日本の現状の問題に関して 9 

日本の現状の問題に関して 9   金森正臣(2007.08.04.)

 心の貧しさについて
 以前に、心の貧しさについて書いたが、なぜこの様な状況が日本に蔓延して来たのであろうか。
 心の貧しいと感じる指標の一つに、価値の単純化があると書いた。価値の単純化が起こってきた過程の幾つかについて考えておきたい。

 日本の社会的流れとして、戦前の大家族制から、高度経済成長を経て核家族化が進んだ。この現象は、人々の価値判断に大きな影響を及ぼしている。家族の構成が単純化すると、価値の基準も単純化し易い。
 自分自身の人生の価値判断も、年齢によって次第に変化してきている。特に人生の後半に入ると、死が明確に意識され、価値の置き所が成功よりも、充実に置かれるようになる。若い時には、これから生きて行くことを考えると、それなりの経済的基盤や家庭の基盤を考えることが多かった。しかし終盤になると、それらのものがそれほど人生で大切でないことは明らかになってくる。
 大家族で、価値観が違うメンバーが一緒に生活していると、様々な考えを理解せざるを得ない。煩わしくも有るが、価値観の幅は広がる。
 また重要なこととして、確率的には年配者から死に至る。小中学校生頃に、祖父母の死に出会うことも多い。このことは人生の価値観や死についての深い理解につながる。長い年月一緒に暮らしたメンバーとの別離は、大きな悲しみを伴っているが、人生の重要課題を考える基礎になる。いじめなどをする子どもに、他の人の悲しみを訴えても、自分自身が深い悲しみを伴った経験をしていないと、他者の悲しみも理解できない。核家族の増加は、このような体験を子どもたちから奪いつつある。

 テレビの影響も大きい。東京オリンピック(1964)の頃、テレビが急激に普及した。と言っても現在のように各家庭に複数台あるという状況ではなく、田舎ではテレビのある家に集まって観戦する状況だった。レストランや喫茶店でもテレビ中継が、客寄せになる時代だった。その頃だったと思うが、評論家の大宅荘一が、テレビは国民の1億総白痴化を招くと嘆いた。テレビが人間に与える影響を、よく見抜いていたと思う。
 私の経験からすると、テレビは外からの刺激によって振り回されているのであり、自分自身の思考は発展しない。よくテレビの報道などによって、考えさせられたという。しかし実際には、自分の思考過程は崩れており、刺激に対して反応していることが多い。それは外部の者の考えに沿っているだけであって、自分自身の思考の深さを開発することにはならない。より深く自分の内面を知り、探究することには向いていない。自分の内面を知ることは、外部を読み取る道具を作ることであり、これがなければ外に起こった現象を、自分なりに解釈・理解することは難しい。自分の道具がないと、誰かの借り物で、理解することになる。
 大宅荘一が、1憶総白痴化と言った意味は、多分この点にあり、皆が自分自身の思考を持たなくなり、流れるテレビの影響のもとに流されることを、嘆いたものであろう。これも価値観を単純化する大きな要因になっている。

 さらにテレビや新聞などマスコミは、目立つものしか報道しない。最も目立つのは、勝ち負けのはっきりする報道である。スポーツや選挙などは恰好な材料となる。普通の生活を報道しているようでも、何か目立つ内容を作り上げている。善し悪しの価値基準を単純化して、示していることが多い。加えて学校教育も、成績は競争の道具になり、さまざまな物事について善悪の判断を明確にする傾向がある。価値を単純化して、分かり易くする狙いは分かるが、人生はそのような単純な価値観で割り切れない。このことは、自殺の多いこととも結びついている。さまざまな価値判断の基準持っている人は、自殺から逃れやすい。例えば、失敗することは学ぶことであり、負けることもまた自身の成長になるという言葉はよく聞くが、現在は言葉だけが横行しており、実際に自分にどのように役に立つのかを実感している人は少ない。自分の人生の幸福とどの様に結びついているかを理解できていなければ、言葉で言えても使うことはできない。

 価値の単純化については、西洋近代科学も影響している。私が生きてきた理科の分野は、その典型である。西洋近代科学は、法則科学とも言われ、自然界の中の法則を発見し、成り立ちを理解する過程を言う。したがって法則科学は多くの人に信頼されて、確かなものとされてきた。このことに異論はないが、価値の単純化を招く危険がある。科学の結果を信じすぎて、それ以外のものが見えなくなる。私がそのことに気がついたのは、40代になってからであるが、全く見えていなかった世界に愕然とした。人生は、科学では見えない世界も含んでいる。二元対立の思想(善悪、白黒など単純な軸を決めて物事を見る)では、人生の全体は理解できない。

