくなってから、約6月が過ぎた。徐々に使い始めて気が付いたのが、足の幅が著しく違っていたこと。写真のように(あまり上品なことでなくてごめんなさい)、使わなくなっていた左足の指の付け根の幅が狭くなっている。退化。確かに筋肉は、衰えていたが、幅まで退化しているとは。

 右の幅が、117.5mm。左の幅が103.8mm。15%程度退化している。もともと私は、左足が軸足で、踏ん張る時や体重をかける時には、左足を使う。若いときに雪原でリング・ワンデリング(直線に歩こうとしているのに、吹雪など先が見えない時に輪を描く現象)では、右に輪を描いていた。左足が強いから、左が進む量が多く、右が遅れるから右回りになる。アメリカのモーガンは、リング・ワンデリングを防ぐために、利き足側に斧などを持ち、速度を遅らせる工夫をしている。たぶん事故以前には、利き足の方の幅が広かったであろうと思われる。小さい時から、よく素足で駆け回っていたから、靴で保護されているのと異なり、足幅が広い。靴を選ぶ時は、幅広のEEEEなどでなければ入らない。左足を基準に選ぶと、右足は素直に入っていたが、今の状態では逆。

 短時間で骨が退化したとは考えられないから、指の付け根の関節を覆っているじん帯や腱などが薄くなっているのだろう。回復するのにかなり時間がかかりそう。実際にリハビリをしてから、足の指の付け根が痛い感じがある。たぶん使わなかった分の衰えに対し、過剰な力がかかっているのだろう。

 年を取ってから怪我や病気で寝ると、寝たきりになり易い。こんなに急激に衰えるとは、思っていなかった。結構貴重な体験だったように思う。これに気が付いて書いたのは、1月31日。それから本格的にリハビリを始めて2週間。足の幅は、退化した分の6割ぐらいを回復してきている。
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蔓延する偽物 日本の現状 3 マスコミ

 蔓延する偽物 日本の現状 3 マスコミ     2008.2.16. 金森正臣

 マスコミは、蔓延する偽物の増加に大きな役割を果たしている。マスコミはその生命線を、人気に頼っている。人気に関係なく経営費を集めているNHKであっても、視聴率を気にして番組が編成される。これはマスコミの特性であるから、新聞や雑誌まで同じであるのは仕方が無い。

 しかしこれが、人々の考え方に大きな影響を与えている。流行歌手などが出現して、たくさんの収入を得るようになった。スポーツ選手が有名になり、普通の人生では得られないような膨大な収入を得るようになった。また有名人を使うことによって、マスコミはそのエリアを拡大して行った。マスコミと有名人は、互いに持ちつ持たれつの関係で、庶民の生活に影響を与え続けた。その結果「受け狙い」や「目立つこと」が横行し、人生の本質からは、かなり離れている。それに拍車をかけたのが、「民主主義」と言う大衆主義である。大勢の人の望むように政治が行われることは大切であるが、大勢の人が集まれば、そこに人生の本質があるというものでは無い。

 皆さんはマスコミの裏側をご存知だろうか。学生時代にカメラマンの助手をして、テレビや新聞、週刊誌などの人々に接する時期があった。アイドルと言う言葉があったかどうか確かではないが、マスコミでは有名になっていても、結構悲惨な扱いを受けていたことを覚えている。またマスコミの関係者は、いかにして売れるようにするかが目的であって、物事の本質を考えるような余裕は無い。また本質について考えるような人は、なかなかマスコミには馴染めない様な気がする。教育についても、マスコミが関わることによって、ずいぶん本質が歪められて来た。マスコミ自身も、絶えずヤラセ等で揺れている。弱者の見方をするのは良いが、本質を見極めないところで、正義の味方のように振舞われて、多くの人が誤った考え方に陥っている。人を育てることよりも、自分たちが売れることを目的としたマスコミの論調は、最近の教育の質を変えた。教育再生会議も、この範囲の行動でしかない。

 日本の最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の最終講義での言葉は、「真理はいつも少数から始まる」である。自分の人生は、大勢に惑わされること無く、自分自身で見つめなければならない。本質に関わらない批判に振り回されてはいけない。何故ならば、周囲の人が変わるごとに変わるから、ついには自分の本質に近づけ得ないまま人生を終わる。現代は、あまり本質にこだわらないが、人生の最後に想像以上に悲惨になる例が多い。

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蔓延する偽物 日本の現状 2 宗教

蔓延する偽物 日本の現状 2 宗教         2008.2.6. 金森正臣

 昨年は度々日本に帰った。家に帰ったら、「仏教新発見」と言う週間雑誌があった。新聞社が発行した、A4版ぐらいの雑誌である。毎号巻頭言に、瀬戸内寂聴さんが書いていた。又先日、カンボジアで見ているNHKで、瀬戸内寂聴さんと鎌田實さん(マスコミで有名なお医者さん)とで対談をしていた(私はあまりマスコミに明るくないので、名前などが間違っているかも知れない)。

