カンボジアの交通事情 6 ツクツク

カンボジアから   金森正臣(2006.1.31.)

カンボジアの交通事情 6 ツクツク

写真:カンボジアのツクツク。ツクツクはもともとタイで呼ばれている名前。オートバイにリヤカーを付けて引いた様な乗り物。多少乗り心地がよい様に改良されている。主に外国人相手の商売の様だ。

 カンボジアの首都プノンペンでは、3年ほど前にはツクツクは禁止されていると聞いていた。シェムリアップなどの観光地では、使われていたが、プノンペンでは見かけなかった。ところが、最近ツクツクの数が急増している。
 特に外国人が多い安ホテル(失礼。安ホテルと言っても20ドル~50ドルはカンボジアではかなり立派なホテル。日本のビジネスホテルよりは部屋も広く、綺麗で多くはツイン。シングルで使うとこの値段)の前で待機するのが多い。高級ホテル(100ドル程度)になると、ツクツクよりもタクシーが使われるので、待ってもあまり稼ぎにならないのであろう。
 話はそれるが、カンボジアでのゲストハウスは、3ドル、5ドル程度が多い。クーラーがなかったり、温水が出なかったりするが、特に問題はない。地方に出た時にはこの程度の宿を良く使う。

 ツクツクの料金はどの程度か知らないが、シェムリアップで使った時には、モトとさほど変わらない値段であった。でも、外国人だと直ぐに吹っかけて来るから、いくらぐらい要求しているか分からない。先日も、モトで2000リエルあれば十分なところを、2ドル(約4倍)と言ってきたので、使わないことにして断ると、結局2000リエルでOKした。これでもカンボジア人に比べると、十分な料金を払っていると思う。料金体系がないから、交渉次第のところもあるけれども、だいたいの目安はある。モトの様に、流しでほとんど二度と顔を合わせない商売と、プサー(市場)など店を出している場合とは、吹っかけ方が違う。外国人の観光客だと思うと吹っかけて来る商売人もいるが、正直ベースで値段を言うおばさんもいる。この様な時には、値切らない様にしているし、2度目以降には顔を覚えていて、おまけが付いたりする。何回も行く店は、果物などの商品も良い物をきちんと選んでくれる。やはり商売をするには信頼が大事だろう。

 ツクツクは、モトよりも安全に3-4人が乗れるので、結構人気が出てきている。シクロよりは早いし、遠くまで行くことができる。トランクの様な荷物を積んで、空港まで3人ぐらいで行くには、最適。タクシーより時間は少し余分にかかる。しかし半額ぐらいであるし、町の景色もゆっくり見られる。何よりもあちこちのホテルの前に溜まり場があるので、つかまえやすい。

 ツクツクには、オートバイの後ろにリヤカーを引かせただけの物と、オートバイの後部を切断して、リヤカーを溶接した3輪車状態の物とがある。オートバイを切断して、リヤカーの車軸に歯車を付け、オートバイからテェエンで繋いである。なかなかな技術で作り上げる。実際の物に向かうとこれだけの技術がありながら、まだ自転車を生産する工場を作る技術には至っていない。教育のレベルが低いことに問題があって、基礎的理解がないから、技術を系統的に整理し、組み立てることができない。ここがカンボジアの教育の問題点である。
 多くの政府要人が、技術立国、工業化を目指して、先進国の様になることを目指しているが、この様な教育における問題点の現実は理解できていない。教育の何処にどの様な問題があって、技術を理解できないのかが分かる人がいない。隣国のベトナムのレベルに追いつくには20~30年かかり、追いついた時には既に相手は更に先に進んでいることが、理解できない。タイは更に進んでいるから、競争にはならない。対症療法の能力は高いから、能力が低いわけではない。理解できない勉強を詰め込み、使えないところに問題があるのだが!
 大学や高校の先生が、秤が使えなかったり、物差しが使えなかったり、グラフが書けないまま、教育が継続されているところに問題があるのだ。根は深い。

 だからこそ、手助けを必要とされているのだが、先は遠い!


 今日カンボジアを発ち明日の朝には、日本に帰ります。IT技術に乗り遅れている私は、多分インターネットの接続に手間取り2-3日休業します。またお会いしましょう。
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カンボジアのお正月 1

カンボジアから   金森正臣(2006.01.30.)

カンボジアのお正月 1

写真:中華正月の玄関の飾り。中華系の人達がする様であるが、プノンペンではそれほど目立たない。塀の中に玄関がある家の飾りは見られない。でも沢山の人達が出入りしているから、かなり盛大にやっている様だ。中央にぐるぐる回る蚊取り線香の様な線香が有るのが気になる。ドアに付けてある飾りは、昨年の物を28日に燃やしていた。

 カンボジアでは、正月が何回もある。日本でも新暦と旧暦で祝うところもあるが、カンボジアでは少なくとも3回はお祝いする。
まず世界標準?の太陽暦で、国としては1月1日が祝日になっており、お祝いをする。結構地方に帰ったりするから、町は少しだけ静かになる。今年は、土曜日だったので日曜日と連休でどうも月曜日もお休み。

