書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

司馬遼太郎『播磨灘物語』を私が映像化するならば

2011年09月23日 | その他
 2011年09月17日「msn 産経ニュース」2011.09.05「歴女カメラ!! Vol.8」より続き。

 (敬称略)

 黒田官兵衛孝高(如水)・・・真田広之

 黒田職隆・・・・・・・・・・竹脇無我 
 黒田重隆・・・・・・・・・・児玉清
   
 お悠・・・・・・・・・・・・中村久美
 栗山善助・・・・・・・・・・金子吉延

 足利義昭・・・・・・・・・・伊丹十三
 細川藤孝・・・・・・・・・・松田龍平

 羽柴秀吉・・・・・・・・・・竹中直人
 竹中半兵衛・・・・・・・・・米倉斉加年

 織田信長・・・・・・・・・・玉木宏

 別所長治・・・・・・・・・・筒井道隆

 荒木村重・・・・・・・・・・榎木孝明

 小早川隆景・・・・・・・・・田村正和
 吉川元春・・・・・・・・・・田村高廣
 吉川元長・・・・・・・・・・田村亮
 安国寺恵瓊・・・・・・・・・杉浦直樹
 清水宗治・・・・・・・・・・本木雅弘

 黒田長政・・・・・・・・・・中村獅童

 小寺政職・・・・・・・・・・金田龍之介

 徳川家康・・・・・・・・・・仲代達矢

平野久美子 『坂の上のヤポーニア』

2011年09月22日 | 西洋史
 2011年04月29日「『自然エネルギー』の幻想」 を読んで」より続き。
 著者は、ステポナス・カイリースの『日本論』(1906年刊)に、執筆時1905年からすればそのわずか8年前の「時事新報」に発表された福澤諭吉の「宗教は茶の如し」(1897年9月4日社説)が引用されている事実を指摘している(「第四章 文明開化の音がする」「福沢諭吉」、本書110-111頁)。
 こうしてみると、同時代における福澤の影響というものは、非西洋列強世界においてとても大きかったのかもしれないと思えてくる。
 それにつづいて、西洋で暮らし、西洋を理解し、かつ西洋と戦い勝った男である秋山好古が、福澤を尊敬し、自身の子供たちを慶應に入れたという逸話も、裏返しに――つまり国外へ視点を転じて世界を外回りに一周してから――その意味を考えてみるのもいいかもしれないとも思った。

(産経新聞出版 2010年12月)

汪輝祖著 劉強編訳 『官経』

2011年09月22日 | 東洋史
 著者は清代の科挙官僚(1730年生-1807年没)。おもに県クラスの地方官畑で一生の大半を過ごした人物である。その前には知県(県長)の私的スタッフ(幕僚・幕客)を長くしていたので、自分と同じ科挙官僚である知県(すなわち官)と、地元採用の実務職員(吏、胥吏)との境目にたって、その両方の世界を知ることになったという、わりあい珍しい経歴の持ち主だった。なお汪輝祖の人となりについては滋賀秀三氏による懇切な紹介がある。
 基本的に原文だけ読み、わからないところは編訳者による現代漢語訳を参照することにした。先日親の墓参の行き帰りに、列車の中および待ち合わせの駅のペンチで読む。
 読む前は、「宮仕えのバイブル」というから、生々しい清代官場の描写とそれを踏まえたノウハウの書かと思っていたのだけれど、実際には抽象的な処世訓ばかりだった。ただ事件死体の死因の見分け方、また諸手続の運営の手順については、さすがに詳細かつ具体的だが、そのほかの儒教の教えと引用をちりばめた綺麗事は、たぶん書いている本人も信じているまいと思った。それにしても、愛民だの節約だの教導だのと歯の浮くような綺麗事を、これだけ延々と書きつらねることができるというのは驚異である。
それはさておき、清朝の官僚が、またその幕僚が、公と私をどのように考えているのかを見たくて、その一例として読んでみたのだが、結論を言うと、すくなくともここでは、「公」は「お上」、「私」は「下々」である。べつに公共の意味もなければ公平の意味あいもなく、ただ「お上の御政道(支配、法律、徴税など)にかかわること」「お上が決めること(裁判、命令)」というだけの、記号のような使用法であった。たとえば「公事(公務)」の公がそれである。そこに含まれないものやことのすべてが、「私」である。

(哈爾浜出版社 中国 2007年4月)

「『デフレの正体』著者、ブログへ反論で賠償命令」 を読んで

2011年09月22日 | 思考の断片
▲「YOMIURI ONLINE(読売新聞)」2011年9月22日10時08分。
 〈http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110922-OYT1T00196.htm?from=main5

 この記事を見るかぎり、「あたまでっかち」で誰かを「揶揄し、侮辱するもの」になり、慰謝料を払わねばならなくなるとのこと。私も気を付けねば。この程度でそうなるのなら。
 それで想い出すのが、時々訪れるブログの筆者などはコメント欄で、わりあい平気で「馬鹿」「アホ」とか「ヴォケ」とかあるいは「中国の手先」とか言っているのだが(書き込みする相手のなかにも同じように「馬鹿」とか「死ね」とか「在日の犬」とか酷いことを書き込みする輩がいるのだが)、あれでおたがい訴訟沙汰にする・なるとは考えないのだろうか。

