鍋焼きうどん 

鍋焼きうどん   2019.01.31.

先日女房が美容院に行き、コンビニの鍋焼きうどんがうまいと聞いてきた。
ちょうどスーパーに買い物に行ったときに、鍋焼きうどんを見かけたので、てんぷら鍋焼きうどんを130円ぐらいで買ってきた。ずいぶん安いものだと感心しながら。他にもカレーうどんなど何種類かあった。

所が食べてみてびっくり。野菜は何もないし、エビてんぷらは、メリケン粉のてんぷらの上にアミのむき身のような小さなエビとおぼしきが載っているだけ。食べても旨いとは思えなかった。そこで、コンビニの鍋焼きうどんと言うことを思い出して、近くのコンビニに行ってみた。なんと450円ほどもして、立派な鍋焼きうどんが売っていた。なるほどコンビニの鍋焼きうどんはなかなかなものだと感心した次第。

昔学生時代に、学食のうどんは食べても、街の食堂で鍋焼きうどんを食べる余裕はなかった。鶏肉にシイタケ、卵の入った鍋焼きうどんはかなり高価で、つい普通の30円のうどんになっていた。大阪時代には、昼に鍋焼きうどんを食べられるようになっていて、付いて来るかやくご飯のオイナリサンと一緒に楽しんでいた。久しぶりに鍋焼きうどんを食べて、いろいろなことを思い出した。
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第16回正臣会御礼

第16回正臣会御礼   2019.01.30.

先日第16回の正臣会を開いて頂きました。
有難うございました。
20年ぶりぐらいにお会いできた方もおり、大変楽しい時間でした。いつもお世話頂いている事務局の皆様、参加くださいました皆様に御礼申し上げます。

日本語教育を勉強しておられる方から、英語と日本語の違いなどについてご意見があり、簡単な説明をさせて頂きました。あやまることのない遊牧民の文化は、その起源において日本語とはかなり異なった方法で出来上がっていると思われます。ちょうど言語学を専攻されていた堀田先生(三河生物研究会)もおいでになり、言語における系統性の話もいただきました。

20年以上前に、臨床心理士の友人の不登校児の野外塾でご一緒だった方も見えられ、臨床心理士になられていてびっくりやら、喜びでした、現在はスクールカウンセラーをしておられるそうです。

退職してから16年も経って、いろいろの方にお会いできるのはとても有り難いことだと思います。
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第16回の正臣会について

第16回の正臣会について   2019.01.16.

今年も事務局の方のご努力で、第16回の正臣会を1月27日(日)に開いて頂くことになりました。

既に卒業生の皆様は、後輩の指導に当たられる年齢になっておられます。
私が最近感じている、若い人達への問題意識とその解決の一方法をお話ししたいと思います。
所属している公益財団の理事仲間で、早稲田大学のビジネススクールの教授の大江さんと若い人たちの問題について検討している間に生まれました。
この方法は、若い人たちばかりでなく、自分の考え方などに対する検討にも役立ちます。

お会いできることを楽しみにしております。

会の詳細は、事務局HPに載っています。
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年賀の御礼

年賀の御礼   2019.01.15.

様々な方から年賀を頂いた。いろいろ楽しませて頂いて、心から御礼申し上げる。私は、年末年始を外国で過ごすようになった2000年ごろから、年賀状を欠礼しており申し訳なく思っている。しかしながら、近年は体力の衰えもあり、相変わらず欠礼したままである。

卒業生の皆様から頂くと、名前とともに思い出すのは学生時代の姿で、既に子どもさんが独立した姿はなかなか思い出せない。

最近、山折哲雄さんがテレビに出ていて、著書【「ひとり」の哲学】について語っておられた。親鸞聖人や一遍上人、西行法師などの生き方や思想について語り、ご自分の死生観について話された。新聞には瀬戸内寂聴さん御話が載っており、死生観が伺えた。ご両人とも現代を代表する知識人で、多くの人々の生きる指針になっている。しかしながら、何か物足りなさが残った。何が違和感であろうかと考えてみた結果、仏教の本質についての考え方の相違で有ろうと思われた。山折さんは宗教哲学者で、宗教の本質についての追究者ではない。寂聴さんは、僧籍を持っておられる立派な坊さんであるが、修行の経験が不足しているように思われる。作家で平泉の住職だった今東光大僧正のもとで得度している。その後どのように修行されたかは知らないが、多分悟りを得られた方に付いて修行されたのでは無い様に見受けられる。