 昨日の1月29日は、中華正月の春節で、国の休日ではないけれど、かなりの店がお休み。即ち、中華系の店はほとんどお休みしたのであろう。市場などでも、3分の2ぐらいがお休み。中華系でない人達の店も、休んでいるところがある。そしてかなりの人が、帰省したので、町は静かになった。今日も、3分の1ぐらいが休んでいる。故郷に帰ると直ぐには出てこられない。
 中華系だけでなく、ベトナム系もこの正月が重要らしい。メコンの岸辺にいた漁船もかなり少なくなっている。彼らにはベトナム系が多い。また近くのレストランのオーナーであるベトナム人のおばちゃんも、25日から2月8日まで国に帰ると言っていた。でもレストランは、カンボジア人に任せて開いている。
 ベトナム戦争の頃、新聞紙上では毎年この時期に、テト(ベトナムの正月)攻勢のニュースが流れていた。乾期に入り重要な攻防の時期だったのだ。

 結構正月の便乗値上げが目立つ。多くの店が休んでいるから、市場の中でも、いつもの800リエルのコーヒーが、1200リエルに5割り増し。1000リエルのノオム・パン・チョ(米の素麺にココナッツミルク入りスープをかけたもの)が5割り増しの1500リエル。まあ食べられるのだからしょうがないか。
 でもプノンペンは、色々の料理があるから、休まないところもあって、食べるのには困らない。イタリア料理、インド料理も、韓国レストランも日本レストランも、フランス料理も休まない。また、外国人相手のレストランはあまり休まない。

 もう一回は、クメール正月で、これがカンボジアの正式の正月。陰暦によるから毎年、日はずれるけれども、今年は、4月14日(金)から16日(日)まで。でもこの曜日であると、10日の月曜日から皆さん正月気分で、授業にならない。長々と故郷に帰る人もいる。学生も勝手に休む。多分月曜日か火曜日に故郷から出てくるから、始めるのは週の半ばから。

 1年の間に3回も正月をするから、早く年を取るのかナー。そして平均寿命が短くなるのかナー。
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カンボジアの食材 9 マメ科ヒレマメ

カンボジアから   金森正臣(2006.1.29.)

カンボジアの食材 9 マメ科ヒレマメ

写真:写真中央のヒレが付いた鞘が、私が勝手にヒレマメと呼んでいるマメ科の鞘である。その奧の非常に長いのもマメ科で、ナガササゲ?である。長さは40㎝ぐらいになる。右側にはトウガラシとピーマンの中間の様なトウガラシ。更に右にダイコン、更に奧には、白菜、タマネギ、キュウリなども見える。

 カンボジアでは、マメ科の植物を生で食べる。日本では、モヤシなどは生で食べないが、ほとんど生の状態が出されて、クイティウという麺に入れる。勿論汁は熱いが、その程度で食べてしまう。写真の、ヒレマメも長いササゲも、生のまま出されて、そのままポリポリとかじる。意外にマメ科特有の生臭さはなく、普通に食べられてしまう。熱帯で育つと何か成分が変わるのだろうか。日本ではマメの仲間は、生で食べるといやな味が残って以降食事にならない。

 このヒレマメは、熱が通されて出ることはほとんど無い。従って、生食専用種かも知れない。前回のプラホックの卵焼きなどには、必ず付いてくる。
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カンボジアの食材 8 魚の漬け物

カンボジアから   金森正臣(2006.1.28.)

カンボジアの食材 8 魚の漬け物

写真:左手前の列の赤と緑のタライは、ダイコンの漬け物。右側手前の列の黒とピンクのタライは、プオー(プはほとんど聞き取れないので、オーと聞こえる)、中央のピンクのタライで緑のしゃもじの入っているのは、小海老の塩漬けのペースト、その奧の緑のタライにピンクのしゃもじが、小エビの塩漬け。奧の4つのタライに、魚の姿は見えないがペースト状になって山盛りされているのがプラホック。

 東南アジアの食の特徴は、調味料の魚醤にある。カンボジアでも、魚醤作りは盛んで、醤油であるトックトレイとその元の魚プラホックが沢山使われている。主に調味料として使われるが、プオーなどでは、魚主体の料理にもされる。この他にも魚の漬け物として、マントレイと呼ばれる発酵食品がある。

 日本での発酵食品は、植物が主体であり、一部で動物質の魚醤や塩辛などがある。アミの塩辛やイカの塩辛、カツオの塩辛類などは、自己の中の酵素によってタンパク分子の鎖が短くなり、旨味物質に変えられている。長時間を掛けている物には、琵琶湖のフナ寿司、越前から北陸へかけてのヒシコ(ヘシコ)、カブラ寿司など様々な物が発達している。スルメや鰹節も、作られている過程で自己分解が進み旨味成分が増加する。千葉県の九十九里浜のイワシの魚醤、秋田のハタハタの塩漬けショッツル、アミの塩辛などは昔から調味料として、重要な位置を占めていた。
 日本の発酵食品の主流は、味噌、醤油、酒、納豆、タクワンや野沢菜、タカナ等、京都の柴漬けなど植物質の発酵である。発酵食品の裾野は広く、まだ全体が理解できていないが、古代から旨いものを食いたいと思った人たちが居て、様々な工夫がなされてきたことは確かである。このために日本では漬け物専用種も幾つか作出された。例えば愛知県の守口ダイコン、長野のイネコキナ、京都の聖護院ダイコン(千枚漬け)などがそれに当たる。

