書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

首里王府編著 諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』

2013年02月22日 | 東洋史
 完全な現代語訳。1650年成立の本書の原文はインターネットで見られるが(「伊波普猷文庫」)、主たる編者の羽地朝秀(向象賢)のお手並みをばいざ拝見せんとす。
 全巻を通読するのはこれが初めてだが、通読してみた分かったことがいくつかある。

 1. 伊波普猷文庫の『中山世鑑』でも確かめたが、最初の「序」と続く「中山王世継総論」の部分は、漢文で書かれている。よく言われる、「和文で書かれている」というのは巻一以降。本文中で引用・紹介される漢文史料(中国皇帝による冊封詔勅やむこうの官庁とやりとりした文書等)も、むろんのこと原文のまま。

 2. 『中山世鑑』では、本文が和文体であるにも関わらず、年号表記は中国の元号を用いている(正しくは中国の元号何年+干支)。ただし冒頭巻一の、日本関係部分(保元の乱及び源為朝の日本脱出・琉球漂着まで)は、日本のそれを用いている。
 (この書は、琉球王室は為朝が此の地の女性と為した子が琉球最初の王・舜天になるという「物語」のもとに書かれている。)

 3. 奄美大島のことを、住民ともども、「北夷(大島)」などと書いてある(巻五、「宝口一翁寧公の碑文」本書166頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』78頁)。沖縄本島人が先島諸島を蔑視・差別していたほことは以前から知っていたが、奄美群島も見下していたことをあらためて知る。沖縄の小中華思想と呼ぶべきか。

 4. それに関連して、自国内では中華でも、国外では、特に中国に対しては、藩属国でしかない(王国であり君主は王でしかない)ことの現実のねじれが、そのまま書き手(そして編纂者)の意識のねじれとなって、半ば無意識に表出しているかのように思える表現がある。巻四「成化十三年丁酉尚宣威王御即位」(本書134頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』「成化十三年丁酉尚宣威御即位」65頁)で、「王座」であるべきところを「帝座」と書いている。

 5. 最後の第五巻は尚清王の一代記なのだが、史書、特に紀伝体としての体を成していない。統一的な執筆・編集方針が窺えない。とにかく残る種々の関係史料を全て並べたという観がある。本書が編纂される約半世紀前の薩摩による侵略によって琉球では大量の文書が失われたというから、これ以上の散逸を防ぐという意図もあったのかもしれない。

 6. 『中山世鑑』の「総論」は、全体の要約である。内容的によく纏まっており、分量も多い。3と4でのべたような事大の礼に欠ける処もない。折り目正しい古典漢文である。ただし、英祖王の業績を賛美して、「堯や舜の聖王といえども何も加えることは無いほどであった(雖堯舜無以加)」と書いてある(本書19頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』10頁)。ここは、中国の読書人や科挙官僚が読んだら首をかしげるか苦笑したかもしれない。いくら宋以後の新儒教では「聖人学んで至るべし」となっているとはいえ・・・。

 7. そこで思うのだが、徐葆光が『中山伝信録』(1721年)で読んだと記している『中山世鑑』は、漢文で編まれた『中山世譜』の誤りなどではなく、或いはこの時新たに作られた可能性のある『中山世鑑』の漢訳でもなく、この「総論」ではなかったか。――と考えたりもしたが、しかし1609年の薩摩侵略・琉球征服の事実とそれ以後琉球が薩摩に朝貢している事実(=つまり薩摩の藩属国=そして日本の附庸国となっていること)も書いてあるから、これは見せられないだろうと思い直した。中国(明、そして明を承けた清)は、その事実は発生後ほどなく把握していたが(沿岸地方の長官クラスから朝廷に事態を報告する上奏文が残っている)、建前上ずっと知らぬ振りをしていた。琉球側としても、薩摩の命令もあり、真実を伝える訳にはいかなかった。

(榕樹書林 2011年6月)