日本の現状の問題に関して 8  


日本の現状の問題に関して 8   金森正臣(2007.02.12.)

 自殺
 いじめによる自殺が後を絶たない。いじめる側もいじめられる側も悲惨な状況である。
 アメリカのFBIで自殺に関係する研究をしていた人が、自殺を3種類に分けている。第一は、確実に自殺するために、ピストル、飛び降りなど確実な方法を選ぶ。第二は、自殺する意思はないが、周囲に自分の状況を訴えるためにする場合には、死なない方法を選択する。リストカットなどはこの部類に属する。第三は、自分では自殺すると意識していないが、無意識が自殺を欲しており、危険な行為を繰り返しついには死に至る。暴走行為などの中には、この様な人がいる。
 
 これとは別に、自殺には、様々なメッセージが残されていることが多い。多くの自殺者は、自分のメッセージが伝わるように無意識が働いている。孤独で死ぬかと言うと必ずしもそうでは無い。
 例えば、電車に飛び込んだ人の履物が、線路脇に揃えて置いてあるのを見たことがある。また崖から飛び降りた人も、上に履物が揃えてあった。道路わきの林で自殺した人は、道路わきの木に目立つようにハンカチを結びつけ、そこを見ると当人が発見できるようにしていた。室内で死んだ人は、入り口のドアのガラスを割ってあった。いずれも、自分が死んだことを確実に知ってもうためのメッセージである。

 自殺者のメッセージは、伝えたい相手に最も効果的に効く様に仕組まれていることが多い。状況をたどっていて、驚くことがある。これは、家庭内暴力が、最も自分の障害になっていたと思われる相手に対して、向けられるのと同じである。外見や本人の言葉からは、なかなか類推できないし、本人も意識できていないが、無意識が最も良く感知している。

 自殺の場所や手段も、大きなメッセ-ジの一つである。場所は、伝えたい相手に最も効果的に伝えられる場所が選ばれる。学校でいじめられていながら、自殺する場所を家庭内にする子どもがいる。家族の皆に、もっと関心を持って接して欲しかったと思われる場合が多い。特に保護者に当てて、感謝の手紙などを残している場合には、表の意味と裏の意味は全く逆になる。いかにも感謝をしているように書いてあっても、最も苦しむのは手紙を突きつけられた保護者である。もっと自分に関心を持ってもらいたかったと言うメッセージである。この様なメッセージはなかなか保護者には、受け入れられない。そのために生涯に渡って苦しむことになる。なぜこの様に被害者に過酷なことを書くかと言えば、被害者も現実を直視して、その後の人生を立て直さなければ、苦しみが絶えないからである。
 不登校や家庭内暴力の保護者から意見を聞いていると、一生懸命に子どものために尽くしていることは伝わって来る。しかしそこには、自分の考えに縛られて、子どもの立場に立った目が欠けていることが多い。本来子どもは、別な人格であるから、別な人生を歩む。保護者の思っているのとは、別な価値観や成長過程を持っている。この不一致が子どもへの圧迫になっている。

 不登校・家庭内暴力・いじめ・自殺者等の保護者は、自分と子どもの関係について見直すことが難しい。だからこそ子どもが、身をもって訴えるしか方法が無い。保護者の自分自身の見直しが難しいのは、無意識の中のコンプレックスがなせる業である。無意識の中に「こだわり」があると、子どもとの関係の見直しが困難になる。見直しは、自分に都合の悪いことに直面することになる。多くは外部に問題を見つけて、内面の問題を避けようとする。しかしこれを乗り切らないと、人生の安心は得られない。しばしば私が、皆さんにキツイ要求をするのは、人生をより良く過ごして頂きたいからである。もちろん、そのままで人生を終えたからと言って、悪いとか良いとかの問題ではない。現実には、それぞれが過ごしてきた状態で、生きて行かなくてはならない。

 学校などが保護者に接する場合には、上の様な事情を理解していても、十分にチャンスを待たなければならない。通常物事が起こってから、数年を経ても内面の状況を伝えるに至らない場合が多い。状況が整ってこないと、相手の攻撃性を引き出すことになる。内面の問題に対処するには、心の整理ができてこないと難しい。人格の変容をする事態になるから、精神的エネルギーも並大抵ではない。またその人の育ちの過程の状況もあって、生涯そのことには触れないままに過ごす人の方が多い。学校の数年間の間に、改善されることは少ないと思っていた方が良い。学校は、できる事とできない事を見極める必要がある。できない不可能なことに大きな労力を払っていると、必要なことが行えない事態になる。特に、不登校やいじめ、自殺などでは、動揺することによって判断が適切でないことが多い。普段から自分の、内面を整理しておかないと、平常心は保てない。