 そもそも発酵させるためには、容器が必要で有り、容器の発達以降の物である。アフリカでは、容器の発達が遅く、発酵食品の種類が少ない。また生活の余裕も関係する。毎日の食をやっと得る時代には、発酵食品は発達しない。ポンベと呼ばれるバナナや蜂蜜の酒があるが、これらは竹の筒などを利用していたものと思われる。瓶が作れられる様になって、トウジンビエなどから作られる酒やトウモロコシの酒も造られる様になったのであろうと思われる。

 東南アジアでの発酵食品は、動物質に特徴がある。ベトナムでは、海の魚を使った魚醤が発達しているが、カンボジアでは、淡水の魚を使っている。

プラホック:かなり長い間塩漬けされていて新鮮ではない。材料は小さい魚と塩。これから魚醤トックトレイが搾られる。まあ秋田のショッツルの様なものだが、発酵の程度はかなり進んでいる。これは原液が沢山タイに輸出されていて、タイではナンプラーと呼ばれている。日本でも最近見かけるが、臭いを取ってあり、かなり別物に近い。ベトナムでは、ニョクマムと言われる魚醤があるが、主体は海産の魚である。もともと魚醤は、塩と魚が多量に手に入った、ベトナム当たりで発達したニョクマムが起源ではないかと私は考えている。現在でも、カンボジアの川や湖で漁労に携わっている人々には、ベトナム人が多い。主に船上生活者で、陸上には生活しない人達の村が各所にある。
 カンボジアには、大きな湖トンレサップ湖がある。この湖は、メコン川が増水すると流れが逆流して、3倍にも面積が拡大する。乾期の通常(年によって著しく異なる)3000㎢から雨期の通常は10000㎢以上になる。まるでお盆の様に浅い湖で、湖の出口であるメコンの合流点から200km以上上流で、底の高低差は僅かに1m程度である。従ってメコンの水が20倍にも増水すると、逆流が起こる。5月の終わり頃から逆流が始まり、10月の始めまで続く。その後は、次第にメコンの水位が下がり、トンレサップから水が流れ出す様になる。因みに、琵琶湖は約670㎢で、トンレサップは小さい時でも5倍程度の大きさがある。
 この水位の変動と湖の拡大縮小は、丁度日本の溜め池で毎年池干しをして、生産性を高めるがごとき効果があり、魚類の増殖と成長を助けている。このため、トンレサップ湖の漁獲量は大きく、10万トン以上も有ると言われている。これが魚醤の源である。
 愛知県辺りの溜め池では、毎年秋祭りの前に「池揉み」と言われる、魚取り行事が存在した。これは単に祭りのご馳走を得るためだけではなく、底のヘドロを乾かし、酸欠を防ぐための方法でもあった。次ぎに水を入れた時に、ヘドロの養分が分解されやすく、植物プランクトンの発生、動物プランクトンとエネルギーが転送され、魚類の生産性が高まる仕組みであった。現在では、ほとんど池揉みが行われないため、溜め池の底にはヘドロが溜まり、酸欠が起きて魚は住みにくくなっている。
 プラホックの調理法としては、直接生で食べることは少なく、ペースト状にした物を卵焼きにする。或いは、豚肉のミンチと混ぜて卵を入れて蒸す。これらを生野菜に載せて食べる。かなり一般的な食べ物で、クメール飯屋であれば、ほとんどのところで食べられる。
 プラホックを作っているのは、貧しい漁師達である。彼らの日常の食事では、ご飯の上に、魚醤の絞りかすの魚を、調理もしないまま載せて食べていると聞いたことがある。先日の「カンボジアの子ども達4小さな時から働く(2006.1.13.)」もこの様な一家である。

プオー:写真でお分かりの様に、大きな魚を2枚おろしにして漬ける。塩とイーストを使って漬け、数日から1週間程度で食べられる様になる。新鮮な魚の漬け物で、調味料と言うよりも魚自身が主体になる。薄切りにして野菜と混ぜ、サラダの様に食べたりする。

マン:マントレイとも呼ばれる。プオーと同じように大きな魚の2枚おろしを漬ける。砂糖・ある種のジンジャー・ご飯の潰したもの・酵母菌・塩を使う。こちらの方が発酵が進んでいる。酵母菌を使うせいか、漬ける時間が長いかは不明である。ご飯の潰した物と酵母菌であるから、甘酒に漬ける様な物であろう。ある種のジンジャーと説明されたが、ウコンかも知れない。調理の時には、この魚を薄くした後細切れにして、ニンニクやショウガ、タマネギなどと混ぜる。これを生のまま、生野菜に付けて食べる。青バナナの薄切り、ニンジン、キャベツ、青トマト、長いササゲマメ、セリ、それにカンボジアの数種の香草が添えられる。かなり癖があり塩辛いが、ビールや酒の摘みには最適である。

