シェム・リアップ研修行報告

シェム・リアップ研修行報告
(シェムリアップは、アンコールワットのある町です)
2003.04.25.
金森正臣・前田美子



期間:2003/04/08-2003/04/10 FOP学生の研修に参加。学生は7日に出発しており、我々は一日遅れて参加した。
日程:2003/04/08 移動。プノンペンからシェムリアップへ。
   2003/04/09 午前、朝食(PTTC)、バンテア・スレイ、ニャック・ポアン、プリア・カーン。昼食」(PTTC)、午後、西バライ、アンコールワット。  2003/04/10 朝食後移動。シェムリアップからプノンペンへ。

 学生の状況
参加学生は、16科目のやく400人、スタッフ等世話役が約50人の総勢450人である。
シェムリアップは、多くの学生にとって初めての体験の様である。教官でも若い教官(例えば、セング、チョムラン、サムナン、サングワさんなど)は初めてであり、ソバンナさんが2回目とのこと。研修期間中3名の学生が体調を崩し、救護を必要とした。その内の1人は、重症のためヘリコプターでプノンペンに送還されたと言う(熱射病と思われる)。彼らは暑い中で成長していながら、やや温度の高いシェムリアップの様な場所における体調維持については、経験が浅いと思われる。

 FOPスタッフによる運営能力
 約400人の学生、50人のスタッフが参加し、13台のバスで移動を行っている。宿舎も、教員用のドミトリーだけではまかなえず、市内のホテルに分宿した。また食事は、PTTCの校舎の間に、木材とトタンで屋根を仮設し、テーブルをセットして食堂としていた。朝食は予定通り、この場所で牛肉のスープとパン・水が提供された。昼食は、他の場所で行われる予定であったが、急遽変更されてPTTCの仮説食堂で、弁当と水が準備された。時間的にも20分程度で、それほど大きな遅れは起こらなかった。
 その日のおよその日程は、朝食の折りや昼食時に、スタッフからハンドマイクで話された。各個人には、配布されていない。十分に聞いていない面もあったが、運営上特に支障を起こしていないと思われた。
 この様な進行状況を見ていると、無線機、携帯電話を使用しているとは言え、彼らの実務的能力の高さを伺わせる。
 各地における見学状況も、特に時間を決めて出発するでもなく、バスが到着すると三々五々、見学に出かけ、大方帰着した頃にバスのホーンを鳴らして、集合を促し出発する状況であった。この様な状況にあっても、それほど大きな遅延を起こさないのは、この地の社会的習慣を反映しているのであろうか。
 日本の状況と比較してみると、食事などでも大きな混乱は起こらず、不満で混乱が起きることはなかった。これは、現在の日本では考えられない状況であり、カンボジアの置かれてきた社会状況を反映しており、簡単な食事であっても十分な量が提供されれば、不満を持たないためであろう。戦後の日本においても、食糧の不足していた時代を過ぎてしばらくは、量が十分に提供されれば、不満を持つことは少なかった。
またその他の要因として、提供されたものに対して、不満を出さないことが良しとされる社会的規範があることも考えられる。
 特に私が注目した点は、時間等について細かなスケジュールが無く、従って注意もなく、かなり参加者の自由度が高い点である。それにも関わらず、最終的には大きな齟齬が生じない様に各自が行動する点にある。確かに計画通りのスケジュールで進んでいない面もあるが、最終的には大きな問題が起こっていない。計画が細かくないため、ズレが問題にならない点も重要であろう。
 カンボジア社会が、一般的に拘束されることを嫌う傾向があるとしたならば、我々の彼らへの協力方法も、この点について認識しておく必要があるかも知れない。日本の社会の場合には、より正確に物事を実行するために、タイムスケジュールが詳細に検討され、そのままに実行するのが一般的である。中学生350人の4泊5日のキャンプについて、タイムスケジュールを持たず、時計も持たずに行ったことがあるが、先生方の終了後の感想は、イライラが減った、怒ることが少なかったと言ったものであった。日本の物差しを見直す必要があるかも知れない。

