書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西川俊作/松崎欣一編 『福澤諭吉論の百年』 

2005年05月20日 | 日本史
 『ジャパン・タイムズ』の訃報記事(1901年)や国木田独歩の「福澤翁の特性」(1903年)以後、『慶應義塾学報』および『三田評論』に掲載された福沢評価の文章を、死去直後の弔辞や回想の第1部、福沢の著作や思想に関する論文や座談を集めた第2部、そしてジャーナリストとしての福沢に照明を当てた諸考察の第3部という構成で、収録してある。
 裨益するところが多い。なかでも第2部の「福澤諭吉の道徳観に於ける『理』と『情』との観念について」(カーメン・E・ブラッカー、1953年)および座談「福澤諭吉と窮理学 忘れられた側面」(辻村江太郎/西川俊作/柳井浩、1991年)、そして第3部「ヴェトナム近代における福澤諭吉と慶應義塾」(阮章収著/川本邦衛訳、1989年)には教えられること大だった。

(慶應義塾大学出版会 1999年6月)

▲この書では話題として誰も取り上げていないが、いま読んでいる尾佐竹猛『明治維新』(上下、宗高書房1978年4月復刻版)で、当時幕府の外国方翻訳局に務めていた福沢諭吉が第二次長州征伐の際に、外国から軍隊と費用を借りて長州を討つべしという小栗忠順(上野介)同様の建議を幕閣に行っていたことを知った。自筆の建議書が残っていて、「外国から金と兵を借りて早く長藩を征服し、全国を平定せねばならぬ」という趣旨だそうである(第五篇「幕権の擁護」第六章「幕仏密約」、下巻704頁)。
 いったいどういう積もりだったのだろう。
 福沢は明治四年頃まで、幕末以来の攘夷志士やそれが大挙して天下を取った(と彼は思っていた)明治新政府を、神懸りの狂人集団同様に見なして身震いするほど嫌っていたから、この時も、欧米列強を相手に元亀天正そのままの軍備と体制で戦争を仕掛けるようなあの阿呆藩の阿呆ぶりは国家の安全と独立にとって外国の借款よりも危険であると思い(福沢は幕府が長州征伐に踏み切っても列強が日本国内の内乱を口実に内政干渉や武力介入してくる事態はまず起こらないと見ていた)、いっそのことこれを良い機会に潰してしまえと考えたのかもしれない。