 プオーやマンには、通常レストランではあまりお目にかかれない。家庭に招待されると、お目にかかれることがある。以前に、「クメールの食事1塩辛い惣菜(2005.12.16)」に書いたものは、このプオーの端を焼いたものだった様であることが最近判明した。思い出しても塩辛い。
 これらの魚の漬け物は、全て作るたびに味が違う様であるし、家庭によっても異なる。漬け物は思う様にはコントロールできない物だ。

 魚の漬け物ではないが、小エビの漬け物をペースト状にした物も、調味料として良く使われる。スープにちょっと入れたり、野菜と魚、或いは野菜と牛肉のサラダ、青マンゴーサラダ、青パパイヤーサラダなどには、隠し味として入っている。味が複雑になりぐんと深まる感じで、なかなか工夫されている。
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カンボジアの食材 7 ヘチマ

カンボジアから   金森正臣(2006.1.27.)

カンボジアの食材 7 ヘチマ

写真:カンボジアでは、良くヘチマを食材として使う。幾つかの種類があって、ヘチマ〈スポンジ〉にはならない食用専用種もある。私が勝手にヒレヘチマと呼んでいる、写真中央のこの種類は、縦に幾筋もの稜ができヒレの様になっている。スポンジとしては使わない。専ら食用。隣の細長いつるりとした種類は、ヘチマ兼食用種である。このヘチマは、大型種で成長すると1mに達する。立派としか言いようがないが、成長が早いせいか繊維は荒く、スポンジとしては品質が落ちる。長くて背中まで流せるんだけど!
 左端に見えるのは、サトイモの葉の茎。

 カンボジアでは、食材としてヘチマが良く使われる。スープや炒め物などに入れられる。写真の中央のヒレのあるのがヘチマの一品種で、私は勝手にヒレヘチマと呼んでいる。どの様な品種か不明である。ヒレは硬くてかなりゴソゴソしている。とても食べられない感じだが、皮を剥くと中は柔らかい。ヘチマの中で、最も好まれて食される品種である。
 右手の細長い品種は、日本のヘチマに似ている。沖縄でも良くヘチマの若いものを食べるが、それに同じだ。若いうちは、煮るとあまり個性が無く、他の味を吸収するので結構な食材である。しかしこの細長い品種は、少し大きくなると繊維が強くなり、食材にはならなくなる。煮ても焼いても、いかんせん噛み切れなくなる。どうせセルロースを取っているのだからと、やせ我慢しても、牛スジの煮込みそこないの様なものでなかなか飲み込めない。牛スジより始末が悪いのは、だんだん味が無くなってくる。

 日本でもトウガンやユウガオ(実はヒョウタンも同じ)を食べるが、調理した状態だと区別が難しい。ヘチマも同じで、食べ慣れないと何がなんだか分からないまま食べている。まして、品種まで食べ分けるのは難しい。皆同じ様なもので、はっきりした個性はないが、他と馴染んで美味い。
 似た様な状態になるものとして、以前に書いた野菜としての果物である、青パパイヤがある。具材が何であるかはっきり意識していないと、トウガン(写真の一番右手にあるやや小さな、緑色のウリ)、ヘチマ、青パパイヤの区別は付かない。トウガンも2-3種有り、おまけにヒョウタンとの区別がはっきりしないものもあるので(どれも食べる時には若い物を使うので、更に区別が難しい)、ウンー。どれも同じ様なものだからイイカー。

 もともと煮てしまうと、個性が少ないものだから、肉類と使われることが多い。最も多いのは、豚肉とのスープで、意識しないまま食べている。魚類でも脂が多いナマズのスープなどに使われている。油との相性がよい様で、肉類との炒め物等にも使われる。

 日本では、トウガン・ユウガオなどのダシの効いたあんかけなどは大好きな料理であるが、その様な微妙な味はカンボジアには無い。椎茸、干しエビ、干し貝柱、干しアワビなどダシ用の優れた食材を使いながら、日本とは味の感覚がかなり違う。バナナ・パパイヤ・マンゴーなどを熟さないうちに、野菜として使う感覚も何らかの気候的影響を受けている様にも思われる。