 教育再生会議や文部科学省のいじめ対策会議などの内容が報道されているのを読むと、肝心の問題から逸れていることが多い。確かに机上の考えでは妥当なように思える点がある。いずれも対症療法的なことが多く、実際に子どもに接している立場からすると、他の人への言い訳でしかないことも感じられる。この様なことに振り回されると、疲労感が多くなり、問題の解決に向かわない。

 学校におけるいじめをなくすための対策も、空回りが多い。肝心なことは、子どもの状態を見る担当者の目である。質問紙で見つけ出すとか、本人や友人に聞いてみるといった類の調査では、見つけることは困難である。自分の無意識の中の捉われを少なくして、あるものがある様に見えるようにすることである。そうすれば、子どもの発しているサインを、見逃すことは少なくなる。人は賢いから、言葉でのやり取りでは、誤魔化す事が多いので不十分である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

第4回 正臣会のお知らせ

第4回 正臣会が行われます。
1 日 時:2007年2月17日(土) 13:00~16:30
2 会 場:安城市文化センター

詳細については以下のURLをご覧ください。

  http://blog.goo.ne.jp/kinken_ob/

           正臣会HP担当/伊藤
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の現状の問題に関して 7 

日本の現状の問題に関して 7   金森正臣(2007.02.11.)

 「いじめ」について
皆さんは、いじめと言う現象をどの様に捉えておられるであろうか。
 複雑な現象で、様々な捉え方がある。その捉え方によって、現象への理解も多様化する。ここに書くのは、私の思っている全体ではない。他の捉え方も持ってはいるが、皆さんとなるべく異なる部分を提示したい。それは、「いじめ」と言う現象の理解の一助になればと思うからである。様々な意見を皆で共有して、自分に合った解決策を見つけ出して頂きたい。皆さんのご意見も是非いろいろ交換して頂きたい。

 いじめは、昔からあった現象である。また、どこの社会にも存在する現象である。子どもが成長して、社会性を持つようになると、遊びの中には必ず「いじめ」が出現する。しかし、それが自殺者を生み出すような現象は、普通ではない。
どの様なものを指して「いじめ」と呼ぶかも、かなり難しい問題である。遊びと、いじめの境は、あいまいで不明確である。最近の日本では、本人が「いじめられている」と思えば、いじめであるといったような定義が行われている。更に、いじめる側を探し出して罰することが、正常化に繋がるように議論されているが、これは教育の崩壊につながる可能性が高い。先に書いた「喧嘩」が、社会性を獲得する上で重要なプログラムである様に、いじめも重要なプログラムである。全てを封じることは、子どもの正常な発達を阻害する。この点については、皆さん自身でいろいろとご思考願いたい。いじめの重要な役割も理解した上で、「いじめ」に対処する必要がある。

いじめを正確に定義することは困難である。子どもの成長に必要ないじめと自殺を招くようないじめは、外見上は区別ができない。

自殺を招くようないじめは、いじめる側もいじめられる側も共に地獄の生活である。いじめる側の無意識には、攻撃性が強いことが多い。親から無意識的・精神的に疎外されて育つと、自己肯定感が少なく、他人との比較によって自己の安定を保っていることが多い。この様な場合には、思春期に入る頃から、不安定感が大きくなる。自己が成長して大人になることへの不安感も増幅されてくる。対人関係・社会性に問題を抱えることになるから、不安感が増大すると思われる。この無意識の中の不安感を追い払うために、常にかなり強い刺激を求めている。小・中学生の不登校児が、昼夜逆転を起こす現象が頻繁にみられる。話を聴いてみると、自分が学校に行っていない不安感から、友人が行っている昼間は起きていられないことが多い。夜になると目が冴え、ゲームやパソコンの刺激で過ごす。更に強い刺激を求める場合には、攻撃性が前面に出ていじめることなどが行動化する。