学生と教官の関係について
 食事の時、見学地での様子、宿舎における状況から見ると、学生と教官の関係は、必ずしも親密ではない。教官は独自にまとまる傾向があり、学生は学生同士でまとまる傾向がある。
 しかしながら同行した化学の学生達については、各地で見学中に声をかけて来るし、話しに来る。また、写真撮影時に一緒に入ることを希望される。これらの行動は明らかに親しみを示しており、同行した他のグループとは異なる点である。
 この様な相違は、このプロジェクトが始まり、常に教官が実験室付近におり、常日頃教官に聞きに行ける状況にあること、直前の教育実習中にも様々な問題を持ち込んで指導を受けてきた結果であろう。従って、この様な教官と学生の関係ができあがってきたことは、このプロジェクトの成果であろう。
 一般に、学ぶことは真似をすることから始まっていると考えられる。この真似をする状況は、信頼を置ける親しい個体間に起こる現象であって、教育を行う出発点に親しい関係或いは信頼できる関係が存在することが重要である。教育を受ける側が、教育を行う側を信頼でき親しみを持っていなければ、教育の効果は半減する。教育を受ける側が真似てこそ、教育が可能になる。これがなければ、単なる訓練になり、サーカスの動物の調教と何ら相違がない。ここには、発展性は無く、自主的な学習には至らない。チンパンジーのアイちゃんを教育している、松沢氏の方法は、動物に対して信頼関係を築き相手が真似する状況を作り出し、持っている能力を引き出している点で教育的方法である。そのことによって初めて持っている能力の解明が可能になり、優れて教育の基本に忠実な点が注目されている。プロジェクト開始以前の短期調査の段階では、教官室の控え室は16の全教科で1室であり、ほとんどの教官はFOPに留まっておらず、学生が教官を訪ねて来ることもほとんど無かった。これらの点について考えると、プロジェクトが動き出してからの効果と言えよう。教育を行う目に見えない基盤が整備されつつあるといえる。

 見学の状況について
 学生の遺跡見学は、淡泊で単純と思われる。ほとんど留まって見学をすることは無く、ただ通り過ぎるだけの状態である。遺跡を背景に写真撮影をすることには熱心で、そこかしこで記念撮影が行われている。これは学生だけではなく、FOPの教官であっても同じ傾向がある。同行している写真屋さんに、ポーズを付けて撮影させている女性の教官も複数見受けられた。学生には関わりを持たず、写真とお土産物に熱心である。
 正月前の時期であり、観光客もカンボジア人が圧倒的に多く、その多くは記念撮影に熱心である。写真好きは現在のカンボジア人に一般的傾向である。2年前頃から、プノンペンにおいても、ワットプノン、王宮前などでカメラを首に掛けた写真屋が急増していることも、この状況を示していよう。見学について少数ではあるが、学生にも教官にも熱心に見て歩く者がいる。多くの場所で立ち止まり、レリーフの物語や作られた時期、改変されている事実の追求をする者もいる。化学の若手の教官セング君は、アンコールワットで仏教のレリーフが削られて、ヒンズーの新しい彫り物に置き換えられている事実を、掘る技術やデザインの相違から推察し、科学的に検証していた。彼は、アンコールワットは初めてであると言っていたが、明らかに歴史上の事実を、観察から論理的に学習している。アンコールワットの第1回廊と入り口との交点は、床面が摩耗し、材質の関係で輝く様な面になっている。このことについて一般客の中にも、興味を持ち、スリッパを脱ぎ足で確かめたり、手で触って確かめている様子が1%ぐらいの割合で見ることが出来る。
 この様な見学における相違は、どの様にして起こるのであろうか。第1には、観察眼に有るであろう。まず現象を観察する目が必要である。次いでそれを確かめてみようとする、強い興味が必要であろう。これらをどの様にして養うかが、現在のプロジェクトサイドで我々に求められていることでは無かろうか。現象の関係を理解するには、基礎的知識が必要であろう。しかしそれ以前に観察する、興味を持つことが無ければ、科学は始めることが出来ない。観察眼と興味を持つことを養うことこそが、カンボジアの理数科教育の改善のために求められている最初の課題であろう。

 西バライの水田
 西バライは元々水田灌漑用に作られた溜め池である。乾期になり水位が低くなると、西メボン付近が陸地化する。この時期を利用して、西メボンの周囲に水田耕作がされている。水位の低くなった浅瀬に入り、手で泥を掻き上げて低い土塁を作り水の流出入を止める。水が蒸発して少なくなった時点で、種籾を蒔く。稲が発芽し、のびる頃にはほとんど水が無くなっている。また一方でやや深い水位の場所には、苗を植えることをしている。
 この土塁の築き方であるが、きわめて正確な方形に近い形を、何の定規も持たずに作って行く。これらの直角や直線に関する感覚は、繰り返し行われてきた伝統的方法に思われる。我々が、畑の畝を直線にしようと思うとかなりの熟練がいる。また畝を平行に作ることはさらなる訓練を要する。カンボジア人は、直角や直線、平行に関する文化的伝統があるか感覚に優れている可能性がある。
 ところが実際にグラフを描くとなると、プロット間の直線がかなり不正確に引かれるなど、ややギャップ感じる。実用レベルでの感覚と、勉強としての机上の感覚が乖離している可能性がある。これらをどの様にして繋ぐかも今後の課題であろう。
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クメール正月の記録(つづき)