 身体は、気候の強い影響を受けている。例えば、発汗量は温度と湿度の影響に因るところが大きい。寒い地方は、着るものも多くなるので、湿度も外気の影響を受けにくい。しかし暑い地方は、着るものも薄くなるので、外気の影響を受けやすい。東アフリカの乾燥地帯では、一日の温度格差が大きく40度近くなることもある。湿度は、20パーセントを切る。発汗量が多くなり、水を飲む量が日に3リットルでは足りなくなる。従って、胃が疲れることはこの上もない。胃液の分泌も戸惑うのであろう。
カンボジアではそれほど温度差もないし、湿度も低くならないが、それでも日本よりもかなり多くの水を飲む。カンボジア人もかなり水を飲むから、やはり気候の影響が有ろうかと思われる。この様な状態になると、食べたいものの要求も、当然変わってくるのであろう。その長い経験の結果、様々な食材が選ばれていると思われる。
北アルプスのガイドをしていた中村さん(志賀高原の幸の湯のご主人:既に故人)と2人で、もう40年も以前に新潟県の中津川の上流の「魚の川」にイワナ釣りに出かけたことがある。宿も道もないから、崖を登り、岩をへつりテントで3泊4日、60kg程度を釣り上げて帰った。川は雪解け水で冷たく、釣った魚の冷蔵庫としては最適であったが、一日水につかっているから、当然胃の調子も悪くなる。経験豊富な中村さんは、事前に沢山の柴漬けを準備して下さっていた。その頃まだ酢の味の苦手な私は、初日には食べなかったが、二日目以降美味しいと思って食べる様になり、それ以来柴漬けが大好物になった。
身体は、気候の影響を受け、身体の要求する物や味も、自然にその地域の気候の影響を受けているのであろう。
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お葬式事情 6 先祖供養

カンボジアから   金森正臣(2006.01.26.)

お葬式事情 6 先祖供養

写真:家で行われた先祖の供養。お坊さんを呼び読経などの行事の後、参加者全員に、お粥が振る舞われた。多くの人に参加して貰うことによって、先祖の供養が出来ると考えられている。

 プノンペンから30分ほど離れた郊外の家で、先祖の供養が行われ、招待された。物見高い私は、これ幸いと日本から来ていた友人と出かけて行った。途上国で同じ様なことをしていることが多い友人も、きっと興味が有るであろうと勝手に決めて。彼はその時には何も言わなかったが、次の年に会った時に、貴男は何時もこういうチャンスがあり、出かけるのかと、羨ましがっていた。興味津々で、あちこち覗き回る習性は、カンボジアの皆さんに知られており、何時も皆さんがチャンスを与えて下さり、巡ってくる。機会とはそう言ったもので、何時も心の準備をしておき、待っていることが大切である。やがてその姿勢は、次のチャンスを引き寄せてくれる。

 この家では、直ぐ近くのお寺から沢山のお坊さんと出家した老女達を呼んでいた。最初に読経が有って後、お坊さんのお説教が始まった。およそ1時間も説教は続いたが、その間に訪れた人々は、勝手に奧の庭でお粥をご馳走になって、食べ終わると帰って行った。

 ン。何のために来たのだ?と思いたくなるのだが、これがカンボジア式らしい。要するに施主は、多くの方々にお粥を布施して、先祖が徳を積めるようにしたと言うことらしい。訪問者の方は、要するに振る舞われたお粥を頂けばよいのであって、特にお坊さんの説教を聞く必要は無いらしい。

 法事と言えば、皆が集まって厳かに様々な仏事が執り行われ、最後にはしびれが切れてひっくり返ったりするのに慣れている日本人としては、いささか勝手が違う。みんなが揃ってすると言うことの無い文化とはこう言うものなのかと、思いながらもなかなか理解が進まない。


 死とは何であるのかは、生とは何であるのかと同じ意味を持っている。この両者の理解があって初めて、生きることの意味が明らかになる。どちらかだけでは、理解が進まない。
 高校生の時に感じたのは、もし死がなかったならば、即ち何をしても死ななかったら、人間(私かも知れない)は、動かないかも知れない。死とは生を司っている重要な要素であると。
 その後学生時代には、死に接すること或いは近くに居ることによって、死を理解できるかも知れないと思っていた。山が好きだったこともあるが、山岳部に籍を置いたのは、その様な意味合いもあった様に思う。そして多くの死に接して、次第に慣れていったが、死について全く理解が進んでいなかったことを知ったのは、45才を過ぎてからである。
 今、まだ理解するまでには至っていないが、何れどこかで理解できる方向にあると思っている。

 日本では、死に接する機会が著しく減っている。核家族が多くなり、病院での死が多くなって、誰の死にも接しないまま、突然自分の死に直面することになる。途上国に住んでいると、子沢山で、子ども達の死亡率が高い。世界の多くの人々が、子どもの死亡率を低めようと、様々な働きかけをしている。でもそれが本当に意味を持っているのか、漠然と不満感があった。ヒューマニズムとしては結構だが、死はそれだけで乗り切れるほど簡単なことではない。ユニセフなどのキャンペーンを見るたびに、何か疑問が残っていた。人類の発生の過程から考えると、末期に出現したヒューマニズムは中途半端な課題で、人生の中心になる課題ではない。

 東アフリカで研究をした河合香吏さん(現東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)の1995年頃の論文に、チャム族の優れた死生観の報告があり、死についての感覚が一気に進んだ覚えがある。この時を機会に、死亡率を下げることが、人類の幸福にはつながらない可能性が高いことを感じる様になった。

 子ども達が死んでも良いと言っているのでは無い。その死を通して、親が自分の人生の死について多くを学んでいる事実を見逃してはならない。人は必ず死ぬ。早いか遅いかは、必ずしも重要なことではない。その生が他の人々に何を与えるか。与えられた者が、どの様に生きるかが大切であろう。その生は短くとも、強烈な悲しみ(裏を返せば慈〈イツク〉しみの心の醸成)と死を受け入れる準備を与えて行ったのなら、意義深いことであろう。
 死から切り離された文明は、高い文明だと思っているかも知れない。でもそれは錯覚かも知れない。「無情迅速、生死事大」は道元禅師の言葉である。人生を探求しようとすると、必ず死の問題に直面する。これは避けて通れない。

 皆さんは死生観について、どの様な価値を見いだしておられるであろうか?
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お葬式事情 5 葬式の台所

カンボジアから   金森正臣(2006.01.25.)

