書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

尾佐竹猛 『明治維新』 上下 

2005年05月22日 | 日本史
DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典 第2版』より

尾佐竹猛 1880‐1946(明治13‐昭和21)
おさたけたけき

実証主義的な憲政史研究に先鞭をつけた歴史家。司法官。石川県生れ。明治法律学校(現,明治大学)卒業。地裁・控訴院判事を経て,1924年より大審院判事。42年退官。1924年に吉野作造ら8名と明治文化研究会を創立し,《明治文化全集》《幕末明治新聞全集》などを編集。主著に《維新前後における立憲思想》《明治維新》などがあり,《笛博と掏摸の研究》ほか,社会史に注目した研究も多い。新史料の発掘や聞書きを利用しての研究が光る。特定の史観に立って史実を裁断せず,常識による解釈をその主義とした。戦時下にも時流におもねらなかった” (宇野 俊一)

明治文化全集
めいじぶんかぜんしゅう

“明治前半期に関する最初の本格的文献資料集。吉野作造らの明治文化研究会が散逸しかかっていた諸分野の貴重文献を収集編纂,24編24巻にわかち,1927‐30年日本評論社より刊行。55年,戦後の社会事情から皇室編などを除き13巻を復刻,そのとき自由民権編(続)など新編3巻を加えた。67年よりはこの16巻に先に除かれた11巻と新編の憲政編(続),別巻3巻が加わり,計31巻が刊行された” (阿部 恒久)

明治文化研究会
めいじぶんかけんきゅうかい

“大正・昭和期の研究団体。1924年11月,前年の関東大震災で明治期文化財の大量消滅を憂えた吉野作造によって創立され,初期同人には石井研堂,尾佐竹猛,小野秀雄,宮武外骨,藤井甚太郎ら8名の民間研究者が加わった。会の目的は〈明治初期以来の社会万般の事相を研究し之れを我が国民史の資料として発表すること〉とした。例会では,同人および研究者の研究,同時代人の回顧談などが発表された。25年2月には雑誌《新旧時代》を発刊,27年2月までに23冊刊行,そのあと《明治文化研究》と改題した。28‐30年には,明治維新から明治憲法発布・議会開設までの近代日本形成に影響を及ぼした重要文献を網羅した《明治文化全集》全24巻を刊行し,その後の明治史研究の基礎をきずいた。なお,同全集に付された月報《明治文化》と先の《明治文化研究》を合して29年7月には《明治文化》を発刊,太平洋戦争末期の44年1月まで刊行しつづけた。会は1933年吉野作造が没すると尾佐竹猛を会長として研究活動をつづけ,多くの日本近代史研究者を育てた。戦後再興され,木村毅,西田長寿らを中心に,例会,新版《明治文化全集》全16巻刊行などの活動をつづけている” (由井 正臣)  (注)


 丸谷才一・木村尚三郎・山崎正和三氏の『鼎談書評』(文藝春秋 1979年9月)に、司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全7巻、文藝春秋 1975年12月)と海音寺潮五郎『西郷隆盛』(全9巻、朝日新聞社 1976年3月)とを並べて論じる回がある(「西郷隆盛、翔ぶが如く」、同書 203-216頁)。
 そこで山崎氏が述べた明治維新観がずっと頭に残っていた。

“明治の志士の中には、ある一つの強い定見をもって最初から最後まで一貫して行動した人物は、一人もいないということですね。(略)倒幕という思想が出てくるのはきわめて偶然的な事情によるようです。はじめ尊皇攘夷といっているうちに、井伊大老があの安政の大弾圧を行なう。このことが多くの人々に幕府の可能性を疑わしめた最初のきっかけになった。このあと次第に幕府について絶望が深まっていくのであって、最初から幕府を倒して、天皇支配の統一国家にしようと考えていた人はいないし、ましてや廃藩置県までやろうと考えていた人はだれもいないわけですね。/そこでどの個人の軌跡をとってみても、尊皇から公武合体、そこから倒幕へという間には、不思議な、論理でない、意思の移行がある。また攘夷から開国へという、まったく正反対の決意も、じつはだれも論理的に考えたのではなくて、成行きで生まれてくる。(略)/そういう段階的な論理の発展というのは、褒め言葉を使っていえば自然科学的な試行錯誤なんですね(笑)” (同書、207頁)

 “成行き”と“試行錯誤”の二語が、とりわけ印象的だった。
 尾佐竹猛『明治維新』は、まさにこの“成行き”と“試行錯誤”の明治維新観に立つ研究書である。

“固より結果から見れば、王政復古から、版籍奉還となり、廃藩置県となつたのは、当然の推移であり、大きな時勢の流れの必然的結果であるには相違ないが、此流れの中に泳いで居るものは、始めから斯く意識して行動したのではなかつた。慶応三年の王政復古は、明治二年の版籍奉還を予想せず、明治四年の廃藩置県をも、考へなかつたのである” (第一篇「総論」第三章「倒幕論と封建廃滅論」、上巻46頁。原文旧漢字、以下同じ) 

