マルクスの評価 

マルクスの評価   2019.10.30.

 

今朝の朝日新聞の記事に、大阪市立大学の準教授の話として、環境問題とマルクスの関係が論じられていた。

 

私は30代の初めに(今から50年ほど前)、動物の社会の構成を考えていた時に、飢えをしのぐための貯えとその発展としての貯蓄、それが権力に結び付いたヒト社会を考えていた。その頃にマルクスを読んで、同じことを考えているのだと理解した。その後40代になってユングやシュタイナーなどを学ぶうちに、マルクスの考えた社会は、ヒトの社会の重要な部分が抜けていることに気が付いた。ユングの言葉に「悪こそ力がある」と言う一説がある。社会を持つ以前の単独で生きる社会には「善」や「悪」はなく全ては個体の責任である。ところが群れを成す(即ち社会)ようになると、群れを混乱させる行動は悪になり、協調することが善になる。この悪は、エサを求める行動であったり、異性を求める行動であったりする本能に属する生きるための力である。だからユングは、「悪こそ力がある」と言ったのだと思われる。マルクスは、この点を見落としていると思われる。

 

マルクスは、経済学の立場として資本主義の欠点を読み解き、次の社会としての理論を組み立てた。その点では先駆的であるが、人間の研究において欠点があり、マルクス・レーニン主義が成功することはなかった。単に共産主義のゆがみの面もあるが、人間への理解が少なかった点も大きい。マルクスが理想とした社会の先に別の世界があるべきであるが、まだ誰もその点については言及していない。今後の課題であろう。

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緒方貞子さんの訃報

緒方貞子さんの訃報    2019.10.29.

 

緒方貞子さんの訃報が流れている。

 

最初に緒方さんの業績に驚いたのは、1998年ごろだったように覚えている。まだ国連の高等弁務官の現役時代。タンザニアで調査していて、ザイール難民の事務所を訪れた時であった。タンザニアの奥地、タンガニーカ湖の岸にあるキゴマに事務所があった。当時ザイール難民の25万人、10万人ぐらいのキャンプがタンザニアにあった。調査地の近くにも難民キャンプがあり、ザイール人はサルを捕獲して食べるため(タンザニア人は食べない)、各地に罠があって危険で交渉に行った。最初出てきた事務所のアフリカ人(多分タンザニア人)はそっけなかったが、後から出てきたイギリス人は、日本人と分かると態度が変わり、奥の事務室に通されて丁寧な名説明を受けた。部屋には緒方さん写真があって、彼女は皆の希望だと話していた。

 

その後2001年ごろだったと思うが、カンボジアのプロジェクトでJICAの総裁であった緒方さんとお話しした。JICAは、義務教育の支援が基本であるために、なぜ高等教育の支援をするのかと質問された。調査段階から関わったのは私だけであったので、いろいろ説明した。先生の教育が出来ていないためにレベルが低く、小学校の教育が崩れていること、高等師範学校の支援は、地方の教員養成学校のレベルアップにつながり、義務教育の支援に必要であることを話した覚えがある。また高等師範学校の教員のレベルについても、いろいろ説明したような気がする。

 

その後東京でも一度お見かけしたが、話はした覚えはない。

 

誰にでも来るべきことが来たのであるが、何か寂しい。

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ヒトの家畜化  5 ヒトの家畜化と精神的耐性の問題

ヒトの家畜化  5 ヒトの家畜化と精神的耐性の問題

 

成長の過程で、自然に任されて多くの喧嘩をすることは、多くの仲直りの訓練でもあることを前回述べた。

 

この仲直りを個人の成長の内面から見ると、別な側面がある。極小さい時の仲直りは、単純に忘れて仲直りすることが多い。これはまだ時間的軸の認識が弱く、十分に3次元的、立体的に捉えられていないためと思われる。少し成長してくると自我に目覚めると同時に、自我を相手の要求に合わせる努力しなければ、仲直りは成立しない。ここに自己の要求に対する、我慢をする場面が登場する。

 

現在の成長過程では、喧嘩をしないために自我が我慢することが少ない。我慢は、繰り返しすることによって次第にその強さを増すことが出来る。如何に先生から我慢するように教えられても、多くの経験を積まないと我慢力は成長できない。

私は現役時代に、三人姉妹の真ん中を持つ機会が何回かあった。かなりの特徴があり、いろいろ勉強になった。最初に気が付いたのは、彼女らが硬いフランスパンの端の硬い部分を好むことであった。聞いてみると、親から叱られたときにこの硬い部分をかじりながら我慢していたと言う。姉との喧嘩では、小さいくせにと言われ、妹との喧嘩ではお姉さんなのにと言われ、板挟みになることが多いようだ。この様にして出来上がった自我を我慢する耐性は、他の学生と異なっており、自立性の強さ、自己決定力などに優れている。また周囲からあまり支持が無くとも、自分の正しいと思ったことに進む傾向が強い。

 