お葬式事情 5 葬式の台所

写真:街角で行われた葬式の台所。専門の賄い業者がいて、鍋釜かまどをトラックに積んでやってくる。水を家の中からホースで引いて、台所の出来上がり。まことに簡単。この家では、6基もの竈(かまど)が据えられ、大がかりの調理となった。

 前回に報告した、お葬式の続きの調理場の風景。葬式でも結婚式でも、法事でも家庭で行う場合には、調理に限界がある。カンボジアでは、専門の業者がいて鍋釜、竈、食器、スプーン・フォーク・箸などのセットをトラックで運んできて開業となる(カンボジアでの食事には、必ずスプーン・フォークが付く)。場合によっては、皆が集うテントからテーブルとイスまでセットになっていることもある。

 この家では、葬儀が盛大に行われたので、竈が6個も用意されている。通常は3個で間に合い、場合によっては2個の時も見かける。使われるアルミ鍋は、何処でも大きさがだいたい同じで、愛知県三河地方でハソリと呼んでいる鍋よりもやや深い。以前にこのハソリなるものでウドンを作ったことがあった。見た目には底の方にちょっとだけで、なんだか寂しい感じであった。しかし食べ始めてみると、20人ぐらいでも食べきれなくて参ったことがある。この鍋は、それよりやや入るので、1鍋で100―150人分のスープは賄えると思われる。

 カンボジアの葬式料理がどの様なものであるかは、十分に分かっていない。しかしながら、日本の精進料理とは異なり、肉類が使われている。多分ヒンズー教の影響もあって、肉類が忌避されていない。カンボジアでは、お寺の縁日(月4回)には、お料理したものをお寺に持って行き、お坊さんに布施する。度々見ているが、何時も肉が入った料理が入っている。年を取ると生活の中で殺生が無いように気を使うのと、どの様に整合性があるのかは、まだ理解できないない。

 中国料理の影響と思われるが、干し椎茸、干しエビ、ニンニクなどが使われる。干し椎茸は、多分カンボジアでは生産されていない。最近は日本でも見られる、薄く切った干し椎茸が出回っており、水に戻さなくても使えるので便利である。しかし、この薄切り椎茸は、干した時の臭いが残り上質な味にはならない。市場では、日本でドンコと呼ばれる、まだ傘が開かない肉厚な上質のものも見かける。

 この様な調理場で料理するのであるから、衛生状態が気になるのだが、カンボジア人はあまり気にしていない。冷蔵庫もないし、まな板も衛生的とは思われない。第一水が十分ではないから、食器などの洗浄が心配である。この状態で3日間もしたら、あまりきれいな状況ではない。食材はその都度買って来るにしても、まな板は中国式の木の輪切り板である。十分水を掛けて洗っても、様々な食材のこびり付きがある。それをしばらく放って置いてまた使うから、当然菌の繁殖もある。何しろ熱帯で気温は培養に十分な、30度近くはある。

 衛生状態など余分な心配かも知れない。25年も以前にナイル川のファルーカ(ヨット)で遊んだ時に、船頭にナイルの水を進められてインド人は、ベリー・スウィートとか言って平気で飲んでいた。ウーン。私は明日の朝、起きてこられないヨ!なんて考えて遠慮した。やはりインダス川で育ったのは違うと、痛く感じ入った。何しろコチトラは、様々な菌に対抗する抗体が無い。インダス川で育った連中は、生まれた時から抗体を作り続けている。できなかったのは、あの世に行ってしまったわけだから、残っているのは抗体を持っている。カンボジア人もきっと沢山抗体を持っていて強いのであろう。やはりきれい好きの日本人は、弱いのか?なかなかインド人の様に、何処でも生きられるコスモポリタン(国際人)には成れない。
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お葬式事情 4 家で行われる葬式

カンボジアから   金森正臣(2006.01.24.)