悟りを得られた方に出会えるチャンスは、多くはない。またお会いしてもすぐには理解できない。その方のもとでしばらく指導を受けているうちに、自分のレベルが理解できるまでに達した時に初めて少し垣間見ることが出来る。私は非常に幸いなことに、最初から悟りを得た方にお会いすることができた。しかし、少し理解できたのは3年ほどした時に初めて、異次元の精神世界の方だと言うことが感じられた。その方から伺って現在の老師のもとにたどり着くことが出来た。30年ぐらいになるが、いまだ悟りの世界には遠い。しかしながら、確かに悟りの世界があることは理解ができるようになった。現在の老師様のもとには、40年も禅宗で修行された方が、やっと辿り着いたり、外国から来て30年近くも禅宗を学びながらやっと辿り着いたお坊さんが来たり、なかなか覚者にはお目にかかれないもののようである。

まだ悟りには遠い世界で生きているが、少しでも日々努力したいものである。

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裕福の中の貧困

裕福の中の貧困   2019.01.10.

現在の日本はそれなりに富裕層も多い。戦後に比べると格段に生活は良くなり、はるかに裕福になっていると思われる。しかしながら、実際の生活では貧しい生活を選んでいる人が多い。何が貧しいかと言えば、精神生活が貧しいのであろう。先に書いた「地獄への道」のさる車会社の前会長ではないが、たくさん持っているにもかかわらず、使い方が理解できていない。沢山持っていながら、なおかつもっと欲しいと走り回る。欲望は際限がない。
一般に資産が多いと裕福と思われているが、人生は資産の量では決まらない。
江戸の中期の白隠禅師は、「衆生本来仏なり、自我の心で迷うなり」と述べて、欲望や地獄への道を戒めている。一遍智真上人も、「百利口語」の中で、人身を得て人生を送りながら、物を欲しがる心根や妄念で無駄に過ごすことを戒めている。

南青山の児相問題なども、自己中心的な欲望に過ぎないように映る。反対している本人達は、自分の行動や欲望を見ることがあるのであろうか。おそらくそのような機会が無いまま、人生の多くの時間を過ごしてきているのであろう。

人生は、自分自身のものである。誰に遠慮をすることもない。しかしながら、自分自身を見る機会を持たないで過ごすと、自我によって欲望や競争心に引き回されることになる。どこかの社長さんが、1億円のお年玉を配ったと言うが、おそらく自分の人生を顧み機会などを持たなかったことによる暴走であろう。自分自身では常に自分を顧みているつもりでも、何かのこだわりに引き回されてみていると、部分を見ているだけで全体は見えない。

人生は、常に普遍的な本質について、追及する必要がある。
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新年のご挨拶

新年のご挨拶   2019.01.01.

元旦は 冥土の旅の 一里塚    一休宗純禅師の偈。

首ヲ回セバ 七十有余年      70年余の人生を顧みれば
人間ノ是非 看破ニ飽ク      人間の善悪を見尽くしてきた
往来ノ跡ハ幽ナリ 深夜ノ雪    深夜の雪で道が消え始めている
一炷ノ線香 古匆ノ下       古い窓の下に一本の線香がともっている
    越後の良寛さんの「辞世の句」:草庵雪の夜作(原文は漢詩)  
柳田聖山「沙門良寛」1989人文書院より引用 訳は金森(第2句は、他の訳が多いが、最後まで修行していた良寛さんは、
自己を通して人間を見ていたと訳した

日々精進したいと思います。
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