書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「『ウ飼い経済』の亡霊>かんこくだもの」

2012年04月03日 | 思考の断片
 「ご隠居さんのこりあうぉっちんぐ」2009/11/15 11:29。
 〈http://bit.ly/HL5Xby

 ご隠居の本文ではなくコメント欄。
 「報道がこんな躁うつ病状態では、読者も躁うつ病になるのでは?」
 という発言。
 まことにその通りで、私は毎日起きてから相手国の時間帯に会わせて内外のメディアをチェックするのだが、韓国の(および北朝鮮もだが)報道に接すると、不愉快を通り越して鬱々となるのである。
 数年前、仕事の必要もあってかの国の”現在”にひときわ関心を向けるようになってから私の精神状態は悪化した気がする。それ以前に反日デモ前後の中国の”現在”に接して以来、かなり機嫌気分は悪くなっていたのだが、それがやっと直ったところに韓半島のそれと当たった。
 なぜこう嘘ばかりつくのだろう。なぜ何かと言えば日本と比べるだろう。なぜ坦懐にここは自分、ここは相手と、善いも悪いも、優劣も、認めることが出来ないのだろう。他人は貶すばかり、自分は褒めるばかり。事実を平気で曲げる、現実を受け入れない。臆面のないという表現でもまだ足りない。
 嘘ばかり、自分の非を認めない、臆面のないというのは中国のメディアにも共通しているが、中国の場合は口にしている、あるいは筆に上せている本人が信じていない節がまま窺える。ところが韓国の場合は(北朝鮮の場合はちょっと違う気がする)、本心から信じ切っているように思えて気味が悪い。
 中国のメディアは基本的にどれも党と政府の走狗だからはなから公正報道など期待する方が愚かであって、それはそれで納得がいく。働いているのは馬鹿かしからずんば嘘つきしかいない。当然のことである。北朝鮮もそうだろう。しかるにいやしくも自由社会の韓国でこの有様は何事であるか。程度が低すぎる。
 三大紙で、我が国の大凡スポーツ紙や芸能ゴシップ紙程度の水準しかない。隣国の民ながらいわせてもらえばこれは韓国の国辱といっていい。それを放置しているのは国辱の上塗りである。たまに申し訳程度に自国の反省記事を載せたところで、それは言い訳にしか聞こえぬ。
 中国の場合、本当に優秀な人間は自然科学や考古学に逃げて、歴史を初めとする人文科学や社会科学、つまり党国家の検閲にさらされる学問分野にのこるのは二流以下と聞いたことがある。マスメディアもたぶんそうだろう。すすんで、あるいは分かっていて体制の喉と舌になるわけであるから。
 韓国の場合はどうなのだろうか。中国人もそうだが、韓国人でも個人として立派な、というか常識を弁えた人は個人的に知っている。声がでかくて目立ちたがるのが人間としてくずであるのは日本では通弊であるが、中国でも韓国でもその事情は変わらないのであろう。
 しかし問題は、日本の三大紙は、とばしや誤報はあるにせよ、韓国のそれのように、わかっていてデマを書いたり、「日本を抜いた!万歳」みたいな下品な記事を書いたりはしないということだ。中国でも「人民日報」「新華網」のようなトップメディアは、上品とはいえなくても下品ではない。
 政府が誰か何かを攻撃する政策に乗り出したときは別だが、平素は概して冷静である(内容の正否ではない)。ところが韓国のメディアは平素から常軌を逸している。そして品性が下劣である。あれは一体どうなっているのだろう。毎日つきあわさせれていると、これは国格の問題かと思いたくなってくる。
 昨年秋、済州島に行ったとき、日本語の流暢なガイドさんから、「韓国人は思ったことをそのまますぐ口にだす。日本人はいろいろ考えて出さない。それが大きな違いね」という言葉をきいて、ああそうかと思った。
 感情の振幅が激しければ激しいほど、結果として事実でもないしいつもなら思いもしない(すくなくとも意識下では)言葉を吐くだろう。それは事実に基づくものでもなければ、理論的でもない。その場かぎりの、たとえはわるいが、人間の言葉の姿を取ってはいるが動物の鳴き声に近い。
 韓国のメディアの報道や言説というのは、一面もっともらしい言葉遣いでつづられているが、要はこの動物の鳴き声程度のものなのではないか。実はかの国の一般人も眉をひそめているのではいかと推測する次第である。

 追記。韓国のメディアおよび愛国者の行動様式は、衛正斥邪思想の伝統を引き継ぐものなのであろうが、その衛正斥邪思想とは、国家の為といいながら必要とあらばその国家を形成する国民を殺すのを躊躇しないという、正気を失った体のものである。