お葬式事情 4 家で行われる葬式

写真:普段は何か商売をしている角の家で葬式があった。3日間ほど行われたが、これはその中間の日の朝で、火葬のあった日に当たる。早朝から多くの客の出入りがあり、7時頃火葬場への移動を開始する直前の写真。家の脇に霊柩車が寄せられている。

 町中でも時々葬式を目にすることがある。「化野(アダシノ)の煙、消えること無く」と昔から述べられているように、人は何時の世も、絶えず死に行くものである。カンボジアでも当然であるから、時々目にするところとなる。

 この霊柩車は、前回に紹介した霊柩車に比べるとかなり派手に彩られている。これは中国の影響と思われる。商売をしている人に中国人が多いことや(彼ら本人は、カンボジア人と思っていても)、車の前方に掲げられた額は、中国語で書かれている。また横断幕(下方に僅かに覗いている赤い幕)にも中国語が書かれており、幟も中国語である。この本人がどの程度中国を意識しているかは不明であるが、葬儀の仕方は、中国式と思われる。霊柩車も、前回のものよりは立派な作りで、施主の経済的豊かさが伺える。

 前を歩いている年配の婦人達が(頭を剃っているが、カンボジアには尼さんは居ない。しかし出家して、お寺に住むことは許されており、この葬儀の家の近くには、女性専用のかなり大きな寺がある)、着ている服装は、クメール式である。
 これから火葬のために、家を出るところで行列を整えようとしている。やはり並ぶ順序があるようで、それを世話する係も決まっている様だ。
 左側の人の頭より高い位置には、黒白の幕が付けられたテントが見られる。このテントの下では、早朝からお坊さんが来て読経があり、その後先ほどまで朝食が取られていた。十数個のテーブルが設置されており、1テーブル10人前後としても、食事をした人は、150人から200人ぐらいと思われる。この食事をした組は、霊柩車の前方に並ぶので、行列全体は、最低でも400人以上になろうかと思われる。

 付近には、参加した人の車が路上駐車されているので、全体的に渋滞していて、写真に通行人を入れないようにすることは出来なかった。ご覧のように丁度通学・通勤時間と重なり、車などは身動きできないほど混雑した。前にも紹介した様に、とにかく我先にと割り込む文化だから、身動きできなくなるのは当然である。この通りは、大きな通りではなく、比較的道幅も広いので、普段の散歩の時に渋滞するところは見たことがない。

 この日(2006年1月11日)は、葬式には向いた日であるのか、散歩の間に3組の葬式の行列に遭遇した。十二支の影響を中国から受けているカンボジアでは、日本と同じように十干(ジッカン)の影響もあるかも知れない。

 この葬式の本人が、どの様に人生の終末を迎えたかは明らかではない。しかし葬儀の盛大さとは、無関係であることは確かだ。死こそは、人生の総決算で、人生を生きた様にしか、死ぬことは出来ない。
 終末医療を担当している医院長さんと話すことが時々あるが、インテリは死に方が下手であるという。医者、先生、弁護士はなかなか上手には死ねないという。苦しんだり、未練や恨みを持ったり、色々だという。それに対して、お百姓さんは死ぬのが上手だと言う。身近な人を混乱させることが少ないし、感謝の心を持って、あっさりと死んで行けるという。勿論全てがそうだと言うことではない。
 ごもっとも。インテリには、人生の実体がないのだから。口先だけでは、本当の人生にはならない。自分が認識している以上に、人生の実体が少ない。如何に経済的に恵まれても、自分の脚で自分の人生を歩かなければ、自分の人生にはならない。周囲から認められることで、自分の人生が上手く行っていると思うのは、錯覚である。死ぬことは、人生そのものであり、そんなに甘いことではない。
 皆さんはどの様にお考えだろうか?
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お葬式事情 3 霊柩車

カンボジアから   金森正臣(2006.01.23.)

お葬式事情 3 霊柩車

写真:霊柩車の前面。白黒の幔幕で囲まれ、金色のナーガ(5つ頭のヘビ)に守られて、町中を行進する。霊柩車より前は、遺族のようだ。

 霊柩車は、ご覧のような装いで町中を練り歩き、寺の火葬場に到着する。霊柩車に棺が安置され、その前方には、上半身に白い布を巻いた男性が立っている。左側には僧(オレンジ色の衣)が2人付いている。棺の前方両脇には、白い天蓋が2つ。棺は、四角の枠で支えられた白い布が屋根のごとく有る。これは有ったり無かったりで、費用のかけ方でも違うのであろうか。
 霊柩車の前方には、大きなスピーカーが取り付けられており、大音響で御経を流しながら歩く。乗っているお坊さんが唱えていることもあるが、テープが流されていることも多い。なんだかちょっと、もの寂しい。

 お寺に向かう行列で、棺の前方を歩くのは、遺族であろうと思われる。先頭には、花輪が捧げられ、それに続いて焼香用の香炉が持たれる。続いて火葬の前に供えられる、白い幟やお菓子、各種供え物が続く。
 素足で歩いている人もいる。托鉢のお坊さんに、お布施をする場合には、基本的には履き物を脱ぎ、素足になってするようであるから、死者に対する敬意を示しているように思われる。特に死者よりも若い人が取る行為でもあるようだ。

 霊柩車の後には、知り合いや生前の関係者であろうか。皆だいたい上半身は白色の衣装で、女の人は白い布を左肩から巻いている。この白布の使い方は月4回、お寺の縁日に参る時も使うので、日本の喪章とはやや意味合いが違うようである。
昨年あたりまでは、ほぼ全員が歩いていたが、今年見るところでは、約半数ぐらいは、モトや車で付いて歩いている。ある行列では、ほぼ全員がモトや車で付いて歩いており、歩行の速度も速かった。霊柩車の前方が見えなかったが、もしかしたらこちらもモトや車で有ったかも知れない。時代と共に行列も少しずつ変わりつつあるようだ。
 行列の規模は、死者や施主によって変わるようで、有名人だったり、金持ちだったりすると長くなるようだ。また現役の学校の先生なども、行列が長くなる。
 以前には、400-500人の行列が、ゆっくりと町中を練っていて、交通渋滞で止められた車が、あちこち脇道に入り込んで混乱を引き起こしていたが、最近は少なくなったようだ。