現在の社会では、大人の監視が強すぎて、子どもの自然に起こる喧嘩が制限され過ぎる。この家畜を管理するような子ども社会は、子どもの自然の発達を明らかに阻害している。

 

今回の神戸の小学校のいじめ教員の行動を見ても、明らかに悪いと理解していながら、自己主張の快楽に負けて、正しい方向に進む心を制御できていない。テレビでは、力のある先生と言う表現が用いられているが、言葉の使い方の間違えである。これは明らかに力の使い方の方向性が異なっていて、自分の歪んだ人格に同調する仲間を増やし(類は友を呼ぶと言う日本の諺がある。同じ歪んだ人格を持ったものは集まりやすい)、少数の人々を支配しているだけである。とても子どもへの指導力で、力があるとは思われない。この様な人間関係の様を、同じ職場に居ながら察知できない、元校長や現校長の観察力の無さが、現在の学校の問題を示している。前校長の被害教員とのやり取りの状況を伝えるテレビは、顔を映さなかったが、手の動きが放映された。明らかに動揺しており、自分の問題を隠そうとするときの人間の動きである。

 

長い時間をかけて変化してきた遺伝子上の能力を、比較的短時間で発達できないような環境を作ってしまった現代社会は、このことに気が付かないと崩壊に向かっていると言える。

 

学校での先生仲間の意見の違いからトラブルは、どこの学校にも存在する。これは学校ばかりではなく、多くの職場で起こる問題である。その程度が周囲に影響を与えない程度に収めているのが、群れをなした動物の共生の社会である。

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ヒトの家畜化  4 ヒトの家畜化と最近話題の教育問題の関係

ヒトの家畜化  4 ヒトの家畜化と最近話題の教育問題の関係

 

最近の小学校で、先生同士のいじめが問題になっている。驚いたことには前から起こっていたのに、前校長がそれを認識していなかったことである。人間関係は、いろいろの動作や仕草に現れ、隠しようが無いものである。複数年にわたって同じ職場で仕事をしていながら、感じられていなかったことは、かなりの感覚の鈍さであると思われる。多分言葉にだけ頼ることによる結果であろう。言い訳は報告が無かったと言うことになる。

 

私は40年ほど前に教育大学に赴任した。大学では学生が教育実習を行う学校に、教官が挨拶に行き、研究授業などを観察することになっていた。ある教育実習生の学校で見た出来事が非常に強く印象に残っている。約40年前のことである。

教育実習生の研究授業で、3年生ぐらいの子どもの喧嘩が起こった。体育の授業のゲームのようなグループ活動で、メンバー間の対立が起こり喧嘩になった。学生はやや慌てていたが、担任は落ち着いてみていた。子どもは一時期泣いたりしていたが大きな問題にはならず、授業が終わった。校長室で休んでいた時に、校長が先程の事件に触れ、担任はこれだから(左腕を叩きながら、教職組合員であることを示し)、学級経営が出来ていないと非難していた。

驚いたのは校長の観察力がほとんど無いこと、子どもの成長の過程を理解していないこと、さらに思考が教育委員会に向いていることであった。

校長の観察力が無い点は、子どもたちの争いが危険ではないし、その後仲直りが出来る程度のことであることを観察していない点である。子どもの成長を理解していないことについては、喧嘩によって子どもたちがどのように成長するかをほとんど理解できていない点である。また私に向かって学級経営が出来ていないと言ったことは、喧嘩が起こるような学級経営では、教育委員会の評価が落ちると思っている点である。更に組合員活動が、学級経営に影響していると何の根拠もなく断じる、非理論的な思考である。一般にこの様に教育委員会に忖度する教員は、覚えがめでたく出世コースに乗りやすい。

 

子どもは、喧嘩をして、仲直りをする手段を獲得する。これが将来の人間関係に大きな影響を持つ。これは小学校から始まることではなく、幼稚園以前から始まる重要な点である。現在では幼稚園でも、ほとんど殴り合いのけんかなどはさせてもらえない。幼稚園児のこぶしを握ってみると、まだ指の関節が十分に骨化しておらず柔らかい。相手を殴ってもほとんど傷つくことはない。小学校2年生ぐらいになると拳も硬くなり力もついてきて、多少相手を傷つけることになる。自然に放置されている子どもたちは、幼少期は直接的に戦う喧嘩をし、次第に体の闘争は影を潜め、言葉の喧嘩になって行く。現代の日本の社会では、この成長の過程を大人たちが全て奪っている。このため喧嘩の後の仲直りの中で相手の状況を観察し、人間関係の微妙な表現の変化を観察し獲得して行くことがほとんどできない。この様な経験の少ない人間は、人の行動や仕草の変化を十分に読み取ることが出来ない。これもヒトの家畜化の一つである。