 週刊誌の巻頭言「釈迦の言葉」も、何冊か読んでみたが、どれもなんだかしっくりしない。本当の仏教とはどこかずれている。瀬戸内さんは、以前は売れっ子の作家で、瀬戸内晴海さん。今東光さんとう言う、作家でお坊さんについて出家したのだと記憶している。私は、芸能やこの手の情報には暗いことを自負しているので、間違っているかもしれない。出家するのに重要なのは、真の指導者に付くことである。

 瀬戸内さんの人気は、相当なもので、新たに開いた寂庵寺の説法には、入れないほどの人が集まると聞くし、先日も愛知県の桐朋大学であった彼女の講演には、300人の定員に4000人もの応募者があったと聞く。又彼女の書物も、良く売れていると言う。人気が有ることは作家としては、立派なことである。しかし、得度してお坊さんとして仏教を語るには、ずれていることが残念。人気が有って、仏教のことを話して下さることはそれなりに、仏教に縁を繋いでもらえる人もいるのかも知れない。しかしお坊さんが、本質をずれて解説することは如何なものか。

 日本の仏教は、大きな教団を作り、葬式を司る事で、日本人の中に定着してきた。宗教が人々に安心を届けることは、重要な役割である。しかし、安易な安心で本質を外れることは、本来ではない。日本の仏教には「一盲、群盲を引く」と言う言葉があり、仏教に暗いまま、指導することを厳しく禁じている。親鸞聖人でさえ、「弟子一人も持たず」(弟子を持つほど仏教を知らないと言う意味が込められている)、と言ったほどである。大乗仏教は、修行にこそ本質がある。現在の日本には真の指導者は、両手の指があったら余ってしまうほどしか居ないらしい。ここでも日本は、偽者が横行している。最もお釈迦様も、仏教が真に理解されるためには数千年の時が必要だと、予見しておられるのだから、現在は仕方が無いのかもしれないが。
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蔓延する偽物 日本の現状 1 食べ物

蔓延する偽物 日本の現状 1 食べ物         2008.2.6. 金森正臣

 昨年は日本に、偽物が蔓延していた事を知る良い機会であった。ミートホープのひき肉から、比内鳥、カト吉や船場吉兆など、次から次にいろいろなものが出てきた。これ等はいずれも、原材料の偽物。「白い恋人」や「赤福」は、賞味期限の偽装。

 これ等の多くは、消費者には分からず、愛用されていた点である。内部告発が無ければ、表面化はもっと時間がかかったのであろう。消費者は、偽物を食べさせられても、見分けができなかったと言うことである。消費者の、愚かさが表面化したということであろう。有名商品に頼っている味覚は、自分の味覚がしっかりしていないからである。だいたい加工食品は、あまりまともな味に会ったことが無い。加工食品で有名であっても、自分の調理したてのものより、美味いものにあったことはあまり無い。原材料でも、例えばこの時期はカキであるが、20年以上前から有名産地のカキをあまり買わない。海が汚れ過ぎて(カキはある程度汚れたほうが良く育つが、汚れ過ぎると酸欠でやせて良くない)、少量生産の無名な場所のカキに見劣りすることが多い。

 鶏肉の味で言えば、ここしばらくは、日本でまともな味に出会ったことが無い。だいたい日本人は、柔らかいのが好きで、極力運動させないことになる。ブロイラーが好例で、それ以外は硬くなる。アフリカやカンボジアの鶏で、柔らかいのはあまりいない。アフリカの鶏などは、毎日自由に走り回り、夜は家の屋根に上っているので、かなり硬い。アフリカのフィールドでは、食材が自由に手に入らないから、長持ちする生きた鳥を数羽買ってキャンプで飼っていた事がある。食べる段になって、追いかけ回したら300mぐらい飛び、川の向こう側に行ってしまった。あきらめていたら夜になって、キャンプに戻ってきた。ネコ科やイヌ科の動物、マングースなど捕食者が多くて、キャンプが安全と思ったらしい。結局捕まって食べられてしまった。カンボジアでもアフリカでも、人々はあまり餌をやらない。鶏は、勝手に餌を探さなければならない。ますます硬くなる。でも味は噛めば噛むほど出てくる。特に1-2日ユックリ焼くと、格段味がよくなる。ナントカ・フライドチキンとは、別物の様な気がする。味まで偽物になっている。最近は、年を取って歯が弱くなってきたので、柔らかいのは有り難いのであるが。

 マスコミは正義の味方のように、偽装した会社などを非難して終わった。しかし問題になるのは、本当は消費者である。自分を見失っており、他者の評価に頼っているから、この様な現象が起こるのであろう。商品の消費については、それでもたいした問題は起こらないが、自分の人生については、判断が借り物では済まされない。自分を見失って人まねだったら、人生を生きる意味が無くなる。
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