 お寺の中の火葬場に着くと、棺が火葬場の前に安置される。その前に棚が設置され、順番に焼香が始まる。供え物を供えたり、焼香がされたり延々と続く。その後に棺が、火葬場の中に入れられて、閉められる。
 その後焼き上がるまでは、縁者だけが残り周囲でご飯などを食べながら、待機する。スピーカーで御経のテープが流され、聞きながら待つ。大きな葬儀になると、この食事なども賄い専門の業者が来て、路上で調理して提供される。
 その後骨拾いが行われて、火葬場までの人生は終幕となる。後は家庭に戻って、供養の宴が模様される。
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お葬式事情 2 町中の行進

カンボジアから   金森正臣(2006.01.22.)

お葬式事情 2 町中の行進

写真:火葬の前には、必ず遺体を乗せた霊柩車が、町中を行進する。その前後について、人々も行進する。棺の前は遺族だろうか。棺の後に大きい葬儀だと300人も並んで歩くことがある。数列縦隊で歩くから、片側の斜線は通行止めになることもある。また交差点ごとに大渋滞になる。でも葬式の列は、泰然自若、前ペース。誰も文句を言わない。カンボジア人は、我慢強い?そうでもないけど、人の死に対しては、色々なことが許される文化のようだ。

 カンボジアでは、葬儀は盛大に行われる。愛知県では、結婚や葬儀が派手なのは、自分の経済力を誇示するためだと聞いたことがある。徳川家康は、やはり優れた戦略家で、地域の掌握のためにもたらされた方法のように思われる。普段の生活を質素に暮らさせ、蓄えた財力はいざ合戦に備えさせた。しかし供えていることを示せるのは、冠婚葬祭だけ。旗本などは、無い袖を振ってでも、威勢の良いところ、即ち、蓄えのあることを見せなければならなかった。他の地域で育った私には、今でも気になるところである。

 カンボジアでの理由は少々異なり、経済力をあまり誇示することは、社会的には得策ではない。親類縁者から、頼りにされるのが関の山で、銀行から沢山借りられるようになるわけでも無さそう。
 宗教的理由があるようで、多くの人に供養して貰うことに意味がある。また、施主側からすると、故人が残した財産で、多くの方やお寺に布施することは、故人の最後の徳を積む機会として重要な意義がある。結婚式が派手な理由も、多くのお坊さんを呼んで、寺にも寄進をすることが、本来の徳を積む業であり、結婚生活の幸福を願う行いであった。ところが最近、結婚式場で行われるようになって、お寺との縁は無くなくなってしまった。しかし元々ドンチャン騒ぎの大好きなカンボジア人が、お金があって出来るようになったので、何が目的だったかは忘れ去って、音楽や踊り付きで派手にやっているようである。

 服装は、かなり統一性があり、上は白が普通である。更に女性達は、白いたすき状の布を左肩からかけている。ズボンやスカートなど下も白か黒に統一されている。霊柩車に乗り、棺桶の前に座る男の人は、上半身裸で、白い布だけを左肩からかけている場合が多い。なんだか日本の「死に装束」(死者に着せてあの世に送り出す着物。白で統一されている)と似ている。
 霊柩車は、2トントラックぐらいの運転席前から荷台にかけて、ナーガ(頭だけが5つのヘビ。八岐大蛇とは少しイメージが違う)を形取ったベニヤを張り回し、白い布などによって覆いをして作られている。なんだかすごくみすぼらしい感じである。まあ日本の数千万円もする霊柩車よりも、簡素で良いのだが。

 霊柩車や葬式がどうであるかは、本人が極楽に行くか地獄に行くかには、関係ないからどちらでも良いことだが。ところで皆さんは、地獄・極楽が有ると思われるか、無いと思われるか。
 江戸期の禅僧、白隠禅師(1685-1768臨済宗の僧。原の宿:現在に静岡県沼津市、の小さな寺に住んでいたが、「駿河には、過ぎたるものが2つあり、富士の高嶺と原の白隠」と歌われ、江戸まで知られていた高僧)は、訪ねてきた武士が、「今まで人を沢山殺してきたが、本当に地獄・極楽は有るのか。人を殺すと地獄に落ちるのか」と訪ねた。それに対して、「侍のくせいに腰抜けめ!」とあざ笑った。怒った侍が、刀の柄に手を掛けた時に、「それ、それが地獄だ」と諭したと言う話がある。白隠禅師は、怒りこそが地獄であり、地獄・極楽はあの世の話ではなく、現在今の話だと教えている。
 皆さんはどちらに住んでおられるだろうか。
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