クメール式の食事
 客人として扱われたこと、クメール正月であることなど幾つかの特別要素はあるものの、食事のマナーや料理の構成について伺い知ることができたと思われる。朝食:家庭に置いては昨日の余り物やちょっとした調理程度で、特別のものを作らないのが原則の様である。客人にはこの様な食事はさせず、4食とも外食してクイティウであった。町のクイティウ屋は、かなりの混雑であり、日常的に利用している家庭も多いと思われる。プノンペンのある人は、各家庭で作るより時間も労力も少なくて済むと言っていた。運ばれてきた料理が同じものであれば、年長者から配るなどのマナーがある様で、日本と同じ感覚がある。昼食1:ニワトリの丸焼き、鶏の丸ごとスープ、牛肉の焼いたもの、野菜(ブロッコリと呼んでいるが、日本と異なり葉と茎を食べる)の油炒め、ご飯。デザートにスイカ。昼食2:ニワトリの唐揚げ、ハスの花の茎入りトリのスープ、干し牛肉の焼いたもの、牛肉のしゃぶしゃぶ中華風。ご飯。デザートにスイカ。
昼食3:グース(ガン)と野菜の炒め物、グースのスープ、ご飯とパン、ヤシ酒。デザートにスイカ。
昼食4:魚の唐揚げ、魚のスープ(火炎鍋)、ご飯とパン。デザートにパイナップルとスイカ。
昼食5:ニワトリのココナッツミルク入りスープ。米の麺、パン、ご飯。
夕食1:煮たブタの内臓・耳・皮付き肉など(中国風と言う)、ニワトリのスープ、ご飯。
夕食2:焼いたニワトリ、ニワトリのスープ、野菜のスープ、ご飯。デザートにスイカ。
夕食3:アリと野菜の煮物、水牛の煮物(塩コショウを付けて食べる)、牛肉のスープ、魚のスープ、ご飯。
町の食堂で食べていると、クメール料理の調理法は分かるが、彼らの食事の作法や料理の構成は明らかではない。
 全体は、主食の米飯或いは麺、パンなどの炭水化物、肉、魚などの動物タンパク質の複数のおかず、スープ、食後のデザートで構成されている。地方の裕福な家庭では、肉類或いは魚類などの動物タンパク質類が豊富であると言える。肉と野菜の油炒め、魚の唐揚げ、スープなどの動物性タンパク質には、必ず付けて食べるタレが付属する。既に味が付いているが、小皿に入れられたタレを付けて食べる場合が多い。肉
類、鶏肉、魚などでそれぞれタレは異なり、1回の食事に2種類以上のタレが出る。ショウガ入り甘酢、青マンゴーの甘酢和え、プラホック味のタレ、コショウ入り塩などそれぞれに合った味付けが工夫されている。魚と肉はタレが異なっていて、どれを付けるかは決まりがある様である。魚について言えば、焼き魚も唐揚げも同じようなタレを付けている。カンボジア料理の特徴と言えるかも知れない。その他では、ココナッツミルクがかなり使われている。味を複雑で濃厚なものとしている。辛みはあまり使われることはなく、刻んだ唐辛子や酢に漬けた唐辛子が出されることがある。これらは各自の好みに合わせて入れられるので、インドのカレーやタイの料理より食べやすい料理と言える。
 料理全体は、鍋或いは大鉢に出され、各自が好きなものを好きな順序で自分の皿に取り分ける。ご飯は茶碗か皿に取り分けられる。お椀や皿のご飯がなくなるとすかさず鍋や鉢にあるご飯を勧められる。給仕をするのとは異なり、他のおかず類と一緒に置いてあることが多い。スープなどは皆が一通り取り終わると調理場から鍋を持って来て、追加される。他のおかず類も少なくなってくると調理場から追加されることが多い。
 この様にして、食事は皆が十分に満足するまで提供される。多くの場合はかなりの量が残る様になっており、客人がだいたい終わったところで女性が奥で食事を始める。客人が私だけの場合には、女性も加わって家族全員で同時に食事を取っていた。20人程度になることもあった。
 食事は、板床の上に食器類が並べられ、周囲に人々があぐらや片膝立てなど思い思いの姿勢で車座になる。日本の正座の座り方は見られない。テーブルを使っている家庭もあるが少数派と思われる。だいたい客人や長老から盛り分け、客人や長老が食べ始めると皆が食事に箸を付ける。この様な食卓のマナーは、アフリカの原野のキャンプにおける食事でも同じことが行われる。多くの人間人社会に共通な行動と思われる。
 昼食が最も豪華な様子で、ゆっくりと話しながら進められる。その後に昼休みが待っていることもあり、楽しんでいることが伺える。
 グースの料理は、家庭で飼っていたものを殺してご馳走して頂いた。たった数羽の飼育鳥を大丈夫であろうかと心配したが、既に1羽が抱卵しており、今後も十分維持されると安心した。グースは初めてであったが(どこかのレストランで食べたことはあるが)、癖は少なくなかなか美味しかった。
 食事で注目したのは、スープ、肉の煮物などに必ず野草が入っていることである。中には市場で売られているものもあるが、地方の家であれば庭にある草や木の若い葉が入れられる。香草もあるが料理の構成要素としてかなりの量を入れている場合もある。例えば夕食3のアリと野菜の煮物の野菜は、子ども達が庭から集めた草が、アリと同量ほどを占めている。身近な庭の他に付近の林に入って取ってくる場合もある。空芯菜と言われる野菜は、現在では栽培されて市場で多量に売られているが、野生のものもかなりあり、水辺の近くで見かけることが多い。また、プノンペンにおいても明らかに野生のものを集めてきたと思われるものも運ばれている。この様な食料の調達方法は、ポルポト時代に食料生産が十分でなかったにもかかわらず、飢え死にが少なかった理由と考えられる。その他にもこれに関連したこととして以前に観察した事例として乾期の終わりの最初の雨には、水田でカニが捕れる。雨期にはカエルが捕れ、変態したばかりの1cm未満のものまで唐揚げにする。ゲンゴロウ、タガメなどかなりの昆虫を利用しており、ヘビやカメなども食用にしていることなども、飢えから逃れられた重要な要素であったと思われる。リは採集の方法からハキリアリの一種と思われるが、栄養としてよりも珍味としての意味合いが強いと思われる。一方最近食べたコウロギの仲間は、一晩に数キログラムから百キログラムほども取ることもあるらしく、明らかにタンパク源として一定の栄養を提供している。調理法も消化管を取るなどかなり高い技術を持っており、伝統的な方法が確立していることが伺える。また、羽を取るなど手数をかけてあることなどから、労力をかけるに値する価値を持っているのであろう。大型のクモについても、内臓は形が崩れない様に抜いてあり、調理に労力をかけていることが伺える。
 食事のマナーとして、客人や長老を優先する方法は、かつての日本と共通するものがある。アフリカに置いても、同様なマナーは尊重されており、社会の安定における基本的な方法と思われる。サルの社会でも、同所的に食べる場合には順序が決まっており、争いを少なくし安定させる方法が確立している。食事のマナーなどはこの様な人類以前からの方法の発展の結果と思われる。現在の日本の様に自己の主張が中心になり、マナーそのものが存在しなくなって来ていることは、社会の崩壊を示唆していよう。