“これまでに屡述べた如く、尊王論は起こつても、これが討幕にまではなかなか一致しなかつたのである。尤もその間に血気の徒は、討幕の語を口にし筆にすることもあつたのであるが、その始めはその意味が頗る混沌として居り、或者は単に廃幕の意味に用ゐ、或者は幕府より政権を取り上ぐる意味にも解し・・・・・・これは幕府その者の存在を肯定しながら・・・・・・、稍進んでは幕府に反抗すること特に武力反抗又は武力的脅迫を指すの語ともなり、時には当面の将軍若くは幕府勢力代表者を排斥するの意味となつたこともあれば、徳川氏打倒といふこともあり、各藩の武力割拠の意味とも解せられたこともあつた。その当初は幕府無視から始まり、幕府反抗となり、武力発動と結びつきて、それが積極性を有するに至つて、終に、幕府の機構そのものを廃する為めに武力討伐を為すといふことに確定したのである。しかも、その機構の根幹たる封建制度そのものを廃滅するといふまでには至らなかつたのである” (第七篇「廃幕より討幕へ」序論、下巻801-802頁)

 上下合わせて本文だけで1378頁におよぶ大冊には、まさに“成行き”と“試行錯誤”の証拠となる事実が満載である。証拠となる事例が挙げられていないのでやや納得しがたかった山崎氏の発言が、これで完全に呑み込めた。
 さらには、以下の著者による大政奉還前後の政情に関する指摘で、この時期の政治状況の根本が、あたかも竹の刃を迎えて解くようにすらりと分かった気がした。

此頃の時期としては、倒幕か討幕かといふに止まり封建廃滅にまでは進展して居なかつたから、手段に緩急の差こそあれ、左翼も右翼も、帰するところは、幕府を廃すべし、徳川氏は存続せしむべしといふ程度であつた。しかし、それでは薩長としては、幕府としての徳川氏の命には服して居つたのであるが、一大名たる徳川氏としては介意する必要はないといふ方向に進んだのであるが、土藩としては、飽く迄も徳川氏を保存したい。苟も政権の地に在るならば、その名義の如何を問はず徳川氏をしてその地位に在らしめたい。万已むを得ず政権に離れても、平大名としても徳川氏を存続せしめたい、といふのであり、これが後々に至るまで薩長と相似てしかも行き方を異にした所以である” (第七篇「廃幕より討幕へ」序論、下巻854頁)

(白楊社 1942年11月初版、宗高書房1978年4月復刻版)
(白楊社 1949年8月初版、宗高書房1978年4月復刻版)

(注)
 どうもぴんと来ない説明ばかりである。この大作とそれを書いた尾佐竹猛という学者の凄さを感じることができない。別の出典からもうひとつ足しておく。こちらのほうがいいかもしれない。

谷沢永一『紙つぶて(全)』(文藝春秋 1986年3月)より

堅実な明治研究

△日本評論社の『日本文化全集』復刊増補版は、全二十八卷、別巻一巻、計二十九冊の刊行をこの二月に終了したが、さらに補巻二卷を続刊することになった。この全集は「新時代の群書類従」と評され、「海東の新四庫全書」とたたえられた大出版であるが、初版の部数が少なかったため入手難となり、法外の高値を呼んでいた。大佛次郎が数年前に東京中を捜して見当らず、シカゴの古本屋から再輸入したほどだった。
△最終回配本の別巻は、石井研堂の生涯の大作『明治事物起源』の新組み一冊本である。この大著は、明治文化研究のパイオニアであった吉野作造と尾佐竹猛が、明治文化研究の基礎的文献として寝食の時間も惜しんで読みふけり、座右をはなさなかったと言われ、徳富蘇峰が「博引、傍捜、精詳、明治年間の万宝全書というも過称でない」と称賛した名作である。吉野、尾佐竹なきあと、明治文化研究会の三代目会長をひきうけ、この全集の増補復刊に尽力した木村毅の労も、なみなみならぬものがある。
△明治文化研究会が、この全集復刊のわずかな印税を財源として、論文集『明治文化研究』を日本評論社からすでに二集まで出し、四集まで続刊の予定という。昭和四十一年十月には、田熊渭津子編『明治文化研究会事歴』(関西大学国文学会)が、四十三年七月には柳生四郎・朝倉治彦編『幕末明治研究雑誌目次集覧』(日本古書通信社)が出た。明治百年の形ばかりの式典や、イデオロギー上の反対運動とは別に、地味ながらこうした堅実な基礎作業がコツコツ続けられていることはじつに喜ばしい。 (同書、44-45頁。初出「読売新聞」昭和44・1969年5月3日)