上で問題にしている神戸の校長先生も、いじめ、いじめられている先生も、この様な環境で成長してきて、ほとんど言葉以外のコミュニケーションが取れない状況にあると思われる。様々な情報が含まれている行動や感情の変化を、読み取る能力が退化している。この様に能力の退化した人間によって行われる教育は、今後問題を更に大きくしてゆくことであろう。しかし文部科学省も教育関係者も、この様な基本的事項に気が付いている人はいない。

私は言葉の通じない多部族社会の中で調査をすることが多かった。言葉の通じない時には、相手の状況を見ることとこそが、安全を確保する唯一の方法である。

 

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ヒトの家畜化  3

ヒトの家畜化  3

 

ヒトの体は、意外に簡単に環境によって変化することがある。

 

例えば、身長の成長は、栄養によって大きく変化する。戦後すぐの6年生ぐらいの身長と約20年たったころの身長では10センチほども異なる。成人してもこの差はあまり変わっていない。これは食料難であった戦中・戦後の子どもたちは、遺伝子上に乘っている能力を十分に発揮するだけの栄養が取れず、時間だけが経過した結果である。その後成長の終わりごろに少し栄養が回復しても、十分に成長できる時間は存在しない。成長できる時間には限界があり、ある程度性的に成熟すると成長は止まる。

現在の子どもたちは栄養的な環境には恵まれており、遺伝子が持っている能力を十分に発揮していると思われる。一方、運動能力は必ずしも栄養環境だけに左右されず、如何に運動を繰り返すかに関係するから、体格の向上と一致しない。これらのことは文部科学省の統計を見て頂ければ、十分に理解できる。

 

最近の子どもたちで、歯列矯正を行っているのを見かけることが多い。これは矯正技術が進化していることもあるが、歯列を支えるあごの骨が短くなっていることと関係がある。骨はカルシュウムからできており、カルシュウムイオンは、筋肉の遠心と近心(筋肉の心臓に遠い部分と近い部分)の間に生じる電位差によって移動し骨に沈着する。最近の食物は、柔らかく食べやすくできており、子どもたちが沢山かむことが減っている。このため顎の成長に必要なカルシュウムが、十分に届いていないと思われる。以前に医学部にいたころに、骨折した部位の脇の筋肉に弱電流を流すと、2割以上早く骨折が回復する実験をしたことがある。最近の子どもたちは、硬いものを頑張って食べる習慣が無く、スナック菓子などを好む傾向にある。

ヒトとは異なるが、イノシシがブタに進化した過程を見るとヒトに飼育されるようになって、1万年程度で急激にあごの形が変化し、鼻が短くなり、歯数も減ってきている。

 

ヒトも自分の改変した環境によって、意外に家畜化が進んでいる。

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ヒトの家畜化  2

ヒトの家畜化  2

 

ヒトの家畜化は、皆さんの中に起こっていることであるが、ほとんどの方の自覚が無い。

簡単な事例を挙げて、ご自身の中を観察して頂くのが、最も分かり易い。

 

皆さんは、火をどの程度扱えるであろうか。戦中や戦後すぐの人々は、薪や炭などを主に使っていたから、いろいろな火の扱い方に慣れている。私なども、小学校に上がるころから風呂の火焚きは分担になっていて、薪の準備から焚くことまで行っていた。更に学生時代に山岳部に居たので、雨の中でも雪の上でも火を焚くことには慣れている。当時はほとんど現地で調達した薪を焚いていたから、薪の調達まで含めて慣れたものである。この体にしみこんだ技術は、アフリカのキャンプでも大いに役にたった。従って現在でも、いつでも使える。テレビで災害時の対応方法などを心配しているが、現在住んでいるところは少し田舎であるためにあまり心配していない。ガスが無くとも電機が無くとも、生きることにほとんど不安はない。

 

ところが中学生のキャンプなどに行ってみると、先生も生徒も十分に火を焚けない人が多い。大学生を中学生のキャンプに連れて行っても、中学生に指導ができない学生が多い。

ヒトは何十万年もの間、火を使うことによって他の動物より優れた立場を得てきた。アフリカでも電気もガスもない社会に生きている人々は、今でも火の扱い方に十分に優れている。原野の中でキャンプをしているときには、焚火はライオンやヒョウなどの肉食動物から身を守ってくれる。

日本人は、戦後の70年ぐらいの間に、電気やガスの発達により、火を扱う技術をすっかり消失してしまっている。これはヒトが作った環境によって、ヒト自身を家畜化した結果であろう。

 

他にも、スマートフォンなどの発達により、コミュニケーション能力が著しく退化してきている。友人の京都大の先生が、同じ部屋にいても学生が直接話さず、インターネットで書いていると言って嘆いたのは、30年ほども以前であろうか。現在では家族が同じ部屋にいても、ほとんど会話が無く、各自がスマートフォンをいじっていると言う。これでは従来人が持っていた多くの情報を伝えていた会話は、成立しなくなってきている。

 

皆さんはこのような経験をお持ちではないであろうか。これが、従来持っていた能力を、ヒト自身の環境の改変によって起こった能力の低下である。ヒトの家畜化のある部分である。

 

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