クメール正月とお寺
 クメール正月では、お寺が重要な役割を持っている様に思われる。旧年と新年の切り替えは、4月14日正午であるという。
 最初の行事は15日の11時頃に始まった。朝から調理していた料理を持って全員でパコダに行った。4段重ねの弁当に料理が入れてあり、他にどんぶり2つに料理を持って行った。各寺には寺の本堂の他に高床式の集会場があり、大きいところでは500人程度は入れると思われる広間になっている。此処には前部中央に仏像があり、後方の脇には部屋が2つ程度あり、片側は調理場であり、他方は配膳が出来る場所である。持って行った料理は、大広間の一角で僧侶の前に差し出し、経を唱えて貰う。この間持参した全員が合唱して料理の前に並んでいる。これが済むと料理を持って配膳室に行き、並べられている100ほどもある大鉢の中で似た種類の料理の中に入れる。多少材料や色が異なっていても、彼らの通念で料理は仕分けされている。これは後ほど、僧侶に提供されると思われるが、僧侶は何時もごちゃ混ぜの味を食べているのだろうか。
 広間から外に出ると寺に関係する檀家の長老と思われる人々が数人居るところがあり、そこでお金の布施を行う。皆500リエルから2000リエルぐらいを布施している。代わりに線香を手渡され経を唱えて貰う。その後脇にある5つの砂山に線香をさして回る。砂の数ほども長生きするようにとの願いがあるという。夕食後に、寺に行く。古い寺で大きなテレビが集会の建物の廊下に設置されていて、皆外からそれを見ている。奥の建物では老人達が集まり、法座にいる長老らしき男の話を聞いている。僧も3人ほど聞いている。大きな山を動かすのも一鍬からと言った話だとキムさんが解説してくれる。車で近くの新しいパゴダに行く。庭に200人ぐらいの人がおり、20人30人ぐらいずつゲームをして遊んでいる。男女に分かれて歌の掛け合い、ハンカチ落とし(カンボジアではクローマを結んで尻尾を出し、落とされた人はこれで前を走る人を叩きながら回る)、古くからある正月のゲームなどで遊んでいる。爆竹も投げ込まれてにぎやかである。この様な集会は、古い寺では3日間、新しい寺では4日間続けられると言う。それぞれのパコダで決められているらしい。
 次の16日には、夕方16:30頃から寺廻りをした。最初の寺は、3―400人の人出でにぎわっていた。売店や簡易食堂が出て日本の祭りの様子である。道路まではみ出して通行もままならない。皆遊ぶのが主体の様で、特に寺にお参りしている様子はない。次の寺はかなり田んぼ中にあり近くに民家は少ない。大きなスピーカーが10ほどもセットされていて、大音響で音楽が流れている。来た人々はそれに合わせて踊りの輪に加わって行く。白い粉を人に付ける風習が行われており、水もかけられる。寺が集合場所で遊んでいるのであって、あまり寺には関心がない様に思われる。他にも寺を2カ所回ったが、いずれも同じような状況であった。
 最終日の17日には、10時頃4連式の弁当などに料理を入れ、他にもドンブリなどに料理を入れ寺に向かう。既にペンロン君の両親は正装して(上は白、下は黒の服装)寺におり、来た人の世話をしている。寺の役員の様だ。父親は集会場の前方の仏様の前で、皆から渡される布施などを受け取り線香を渡している。母親は後方の配膳室で、持ち込まれた料理を何処に置くか指示している。多くの鍋や大鉢が用意されており、その中に似た調理法の料理を入れて行く。
 集会場入り口の反対側の窓辺には、10個ほどもの座卓が並べられ、各宅には料理の盛られたどんぶりが15-6も並べられている。世話役の母親は多くの女性を指揮して、後から持ち込まれる料理をどの卓の器にも配っている。各家庭から統一無く持ち込まれたものであるから、例えば春雨サラダ様なものもの一つの器にはかなり色々のものが入っている。寺であるが、料理には肉類、魚類が使われている。
 間もなく修業僧達30人ほどがその卓に座る。老人が1人いる他は、30代が2-3人、後は皆若い人で、10代前半の子どももいる。各家庭の代表と思われる婦人が、卓の前に進み出て一つずつ器に触れると僧が向こう側から同じ器に手を触れ、何か二言三言唱える。許可を与えている様に見受けられる。それが済むと寺の総代(僧ではない)が、導師として経を唱え、後に続いて皆が合掌しながら唱和する。約5分間で終わる。その後僧達が30代の僧の後について約3分間経を唱える。その後僧達が食事をする。ほぼ食事が終わったところで、導師が経を唱え、皆が合掌してそれに続く。それでセレモニーは終わり、皆帰途につく。寺の僧達は、毎日経を読むことと乞食(こつじき:布施を受け歩く:托鉢)が主な修行内容の様である。日本の様な個人の内面を深める修行は無いように見受けられる。仏側に立って、庶民に戒を与えることが重要の様だ。
 一旦家に帰って昼食を取り、一休みしたところで15時頃再び寺に出かけて行く。寺では200人くらいが集まり、踊りやゲームに興じている。踊りはラジカセを持ち込んで、30-40人のグループで輪を作っている。男女の掛け合い、交互に入ってゲーム要素を持ったものなど様々な踊りがなされている。ペンロン君の家とキムちゃんの家は同じコンポントムにあるが、それぞれで踊りの仕様が異なると言う。庶民の寺への関わりを見ると、多くの正月行事が寺を中心に回っている。始まりの挨拶も終わりの挨拶も寺で行われる。年の初めの布施を行い、1年の無事を祈願している。正月の重要な遊びは、寺に集まって遊ぶことであり、人々の繋がりが寺によって保たれていると思われる。この他にも寺は庶民の感覚と深く結びついており、場所を説明するのにどこそこの寺の近くとか、東西で言われることが多い。子ども達も寺に付いて行くことは、楽しみであり、安心の基(悪いことが起こらない)であるようだ。日本では一般的には寺との結びつきは、現在では葬式・法事に限られている。カンボジアの庶民は、寺に行くことによって安心と楽しみを得ているように思われる。また日常の中でも深く関わっており、社会秩序の面で寺の果たしている役割は大きいと思われる。現在では崩れているが、多くの男子が少年から青年の一時期は寺で修行していたと言う。寺での修行が終わってこそ社会の一員として認められていた。国王さえも僧になって還俗している。従って多くの国民が寺の行事や内容について良く理解し親しみを持っていると思われる。しかし寺での修行は、日本の場合と異なっている可能性が高い。カンボジアでも現在は変わりつつあるが、最近まで高い知識を習得することが一つの目的であったようである。読経と托鉢が修業の中心であると思われる。日本では、現在の修行者の多くは、僧としての資格の取得にある。従って、読経や寺の行事を習得することに重きが置かれている。托鉢は、禅宗で行われる程度である。一方少数ではあるが修行者の中には、僧の資格とは関係なく道を求めて修行する一団がある。ひたすら座禅(禅宗)・念仏(時宗・真宗)・聴聞・問法(浄土真宗)などをし、悟りを得ることを目的とする。この様に日本には「極める」文化が底流にあり、茶道、華道、弓道、剣道などの基本になっている。一応出来るようになっても更に究極を求める文化は、仏教が大きな影響を与えている。カンボジアには、この様な道を究める文化は存在しないようである。多分小乗仏教(上座仏教:カンボジア)と大乗仏教(日本の仏教はいずれもこのグループにある)の相違があり、加えて自然環境の影響が推察される。現在までに聞いているところでは、カンボジアの仏教には、悟りは継承されていないように思われるこれらの点は、教育の中にも大きな相違となって現れている。彼らがものを知ると簡単に分かったと言い、更に理解を深めようとしないところは、まさにこの差の現れであろう。我々がなぜもう少し掘り下げてしようといないのだろうかと違和感を覚えるところである。これらの点は、文化的な相違であり個人的経験の変更よりも更に変え
ることの困難な深い問題である。