 成育過程における親との関係の問題は、複雑で簡単には書くことができない。親の態度も様々であるし、子どもの生育状況のどの時、何を受けたかによっても違う。この過程で自己肯定感が成長する速度が異なり、様々な状況が出現する。子どもの受容能力の大きさの発達段階と受ける刺激の大きさによって、影響を受ける大きさが異なってくる。

 本題に戻ると、いじめの輪の中に居る子ども達の多くは、強い刺激を求めている。これは無意識の中の不安感に対抗するための手段と見ることができる。不安感が小さい或いは断続的であると、このいじめの輪から抜け出すことができる。しかし、不安感が大きいと常により強い刺激を求めて、この輪から抜け出すことができない。本人も常に抜け出したいと思っている側面もあるが、不安感に打ち勝つためには最も確実な方法だからであろう。また、精神的発達が悪い場合が多いので、様々な苦しい状況に対処する方法が無い。不安感から脱出するのは、なかなか苦しい状況が続くことが多い。暴走族やパチンコ狂・ギャンブル狂などにもこの様な状況がある。

 固定化したグループのいじめは、小学校の3-4年生から見られる。それまではグループが固定化していないか、特定の個人間の場合が多い。いじめを指揮するリーダーは、固定しているように見えるが、1-2年で入れ替わることが多い。いじめられる側は、もっと頻繁に入れ替わる。グループの誰がいついじめられるかは不明で、リーダー以外のメンバーは常に不安にさらされている。この刺激が、グループを構成する上で重要な役割を果たしている。リーダーも常に不安にさらされており、この刺激に依存して日常の生活が成り立っている。

 グループから抜け出す重要な要因として、親との関係も有る。表面的には上手く行っている様に見えたり、話したりしていても、親の関心が子どもから逸れていると、子どもは敏感に感じ取る。小学校の低学年で、親の財布から金を持ち出したり、外で盗みをしたりする子どもも多い。この時子どもは無意識の中で、親の関心の程度を測っている。だいたい親の財布から金を持ち出すのが先で、それでも親が気付かないでいると、外で盗みをして他人を巻き込んで親の関心を確認する。それでも親の関心が低いと、ずるずると盗みをして物を得る事に目的が移って行ってしまう。小学校の低学年と書いたが、発達の速度により、この現象が中学生になったり、高校生になったりしていることもある。
 この様に子ども達は、無意識の中で親との距離を測っていることが多い。親との距離が大きいと、子どもは親の機嫌を取りながら小さい時を過ごす。問題のなかった子どもが、突然大きな問題を起こすことも多いのは、この様な良い子を演じている状況を反映している。

 いじめ、いじめられの世界は、想像以上に悲惨である。刺激は受けることによって、次第に慣れてしまうのが人の特徴である。安心感はまるで無く、不安から抜け出すために更に強い刺激を求めてゆく。この連鎖が、死にまで行き着く事になる。この連鎖を断ち切れるのは、親だけである。学校でも一部は対処できるが、時間の引き延ばし程度のことが多い。この場合に学校では、加害者や保護者には話し合うことが容易だが、被害者の親にはアプローチが難しい。適切に対処しても、親が受け入れない場合も多い。

 いじめは、注意していれば様々なサインがある。早期に見つけるほど、連鎖を断ち切れる可能性は高い。子ども達のサインを見逃さないためには、自己の無意識の囚われを少なくして、あるものがある様に見える様に努力する必要がある。前回にも書いたが、これは自分の人生をより良くする方法でもある。見る目が確かになると、いじめが無くなった様に見えても、子どもの状況は変わっていないことも見えてくる。その後の指導も、教育の中では重要なことである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の現状の問題に関して 6

日本の現状の問題に関して 6   金森正臣(2007.01.29.)?

 子殺しや親殺しが頻繁に起きる状況は、異常である。私が研究していたネズミでも、密度が高くなり、環境許容量を超えて社会が保てなくなった場合に、このような異常が起こる。子どもがほとんど育たなくなり、個体群は崩壊に向かう。しかし社会の発達した、ヒトの場合とネズミの場合には、単純に比べられないものがある。