溝口雄三 『中国の公と私』

2011年09月22日 | 東洋史
 何度読んでもよくわからない。これまでのところわかるのは、もっぱら「公平」と「公共」の面から中国の「公」を検討しているということだが、どうして「公正」の面から考察しないのかという点になると、もうわからない。日本の公(おおやけ)と比較したうえで(どうも文体が晦渋でわかりにくいのだが)、どうして日本のほうにより批判的であるのか――つまりなぜ中国の公のほうが優れているといいたげなのか――も、わからない。そもそもたいして厚くもないこの本で、どうしてここまで枚数を費やして中国と日本のそれを比較しなければならない必要があるのかからして、さらにわからない。

(研文出版 1995年4月)

山口瑞鳳 『チベット』下 から

2011年09月22日 | 抜き書き
 2011年08月20日「中村元 『中村元選集』 2 「シナ人の思惟方法」」より続き。

 〔・・・・・・〕実体的時間を考察しない点は中観哲学史に見られる重大な欠陥と言うべきかもしれない。 (「第四章 チベットの宗教」「改革派の仏教」 本書297頁)

 そうですよね! 
 大分前のことになるが、ある中堅方のチベット研究者に、チベット仏教の「因明」の因(縁)果とアリストテレス以来の「形式論理学」の因果性はどう違うのかたずねたところ、「わからない」という返事だったので、自分で調べることにしたのだった。三支作法の「因」(因の三相)が、すくなくともよくあげられる山と煙の例では、質料因ばかりで動作因がない――つまり時間の観念がない――のはなぜなのかわからなかったことが、そもそもの発端だった。まだぜんぜんわからないが。

(東京大学出版会 1988年3月初版 1994年3月4刷)

手塚利彰 「ダライラマの出現とその歴史的背景」

2011年09月21日 | 東洋史
 櫻井よしこ/北村稔編『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか その侵略的構造を解明する』(文藝春秋 2010年10月)所収(163-206頁)。
 再読していてあっと驚いた。文中、パンチェン・ラマ4世と乾隆帝の会見(1780年)の有様について、石濱由美子氏の研究を引いて紹介してあるのだが、両者同じ高さの座席だったという(184頁)。ダライ・ラマ5世が順治帝と会見したときには(1653年)、ダライ・ラマの席のほうが低かったからだ(5世自身の証言。山口瑞鳳『チベット』下、1988年3月、103頁に引用されている)。どういうことなのだろう。チベットにおける地位はいうまでもなくダライ・ラマのほうが高い。

「【コラム】今日の任天堂を作ったオタク精神」(1)(2) を読んで

2011年09月21日 | 地域研究
▲「中央日報 Joins.com」2011年09月21日12時02分、金光旭(キム・グァンウク)韓国京セラミタ社長。
 〈http://japanese.joins.com/article/943/143943.html?servcode=100§code=140
 〈http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=143944&servcode=100§code=140

 「オタク」とは結局「数寄者」の謂かもね。外国語では、イギリス英語の "anorak" がこれにやや近いか。

栗原悟 『雲南の多様な世界 歴史・民族・文化』

2011年09月21日 | 地域研究
 雲南にはモンゴル族もいるそうだ。人口はわずか1.5万人、通海県のみに集住しているそうで、しかも元時代にここに移住してきてからの数百年のあいだにモンゴル語を話せなくなっているそうだが(現在は漢語か周辺の多数民族であるイ族の言葉を使用)、「村の中の廟にはチンギス・ハーンやクビライ・ハーンなどの像を安置して、モンゴル族としてのアイデンティティを保持し続けている」(168頁)とのこと。清代以来の満族もいる由(7,000人、昆明地区ほか)。もっともこちらについては言語状況などについて触れられておらず、どの程度、自らの民族的アイデンティティのよすがを保持しているかもわからない。
 民族的アイデンティティと言えば、革命後に民族識別工作が行われる過程で、雲南では、自分が何民族に属するのかわからない人が多数存在することが明らかとなったという(1953年第一回全国人口調査の結果。本書143頁)。
 ところで、迪慶チベット族自治州シャングリラ県(もと中甸県)のチベット族は、日本輸出用の松茸採取(栽培はせず自生のものを取るだけらしい)に従事しており、なかには“松茸御殿”を建てた者もいるらしい(174頁)。

(大修館書店 2011年4月)

Artemy M. Kalinovsky 『A Long Goodbye: The Soviet Withdrawal from Afghanistan』

2011年09月21日 | 地域研究
 当時のソ連指導部とそのほとんどを占めるロシア人の政治過程および“集合意識”(カバー表折り返しの編集部による内容紹介コピーから)に専らで、アフガニスタンに隣接する中央アジア諸共和国の指導者や国民/諸民族のそれはあまり触れられない(46-51ページあたりが主)。まとまった史料や情報が不足しているためか?

(Harvard University Press, May, 2011)