昼休みについて
 カンボジアでは、だいたい11時頃から昼休みになり、昼食を取る。これは朝が早いことに対応している。明るくなると働きだし、時間的決まりはない。私の滞在しているホテルの前のワットコー高等学校でも朝6時を過ぎると早くも生徒の姿を見ることが出来る。授業が始まるのは、6時半過ぎと思われる。この様な朝の習慣は、電気がない時代からの継続であろう。11時になればかなり腹も減ること請け合いである。更に食事の所でも述べたように、朝は十分な食事は準備していないで、簡単なもので済ませている。11時は昼にはやや早い始まりのように感じられるが、FOPでの観測に置いても11時頃には33℃程度にはなっているから、かなり合理性を持っていると思われる。かつてエジプトでも同じ経験をしたことがあり、農民は朝日が上がる前から働きだし、温度が上がる11時には、皆木陰に入ってのんびりと昼飯が始まり、夕方仕事を始めるのは、4時頃であった。昼飯と言ってもチャパティとナスの漬け物があるだけで、話しながらゆっくりとしている。ラクダや山羊が脇に座って木陰で食事をする風景は、王家の谷の墓の壁画にもあり、4000年を経て変わっていないことに感動した。慣れない私は、炎天下で座って調査をしていて、立った途端に意識がなくなったことがあった。暑さによって想像以上に体力を消耗しており、日常的に行うには自然環境に合った方法でなければならない。
 昼食はかなりゆっくりとたっぷりと食べて、その後は約2時間昼寝に当てられる。だいたい15時頃までするのが普通のようである。その後お茶を飲んだり話たりして、4時頃から仕事が始まる。カンボジアの気象庁のデータによると、午後3時頃に最高気温が記録されることが多い。このころまで休むのは、カンボジアの気候に合わせた生活の知恵と言える。弁当箱(積み重ね4段式の金属製)はかなり普及しているが、住宅と異なるところで商売をしている人以外は、ほとんど家に帰り家庭で昼食を取る。これは昼寝と深く関係していると思われる。
 家庭には、ハンモックが2-3枚あり、部屋の中でも吊って寝ている。寝てみると通風が良く、暑い中でも汗を感じなくて快適である。この様な生活の条件が、ハンモック利用を進めている。プノンペン市内でもあらゆる所でハンモックを見ることが出来る。路上の歩道の上、軒先、商店内、トラックの脇などあらゆる所を利用してハンモックが吊られる。昼寝の文化とハンモックは深く結びついていよう。
 この様な昼休みを長く取る習慣は、自然環境の結果として発達したカンボジアの文化であろう。とすれば個人的な経験を超えて継承されているものであり、変えるにはかなりのストレスが想定される。