 ヒトがなぜ大きな社会を持てるようになったのかは、フランス・ドバールの『政治をするサル』と言うチンパンジーの研究所を読むと分かる。チンパンジーの研究は、チンパンジーが作る社会は、常に争いを含んでいるが、仲直りをする方法を手に入れたために社会が崩れないことを示している。争いを含む原因は、個体が生きている原理にある。各チンパンジーを生かしている原理は、各個体が太古以来持っている食や性に関する本能(現在では、性などの本能も学習による部分があることが分かってきている)による。各個体が持っている食や性に関する要求は、群れでたくさんの個体が暮らしていると、当然争いの元になる。だからいつも争いが起こるが、それを社会としてまとめているのは、仲直りをする方法を手に入れたかであると言うのが、ドバールの主張である。900万年ぐらい前には同じ起源を持つチンパンジーとヒトは、同じ方法を手に入れてから分かれてきたと考えられる。心理学者のユングが、「悪こそ力がある」と言っているのは、このことを考える上で重要である。社会が発達する前には、動物は個体ごとに異なる空間を持っていた。即ち孤立していた。集合したから社会である。ユングは、「それぞれヒトは社会の中に出るときには、社会に対する仮面(ペルソナ:劇で使うところの仮面)をかぶっている」と言った。自分の本能的要求を前面に押し出さずに、社会の破綻する事を避けていることを指している。

 そもそも、善と悪とは何者なのか。皆さんは明快な答えを持っているだろうか。自分の基準で考えている人が多いのではなかろうか。孤立して生きている時は、善悪は存在しない。全ては自己責任であって、何をしようと責任と結果は個人に帰する。ところが、個体が集まると善悪が生じ、社会が崩壊する行動が悪であり、社会がまとまる方向が全である。従って、個体を維持している食や性の太古からある本能の要求は、社会的には悪に属し、それを無いかのように振舞う或いは他に譲ることが善になる。あまり譲りすぎると個体の維持が困難になるし、要求し過ぎると争いが絶えない。困難な選択を迫られるところとなる。人生は難しい!この点をユングは、意識してか、しないでか明らかではないが、『悪こそ力がある』と言ったのであろう。

 さて前置きの説明が長くなったが、皆さんは子ども達の争いや喧嘩をどのように見ているであろうか。成長段階にも寄るが、小学2年生前の争いは、仲直りをする方法を手に入れる重要な訓練期間である。この期間十分な喧嘩の機会が与えられていないと、仲直りの方法が手に入らない。手加減やしっぺ返しの程度を理解するのも、この時期と思われる。以降は、性ホルモンの動きなどが始まり、異性を意識し始めるため初歩の手段が獲得できなくなる。

 このような子どもの成長と身体的特性、社会性の発達などについて、もっと総合的に理解を進める必要がある。教育学や心理学は、人間に限定しすぎるため、太古の昔から持っている人間の特性について理解が進んでいないように思われる。動物と比較してみると、乗り越えられるものと、乗り越えられない大きな壁がある事項との理解が進む。また動物を観察していると、学習する順番と成長の段階が限定されているものもあることも理解される。もちろん人間は、学習能力が高い動物であるから、他の動物とは違って時期がずれても再学習が可能な点も多い。

 性ホルモンの動き出す前の子どもの喧嘩は、長続きしない。1-2時間或いは数日すると仲直りができている。遊びたい方が先に立つ。ここでも時間の経過は重要な役割を持っており、時間が経つと興奮が収まり、仲直りの方法を考え始める。皆さんは、この様な経験があるだろうか。私は小さなころ、遊び仲間に幾つかのグループがあった。それぞれルールが異なり、また自分の入りたい要求の強さも異なった。それぞれに応じて、対応方法を変えていた。様々な手段を手に入れることによって、以降の社会生活に様々な対応ができるようになっている。

 人は性ホルモンが動き始めてから、完成に至るまでに数年間を要する。他の動物ではこの様な長期間の例は無い。これは社会が大きくなり、生殖能力を持った多数の個体が集合しているためと思われる。争いを避けるために、性に関する手続きが複雑になり、たくさんの事項を学習しなければならないたであろう。
性に関する学習は、ホルモンの動き出す前から始まる。最初は、異性との性器の異なりに関心を持つ。その後ホルモンの動き出す前後に、スカートめくりや、物隠しをする。決して関心の無い相手には行わない。直ぐに叩いたり触ったりするのもこの頃である。直接的手段に訴えるので、相手からは嫌われる。次第に相手を理解して、相手に嫌われない関心の示し方を理解してゆく。さらには交換日記や付文等を通して、相手の意思の確認方法を手に入れる。

