イチジク

イチジク  2019.09.23.

 

大好きなイチジクを、安城市で先週沢山頂いた。

私が5歳ぐらいから暮らした長野県の村では、イチジクはほとんど見かけることが無かった。標高が750メートルほどもあり、当時は稲作の限界に近く(現在は十分に生育する寒冷に適した品種が沢山開発されて居る)、寒すぎたのだと思われる。木も見かけることはなく、アダムとイヴのイチジクの葉も、あまり実感は持てなかった。

 

始めて食べたのは大学生になって、東京に出てからで、その透明感のある甘さに魅了された。その後アフリカでチンパンジーの糞の中に、沢山の種類のイチジクの種があり、大小さまざまな実があることも判明した。小は直径12センチ(アヅキくらい)、大はピンポン玉ぐらいまでいろいろある。果物の付き方もいろいろで、ピンポン玉大の果実は、幹に直接ついて見事であるが、実ったものはすべてサルの餌で、わらわらは落ちているものを味見出来る程度であった。木も日本では想像できない大きさで、直径50センチ以上にもなり、高さも20メートルぐらいにはなる。熟するのもかなりの時間差があり、いろいろなサルが入れ代わり立ち代わり来て食べる。

エジプトのルクソールの王家の谷の壁画には、ブドウとイチジクを神に捧げる絵があり、昔から高貴な果物であったことを知ることが出来る。現在のエジプトでは、乾燥したイチジクが固められて売られており、なかなか歯が立たない。トルコでは堅いものもあったが、柔らかな乾燥イチジクもあり、なかなか美味しかった。

カンボジアでもアフリカと同じタイプのピンポン玉くらいのイチジクを見かけることがあった。沢山なっていて、熟したのを食べて見たが、現在の品種改良されたような美味しい味ではなかった。

 

安城から頂いたイチジクは、毎食後に1―2個食べるのが楽しみである。日本はいいなー。

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ヒトの家畜化  domestication

ヒトの家畜化  domestication

 

自殺、いじめ、虐待、引きこもり、すぐに切れるなどの問題点の理解に向けて

 

ヒトは動物から進化し、もっとも複雑で大きな社会を作るようになった。このために成長の過程で、様々なことを学習するようになった。

 

2019.07.13.に書いたブログの中で、40年前に大阪で感じたことを最後に書いた。これは人の家畜化について考えていたことである。

ヒトは動物的な原則から逃れることはできない部分を持っている。例えば4足であり、指は5本である。これは哺乳類以前から引き継ぐ形質で、変えることはできない。同じように、行動にも人以前から引き継いでいる部分があり、変えることはできない部分がある。しかしながら、ヒトがあまりにも複雑な社会を作ってきたために、まるでヒトだけ動物から離れているかのような錯覚を起こしている場合が多い。

 

ヒトのDNA上の情報は、完成したものではあるが、そのままで使えるようにはなっていない。どのように使えるようにするのかが重要な問題である。しかし多くの教育に関わる人々は、そのような意識を持っていない。成長とともに出現するDNA上のきっかけが、社会適応上重要な役割を果たしている。しかし現在の多くの人々は、教えることによって社会適応が出来ていると考えている。これは成長の過程を理解すれば、大きな誤りであることに気が付く。

 

経団連が724日の会合で、大学などと組んで人材育成をするという発表があった。これは教育を専門としない人々の集団であるから、とりあえず自分のところに必要とする人材をより効率的に育成しようとするには有効な方法かもしれない。しかし日本全体の人材育成から見たら、将来必ず見落としてはならない部分を見落としている。

 

ヒトの成長の絡んだ社会順応の過程は、複雑でいろいろな要因を含んでいる。現在の人々が信じている西洋的な科学の二元対立の考えでは理解できない部分がある。空間的には立体的の3次元の世界であり、時間的には4次元の世界に属する。

 

これから時々にこれらの問題を述べてゆきたいと考えている。

 

年を取ると体力がなくなり、夏の暑さに負けてゴロゴロしていることが多くなった。考えは出て来るけれども、まとめるのが面倒でなんとなく何もまとまらない。困ったものではあるが、のんびり楽しんでいられるのも年寄りの特権かもしれない。

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