正月でも働くことについて
 新年の切り替えは、今年は4月14日昼の12時であると言う。新年の感覚は日本とはかなり異なり、特別なことはない。二年参りのような風習もないし、大晦日の感覚もないらしい。ただし前日には、前述のように新年を迎えるパーティーを行う家庭もあるが、大部分の家庭では特別の行事はない。特別な行事としては、新年の2日目に当たる15日の昼に寺に布施の料理を持って行き、経を唱えて貰うことである。その他は特別のことはなく、14日、15日、16日共に皆働いている。正月だからと言って特別に休む気配はない。田舎であれば、学校、役所や会社は休んでいるが、市場も商店も農家も休息日にはなっていない。しかしながら、嫁に行った娘さんや都会に出ている子ども達が帰ってきて賑やかである。
 裕福な農家では、男の子は教育のために外に出し、長女が婿さんと一緒に両親と暮らしている。やがて独立したりするようではあるが、他の子ども達が出ている間、両親と家を守っているのは娘である。帰ってきた子ども達は特別に仕事を手伝うことはなさそうであるが、料理などは手伝っている。日本のようなお客様気分はない。
 正月には特別の遊びが幾つかあるらしく、家庭でも寺でも見かける。また夜遅くまでカードなどに打ち興じている。働くのとは別に遊びには正月気分がある。