 現在では、男の子のスカートめくりや物隠しは、異常な行動として叱られたりする。こうなると次の手段は手に入らなくなる。高校生や大学生の行動を見ていると、社会的な性に関する手続きをほとんど学んできていない。しかしながら、年齢が来ると性ホルモンは動き出す。これは遺伝子に組み込まれている情報で、身体的に異常が起こらない限り、発現する。性ホルモンの量が増えると当然性的要求が高まる。その結果、直接的に性行動に走り、ほとんど相手の人格を見ていない。この結果離婚も多くなって居ると思われる。また相手の人格を見ていない結婚は、相性が合うことは少ない。従って家庭生活は困難を極め、子どもへの配慮も欠ける。この様な家庭が増えた結果も、子どもの成長を阻害している要因であろう。前回に書いた、社会性の未発達も相手の人格を見る上で阻害の相乗効果を高めている。

 家庭が上手く行っていないと、外部には仲良い夫婦を演じようとする。また立派な夫婦を演じようとする。夫婦間はそれでよいかもしれないが、子どもは悲惨である。異常な行動に走った子どもの家庭の新聞報道などを注意深く読むと、この様なことも読み取れることが多い。

 家庭を持っている皆さんは、如何であろうか。他人事では無く、自分の家庭の幸福を築くのは自分自身である。そのためには、心の中のこだわりを知り、時間をかけて改善してゆくしかない。それが人生の満足感を高めるための重要な方法である。方法は様々にあるが、自分に適したものを探し出すのもなかなか大変な仕事である
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の現状の問題に関して 5

日本の現状の問題に関して 5   金森正臣(2007.01.25.)

 心の貧しさを計るもう一つの尺度は、価値判断の単純化であろう。人は自分の心の中でも単純ではない。例えば誰かを好きになったとしても、好きな部分だけであるはずがない。嫌いな部分も存在する。

 しかしながら若い時には、思考が単純で、好きな面だけを見て、嫌いな面は見ないようにしている。だからこそ恋愛も成立するのである。年齢を重ねると、次第に様々な面が見えてきて、なかなか単純ではないことに気が付く。ところが最近は年齢を重ねても、なかなか成長が見られない大人も増えている。これは価値判断の基準が様々であることに気が付かず、心が成長しないことに因ると思われる例が多い。2-3言葉を交わしてみると、その単純さに驚くことがある。

 心の中に自己が育っていないと、不安感から何かに頼りたがる傾向が強い。勢い何かの基準に頼って自分の行動を決めている。非常に意志が強いように見せかけているが、もろさは歴然である。例えば自分は曲がったことは嫌いだから、しないと言うような特徴を作っている。もちろん曲がったことはしない方が良いのであるが、本当に正しいことだけができるはずもないのであって、思考が単純だから本人が曲がっていないと思っているだけのことが多い。チョット基準を変えてみると大曲がりである。その事に考えが及ばない。この様な判断基準に立っていると、自己の向上はきわめて難しい。自分を振り返ることができないし、他との比較ができない。

 心の中に自己が育っていないという定義は、一見難しい。しかし割合分かり易い部分もある。自己と他者の関係がきちんと心の中で整理できているかが、一つの目安になる。自分が家族や社会の中で、肯定的に自己認識できているか、できていないかである。自分が家族や社会の中で、居る位置が認められていると感じている人は、自己肯定感が安定している。ところがこの関係に自分の中で不安感があると、自分の中に何かの基準を作らないと様々な決定が迷って出来なくなる。だから何か分かり易い、納得(或いは説明)できる基準を持たざるをえない。

 この様な状態に陥っている大人も子どもも、周囲との関係に大きな困難がある。価値が単純化しているため、様々な状況に、一つ一つしっくり行かない気分を持っている。もう一つは、周囲の評価が気になる点である。何時も周囲の評価を気にするためかなり疲労する。

 皆さんは、如何であろうか。他人や上司などと意見が違った時に、どの様な思考過程が生じるであろうか。それが自己診断の材料になる。自分を向上させるには、自己診断が適切に出来ないと難しい。

 さて色々書いたが、どれが良くてどれが悪いと言うことではない。誰もその状態で生きて行かなければならないのだから。接する時に相手の状況を色々理解していると、かなり気分的に楽になる。また自分がするべきことと、出来ないことがハッキリする。出来ないことがハッキリして接していると、余分なことをしないので相手も楽である。この様な関係では、互に持つ気分は似ている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )