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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

C. H. ドッド著 室野玄一/木下順治訳 『神の国の譬』

2016年07月02日 | 宗教
 おそらく譬は、ただ非ユダヤ的環境においてのみ、寓喩的に神秘化されたものと思い違いされたのであろう。ユダヤ人教師の間では、譬は一般的でよく了解されていた説明の方法であり、イエスの譬も形式においてはラビの譬と類似のものであった。それゆえ、なぜ彼が譬で教えたかという問題が起こったとは思われないし、なおさら、そんな当惑するような回答をうけとることもなかったであろう。これに反して、ヘレニズムの世界においては、寓喩的解釈を施して神話を用いることは、密教的教理の道具とされて、広く行きわたっていた。そしてこの種のあるものは、キリスト教の教師達の中にも見いだされるであろう。これが何ものにもまして、解釈を誤った線にもっていったのである。  (「第一章 福音書の譬の性格と目的」 本書18頁。下線は引用者、以下同じ)

 それでは、もしそれが寓喩でないとすれば、譬とは何であるか。それは、真理を抽象観念で考えるよりも、むしろ具体的な光景の中で見ようとする心の自然な表現である。  (同、19頁)

 寓喩=アレゴリー。

 もっとも単純な形では、譬は自然とか日常生活から取り出された隠喩 (metaphor) か直喩 (simile) で、聞く者達をその潑剌さや珍しさで捕え、それを的確に適用するに当たって心にかなりの疑惑をおこさせ、次第にそれを生きた思想にかえていくのである。  (同、19-20頁)

(日本基督教団出版部 1964年8月)