子どもは何人欲しいか
 ある晩、食事の後の語らいで、一番上の姉さんの旦那さんが、現在3人男の子どもがいるが、女の子を欲しいのだがまた男の子だと困るしと言って悩んでいる。二番目の姉の所は女、男の2人で、もう一人ぐらい欲しいと言っている。この兄弟姉妹は、女が5人、男が3人の8人兄弟である。当時8人、10人は平均的子どもの数と思われる。しかし現在では、子どもの数は少なくなっており、3-4人程度が良いという。それと共に、親としては男女両方が欲しいのが通常らしい。
 結婚後、男性側がしばしば女性側の家に住み込んで、両親と住んでいることが多いカンボジアの田舎では、やはり女の子を一人は欲しいのかも知れない。それとは別に男女両性を育ててみたいのかも知れない。クメール正月に地方に行き、カンボジアの生活や文化に接することが出来た。記録したこと以外にも多くのことが印象に残っている。感じてきたことを、今後の教育援助に生かしたいと思っている。

金森正臣 KANAMORI, Masaomi
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クメール正月の記録

2003.4.21.
JICA短期専門家 生物 金森正臣


記録の対象期間:2003.4.13-17.
場所:コンポントム州 コンポントム市周辺他
旅行日程
4/13 9:30 ホテルにキムさんが迎えに来て出発。キムさんの妹、ペンロン君の弟、妹、他に1人。コンポンチャムの分かれ目まで約1時間30分。それから約30分で、キムさん(チャンセン君も友人である。夜のパーティーには、他にFOP時代の同級生が4人参加)の友達の家。挨拶。今夜はここに泊まることになるが、昼食は約1時間走って、チャンセン君の家でよばれる。午後戻り友人の家。クメール・ニューイヤーパーティ。
4/14 友人の家を出て、キムさんの家に。泊まる。
4/15 朝食後、ペンロン君の家へ。昼寝。寺を回る。
4/16 キムさんの家に移動。池の魚取り。夕方寺を回る。
4/17 ペンロン君の家に移動。寺に年始の行事に行く。昼寝。午後寺にゲームをしに行く。16:00頃からプノンペンに向かう。21:00にプノンペンに。

新年を迎えるパーティーについて主催者は、キムさんの友人で、高校の生物の先生。自宅では、英語の学習塾をしており、高校と同じような黒板と机、椅子がある。大型のトラックターを持っており、8枚のデスクプラウが付いていた。かなり裕福な家庭。両親がいる。父親は、サトーキビジュースを絞る屋台を持っており、17日に寄った時には営業から戻ってきた。
昼頃から、ステージがセットされ、大きなスピーカーが両側で20個ほども設置され、エレキギター2、シンセサイザー、ドラムなど奏者4人と歌手4人(内女性3人、細くて小柄のピチピチギャル2人、30代1人)の編成。大音響で演奏を続ける。ほとんど話は聞き取れない。彼ら自身もうるさいと言いながら、端に寄ったり、耳栓をしたりしている。とにかく音響で盛り上げる。夕方16時頃から朝の3時頃まではやっていた様だ。その間、1時間ごとぐらいにやや休みらしきものもあるが、ほとんど続いている。演奏者や歌手が夕食を取ったのは11時頃であった。その後再び開始された。
 パーティーの参加者は、主催者の関係者。各自お祝いを持ってきている様だ。知り合い同士を一つのテーブルに案内し、接待するのが主催者。来た者から順次食事や飲むことを始める。だいたい知り合いのグループメンバーは時間を打ち合わせて同じ時間に来ているようである。少し進むと、音楽に合わせてダンスが始まる。宴席の中央のテーブルを取り囲む様にして円になって踊る。踊りは数種類有る様だ。キムさんは1種類だけしか踊れないと言っていた。
 この宴席は、参加者、接待者、演奏者、料理担当人(外部から道具材料一式を手押し車で持ってきている)、主催者の生徒(手伝いをしている男女半々の15人ぐらい)、道路端から見学する者、間を走り回って飲み物の空き缶を集めるストリートチルドレン数人から成っている。
 それぞれはお互いをあまり意識すること無く、それぞれの役割を果たしている。空き缶などは、注ぎ終わるのを見ていて後ろから手を出す。客が来て新しいテーブル(1テーブルは6-10人)が始まると、料理担当人は、数種類の口取り(ソーセージ、ドライミートの焼いたもの、かまぼこ、カニかま、カシューナッツなど)、野菜炒め、焼き肉、トリ野菜炒め、魚のフライ、スープとご飯などを順次運ぶ。
 私は、近くを走り回っているストリートチルドレンが気になったが、他の参加者はほとんど気にせず、当たり前の様に振る舞っている。このことは、カンボジア社会では当然のこととして受け取られている様だ。即ち、地方であってもストリートチルドレンがいる。彼らは社会の中に認知されていて、一定の役割を担っている。このパーティーでは、足下に転がされる空き缶を片付ける役割を担い、彼らはアルミ缶をどこかに出してわずかな金銭を得る。片付けの責任と金銭を得る権利は、彼らに認められていると言って良い。
 一般的に、カンボジアでは、ストリートチルドレンの行動はレストラン内などでも認められており、花輪や花、靴磨き、新聞売りなどが行われている。
 道端からの見学者についても、特に招待するのでも排除するのでもなく両者の関係が成り立っている。
 宿泊したペンロン君の家では、手伝い人を2人置いていた。彼女らの食事は明らかに別であり、私と家族全員でする場合、他に客人があって客人と男性家族、女性家族が別々にする場合でも彼女ら2人は入らず、世話係、後片づけをした後に食事をしていた。
 この様な状態を考えると、カンボジア社会では、平等意識は乏しく、社会には異なる経済状態の者がおり、それぞれは他者を侵害せず、そのままの状態で共存する事を原則にしている様に受け取れる。インド社会におけるカースト制ほど分化していないが、有る意味で共通性を持つ、階層是認の社会であるように感じられる。日本社会の様な平等主義、イスラム社会のような持てる者は持たざる者に配分して当然と言ったのとは異なる社会通念があるように思われる。日本とカンボジアはその文化的基盤として仏教を取り入れている点で共通である。しかしながら全ての人が同じように救われるとする大乗仏教と僧侶は仏として特別の存在とする小乗仏教の世界観との相違と思われる。
 主催者の生徒である高校生が、手伝いにかり出されている点も日本社会の通念とは異なる。プライベートの英語教室の生徒か、高校での生徒かははっきりしないが、いずれにしても夜間12時過ぎまで手伝っていた。また次の朝も早くから、水汲み、掃除などを手伝っていた。自分の学生を私用に使う感覚も生徒を夜間まで使う感覚も日本社会の通念とは異なっているが、これがカンボジアの社会では普通のことと思われる。教師と生徒の関係は、かなり異なっている。行事・娯楽としての踊りと音楽正月を通して各地で踊りが行われており、様々な踊りの輪を観察する機会を得た。全て音楽に乗って、多数が円陣を作り踊る。最初誰かが踊り出すと、次々と加わって次第に円形になって行く。人数が多ければ、円は幾重にも重なる。一重の円であると男女が交互に入ることが多いが、円が複数になると男女が並んで踊ることもある。踊りは単純で、誰でも直ぐ入れるようではあるが、やはり上手い下手がある様である。この踊りは、参加することに意義がある様で、大部分の人は参加する。また新たに参加する人は休んでいる人を誘って踊りの輪に加わることが多い。男性が女性を誘うこともしばしば行われる。普段男性が女性を誘って行動することは少ないカンボジア社会の、男女交際の機会でも有ろう。踊り中も、意中の女性の近くで踊ろうとする男性をしばしば見かけた。単純で比較的個人の自由に任せたルーズな踊り方、集団性、出入りの自由さ等日本の盆踊りとの幾つかの共通性を見いだすことが出来る。
 音楽は、流行のクメールミュージックやジャズ調のものなど様々なものが演奏される。バンド奏者がリードし、歌手が歌い、延々と続けられる。全体の後半からは、飛び入りで歌う人があり、奏者はそれに合わせて演奏する。生物のチャンセンさんなどは、私が聞いてもかなりの音痴と思われ、音程リズムとも外れるが、歌うのが好きで何回も歌っていた。また踊るのが好きで、常に踊りの輪にも加わっていた。寺の場合には、踊りたいグループが、ラジカセを持ち込み、カセット音楽を流しながら、そのリズムに乗って踊る。寺で大きなスピーカーを10個ほども設置してあるところもあり、流される音楽に乗って踊っている。だいたい一つのグループは20-30人で、皆笑顔で和やかであり顔見知りの仲間の様である。いずれの場合にも、踊ることや歌うことを楽しむようになっている。1999年には、3月と11月であったため、クメール正月のカンボジアは明らかではないが、表情が明るくなり、楽しむことを目的にして生きている姿が伺える。熱帯の多くの人々は、成長が早く寿命も成長期間に比例するかのように短い。その短い期間を、楽しむために生きているように感じられる。カンボジアでも、今年に至って熱帯に共通する「楽しむ文化」が復活しているように思われる。この様に生活の中で楽しむ事を優先する文化は、先を考慮して努力を積む事を重要と考える日本の文化とは、学校に行く目的などでかなりの隔たりがあると思われる。

つづく
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