 西洋的な教育が取り入れられて100年以上が経ち、特に戦後教育では自立や自己主張が奨励された。自立や自己主張は悪いことではないが、行き過ぎると社会がギクシャクする。特に水田農耕民の日本文化は、西洋の牧畜を主体とした遊牧民の文化とは、人間関係が異なる。移動できる遊牧民は、自己主張と自己の権利意識を主体に発展した。土地に縛りつけられている水田農耕民(焼き畑で移動する農耕民はやや異なると思われる)は、周囲との協調を発達させた。数千年の歴史を刻んでいるこれらの文化的無意識(心理学者のユングなどが主張している)は、数十年では簡単に乗り越えられない。この辺も自殺などと大いに関係していると思われるが、複雑すぎて解明は難しい。現首相の言うところの「美しい国」は実体が何であるかは、ほとんど分らない。しかし、水田農耕民の協調性は、これから人口が増えてゆく地球上にとって、かけがいの無い重要な文化であることは間違いない。様々なものに価値観見出して、複雑な価値体系を持てる日本の文化こそ「美しい国」であろう。

 日本の現状における重要な問題として、宗教の問題がある。宗教は形こそ違え原始社会から存在する。戦後の日本の教育が、宗教を排除したのは、戦前の反省から妥当な処置であった。神の国として戦争に突き進んだ事実は多くの国民が認めるところである。教育から宗教を排除して、偏らないことは重要である。しかしながら、個人が宗教を持たないことが良いとは思われない。原始社会から連綿と続く宗教は、人間にとって不可欠であると思われる。様々な不合理を乗り越えるには、宗教的な理解が必要であろう。法則科学を発達させた西欧でさえ、それぞれは宗教をしっかり持っている。合理主義が前面に出て、不合理な面を抱える宗教そのものを否定したのは、日本ぐらいであろう。そのことは、自殺問題とも関わっている。また、不可解な新興宗教に優秀な若者たちが関わるのは、宗教的感覚が欠如してきた結果である。「オウム真理教」の問題などは、その典型であろう。
 教育の中で教えなくてもよいが、先生は自分自身が宗教をしっかり持つ必要がある。持つとその方面に偏るという程度では、持ち方が足りないからである。宗教をもつと教育が偏ると思うのは、日本の教育者の未熟なところである。人生そのものを真剣に考え、自分の普遍的な幸福を真に追求したならば、宗教は不可欠である。自分が幸福でない先生は、子どもたちに真の人生を伝えることはできない。知識の伝達だけでは、教育の初歩である。


 追伸
 怪我をして自宅に帰り、しばらく静養しました。ようやく腫れも引き(1ケ月かかりました)、起きている時間が長くなりました。痛さはなく、ごろごろしながら考えていると、以前から気になっていたことを書いておこうという気分になりました。時間があったのでやや長くなってしまいました。8月9日にはカンボジアに戻り、仕事に復帰する予定です。またインターネットから遠くなるので、しばらくブログは休みになるかと思います。
 カンボジアの支援は、後1-2年、現在日本に留学している人材が、カンボジアに復帰したら、一応目的が達せられるであろうと思っています。
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近況報告 事故の顛末2

近況報告 事故の顛末2

 皆様にご心配をおかけしました。
 現在、一時帰国しています。これは、事故以前からの予定で、8月9日には、カンボジアに戻ります。

 現在はまだ松葉杖で歩行しておりますが、日々良くなっていることが実感できます。時間はかかりますが、あとは時間を待つばかりです。

 事故の時も全部の状況を記憶しており、頭も打たなかったことは不幸中の幸いでした。

 けがで入院している間にも、多くの人々の支援を頂いて、今年もカンボジアの先生2名が日本に留学できることになりました。応援いただいている大学の先生たちに、心から感謝申し上げます。

 現在は家でメールができますが、カンボジアに戻ると、インターネットカフェーに行かなければならないので、週1回ぐらいになります。しばらくブログをかけないことがありますが、あまりご心配ないようにお願いします。

 日本もかなり暑いですが、カンボジアに比べれば楽です。温度はカンボジアははるかに高いのですが、湿度が低いので想像ほどではありません。
 またカンボジアに戻って、しばらく頑張りたいと思っています。
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